真名とは、生まれた時に与えられた自分の本当の名前の事。
それに対して、仮の名前…二苗さんの言葉を借りると「あだ名の様なもの」が仮名らしい。
それを他に教える事は、人ならざるモノにとって人間が人間に対して自分の名前を教えるのとは比べ物にならないくらい重要な行為なんだそうだ。
『それは何にも変えがたい大切な物。これを教える事は相手に自分の人生を与えるのと同じ』
唄うように二苗が呟いた。
『あっしらはそれ程に名前というものを大切にしておりやす。
ですからそんなあっしらに人の子が生半可に名前を教えるのは、命をほいほい与える様な危ない行為なんでやんすよ』
これを妖同士で教える事など中々無いが、人に教える事はそれに輪を掛けて無いという。
『あっしらが人の子に従属する時は、言葉で契るのが一つ、真名を教えるのがもう一つ』
言葉の方は契った方がその言葉を破棄すれば従属の契約は無くなるらしい。
しかし真名を教えた時はそれはどちらかが死ぬまで続く堅固な契約となる…という話だ。
「だから俺はこいつらを兄貴からひっぺがせねぇんだ」
苛立たしげに円は双子の狐を睨み下ろした。
『まあまあ良いじゃないでやんすか。
従属するって事は逆らえないってことなんでやんすから、彼らによって久殿の身が危ない目に晒される事はないでやんすよ』
「俺は兄貴の側に前達みたいな類のモノを一切置いておきたくなかったんだよ!」
『あ、アレでやんすか、今流行りの「ぶらこん」とか言う――…』
「猫、お前の尻尾裂いて四又にしてやろうか…?」
『い、いえ、結構でやんす…』
円の顔を見て引き攣ったような声を上げ、棚の奥に二苗さんは引っ込んだ。
「…あれ、じゃあ大丈夫なの、俺さっき円の名前呼んじゃったけど…」
「うんまあ、今も呼んじまってるけどな、馬鹿兄ぃ」
円が微笑んだ。目が笑って無い…こ、こわい。
「それは大丈夫だ。『自分から教える』って行為じゃ無い限り相手に自分の真名が分かる事は無い」
試しにそこの双子の本当の名前読んでみろ、と言われたので呼ぶ。
『なんでしょう!』
『何でも申すが良いぞ、ヒサ』
目をきらきらさせて双子が俺の足にすり寄った。
「あーもう、止めろ、兄貴にくっつくな、ズボンに毛が付く!もう良いから人間の姿になれ」
心底嫌そうな顔をして円はしっしと手を振る。
「今兄貴はコイツらの真名を呼んだと思うけど、俺には何を言ってるのかわかんねぇ。
そこだけ声が遠くなるんだよ。人ならざるモノに関しての名前はそういう風になってる」
「へぇ…そうなんだ」
俺は欠伸を噛み殺しながら俺は相槌を打った。
何だか凄く眠い。
そんな俺を見て円の眉間に皺が寄るのが分かって俺は慌てて両手を振った。
「いや、聞いて無かった訳じゃないから!なんかちょっと眠いだけで…!」
「…そうか」
円は俺をもう一度見た後、白い虎を指さした。
「これは貘な。夢を食って糧にするモノ。
本当は形は熊、鼻は象、目は犀、尾は牛、脚は虎、色は白と黒だが…あんたは亜種か」
『…そうだ』
苦しそうに白虎は頷いた。
動物の表情というのは分かりにくいけど、耐えているように見える。
「百舌君、辛かったら横になった方が良いかも…」
白虎に手を伸ばしたら、半歩程身を引かれてしまった。
『お前は…我が怖くないのか。我が人で無かったと言われてそんなすんなりと受け入れらるのか?』
「え、うん、まあ…こう、すんなりと入って来るんだよね」
苦笑して見せると百舌君の目が見開かれた。
そこに宿る光は何なのだろうか…。
百舌君は訴えるような目で後ろを向いた。
俺もそれにつられて目を向け、そこに無言で珠誉さんが立っているのに気付いた。
「あ…」
いつも感情を映していないだけの瞳はいつにも増して何も映していなくて、虚ろな紅の闇が広がっていた。
それが無性に悲しくて、俺は立ち上がって珠誉さんに近寄った。
「アンタも元の姿、見せてもらおうか」
でも伸ばした手が珠誉に届く前に円の冷たい声が響く。
ゆっくりと珠誉さんの瞳に瞼が下ろされると、白い指が珠誉さんの額を数回叩いた。
めきめきめき…っ
木が軋むような音を立てて珠誉さんの頭から二本、角が生える。
それだけではなく、額も盛り上がり、そこからも二本、角が生えた。
額の方は小さく、頭の方は大きい…純白の四本の角。
瞼がゆるゆると開かれて、白目の無い、輝く紅と細い瞳孔のみの目が俺を捉えた。
前の姿の時も人離れした美貌を纏っていたが、完全に人ではない美貌になってしまっていた。
『…これが私の本当の姿』
珠誉さんが口を開くと、鋭い歯が口から覗いた。
犬歯だけではなく全ての歯が刃の様に尖っている。
なんて―――綺麗なんだろう。
猛烈な眠気と戦いながら俺はそう思った。
不思議と恐怖や、恐れを感じない。
まあ、元から感じにくいんだけども。
こんな綺麗な生き物を俺は見た事が、無い。
…駄目だ、眠い。
凄く、眠い。
ね、むい―――…。
『私は堕ちた鬼です』
そう珠誉さんが言うのと同時に俺はその場に崩れ落ちた。
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