湯気の上る熱そうな若葉色の液体が注がれた湯のみを朱塗りのお盆に乗せて歩く。

妖は進んで洋服を身に着ける事が少ないからと強制的に着つけられた渋い茶色の着物の裾を意識しながら歩くのは結構難しい。
お盆に乗せた湯のみの中身、これはお茶では無くて薬なんだそうだ。
忙しくて手が離せないからお前が持って行ってくれと渡されたそれは、あの珍しい宿泊客の為に煎じた物らしい。
くれぐれもお前が人間だと分かる事の無い様にと何度も言い聞かせられた事を思い出しながら、奥の襖の一つの前に膝をつく。

懐から長短の切り込みが入れてある木片を取り出すと、目の前の錠前に差し込んだ。
どの襖にもこの錠前はついているが、鍵が無くても開く。
しかし木片で出来た鍵を差し込んだ瞬間にカチリとどこかで音が鳴り、目の前の襖にじわりと『は−参』と朱の文字が滲み出てきた。
『は』というのは多分『いろはにほへと』の『は』だろうと検討をつけながら襖を引く。


「失礼します…」


頭を下げ、中に入るとそこはいつもとは違う部屋だった。
庭がある部屋は俺がいつも昼寝している部屋だけだ。
他はどの部屋も似たり寄ったりな筈なのに、その部屋は丸窓があり、簡素だが美しい装飾のされた文机が一つ置かれていた。

窓に頭を乗せるように壁に凭れながら足を伸ばしている男性が顔をこちらに向ける。


「お薬、お持ちしました」


そっとお盆を文机の上に乗せて下がろうとしたが、輪郭が分かると言ってももしかしたら置いた場所が分からないかもしれないと思って思いとどまる。


「え…っと…」


少し迷った後、男性の手に自分の手を重ねた。

びくりと驚きからか身を震わせた男性がこっちを窺うように顔を向けてくるのが分かる。


「ここの、机の上にお盆があって…ここに湯飲みがありますからね。あ、熱いから気を付けて」


彼の手を側の文机とそのお盆に誘導して喋る。
その間、ずっと男性はなされるがままにされていた。


「…何か、寂しいですよね、この部屋」


こうやって包帯を巻いているという事は外の風景も見えないし、本だって読めないんだ。
今時の様に音楽を聞けるわけでもないから、暇で仕方が無いような気がした。


「…あ、ちょっと待っててください」


ふと思いついて男性に声を掛けてから部屋を出る。
すぐさま目当ての物を手に持って戻って、文机の上に置いた。
何をしているのかさっぱり分からないのか小首を傾げて顔だけ向けている男性の手を再度とって、机の上に置いた一輪挿しに導く。


「あの、これ。俺が良く使う部屋の庭に綺麗に咲いてるから、1枝だけ持って来たんです。
見えなくても、匂い。分かりませんか?」


匂いの強い金木犀は1枝だけでもこの部屋を満たすくらいの匂いがする。
見えないならば香りで、と思ったのだけどどうだっただろうか、と顔を見ると不思議そうな表情…というか、空気を醸し出して、男性が俺に手を伸ばしてきた。

大きくて厚い、男らしい手が頬を触る。
それは俺の顔を確かめるようにそろそろと動かされ、親指で唇、鼻筋、瞼、眉をなぞっていく。


「……」

「……」


別に全然不快じゃないからその手を跳ね除ける事をせずに無言でいると、そっと男性の手が離れた。


「……名は、何と」

「!」


何となく喋れないのだと思っていたから、びっくりして思わずまじまじと男性を見てしまった。
思ったよりも若く、抑揚の余りない低い声はそう言ったきり他の言葉を放とうとはしない。


「え、っと…久です」

「…ひさ」

「はい」

「……俺は、『とうどう』と言う」

「とうどう、さん」


とうどうさんは俺の手を取ると、手の平に指で字を書き始めた。
節のある長い指が手の平をなぞるのが擽ったい。


「『遠』に、『百』…と書く」

「へぇ…遠百さん……あ、俺は久しぶりの『久』です」

「……そうか」


ふっと笑みを浮かべた遠百さんはそれきり口を開かなかったが、何となく嬉しそうに口の端に笑みを浮かべていた。



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