「ほっ!やっ!とうっ」
あーあ、ついてない。どうして今日日直なのかなあ。数学の先生は背がおっきいから、黒板の上にびっしり書き込まれた白い文字をこうやって消さなきゃならない。もうさすがに跳ぶのも疲れた。 はあ、誰も居ない放課後の教室は小さく漏れた息をより一層切なく感じさせる。仕方ない、少しつりそうになった足をもう一度折り曲げて盛大にジャンプ。
「とりゃ!」 「なにしてんだお前」
ジャンプしたと同時に私の手から黒板消しがひょいと取り上げられた。そしてスースーと滑らかな音を立てながら黒板の文字たちが消えてゆく。
「ブンちゃん!」 「お前背ぇ低いなあ」 「む!ブンちゃんだってちっちゃいじゃん」 「ふん、名前よりはでかい」
風船ガムを膨らましながら得意げな顔をして、ブンちゃんは黒板消しをコトンと置く。 ブンちゃんと私は幼なじみ。気付いた時にはお互い隣にいるのが当たり前で、それは中学に入っても変わらないんだってそんな不確かな確信をどこかでしてた。だけどブンちゃんはテニス部に入ってすごい人達に囲まれて、私は少しだけ寂しくなった。でもテニスをしているブンちゃんはすごく楽しそうで、私にはとてもあのきらきらした世界へ入ることはできないだろう。
「ブンちゃん、今日部活は?」 「んーサボった」 「え」
「丸井ー!どこだ!無断欠席とは許さんぞ!」
廊下から聞こえる大きな声に、ブンちゃんは「げ…」と一声漏らすと私の鞄を肩にかける。そしてまだ意味が分からずあたふたする私の腕を、ものすごい勢いでひっぱった。
「ちょ!ブンちゃんどこいくの」 「帰る」 「真田くんが…」 「無視しろ」
グイグイ強引に引っ張られて、追い付かない足がぺたぺたと鳴る。ブンちゃんはただ前だけを見て、進んでく。いつの間にかすごくすごく大きくなった背中から目を逸らすように、視線を床に落とした。
ちょうど校門を出たところで強く掴まれていた腕がするりと離された。ほいっ、とブンちゃんの手から私の鞄が投げられる。
「あーあ明日俺、部室掃除かな」 「真田くんのビンタもじゃない?」 「あと幸村の言葉攻め」 「柳くんの説教」 「おー、怖!」
夕日に赤い髪をきらきらさせて、ブンちゃんはケラケラ笑う。少し冷たくなった風にも負けないような真っ赤。やっぱり、眩しい。けれど腕にまだ残る赤い痕がここに私がいることを許してくれている、都合がいいけどそう思うことにした。
「なあ」 「んー」 「聞かねぇの?」 「んー?」 「どうして部活サボったのか、とかさ」
町の景色は何時だって変わらない。昔から、私たちが小さいときから。いつからこんなに寂しくなったのかな、隣には今もこうやってブンちゃんがいてくれるというのに心の奥が見えなくて冷たい空気を吸うことしかできない。
「名前」 「んー?」 「今日A組の鈴木から告られた」 「うん」 「一昨日はE組の白田に好きっていわれた」 「うん」 「俺、モテモテじゃん」 「ブンちゃんカッコいいもんね」
見えない。眩しくて遠すぎて見えない。怒るわけでもなく笑うわけでもなく哀しむわけでもなく淡々と溢れる言葉に、ああ私はなんて可愛くない女の子なんだろうって思う。春みたいにいつもあったかいこのポジションもいつかは誰かに奪われてしまうのかな、ああきっとその時は神様も太陽も私を嘲笑う。
「お前さ好きなヤツとか、いるの?」 「どうかなあ」 「いんのかよ」 「今日ね、ブンちゃんのクラスの高原くんに話しかけられたんだよ」 「…なんて」 「彼氏いるのか、って」 「死ね高原」 「かっこいいよね〜高原くん」 「好きなのかよ」 「さあ?どーでしょう」 「お前、変な男に引っ掛かったりすんなよ」 「…ばか」
意味が分からない、そんな顔をして私を睨むブンちゃん。変な男に引っ掛からないように、なんてもう手遅れだ。ずっと前から私は引っ掛かってるよ。何度こうして並んで歩いても伝えられないくらい、情けない程に。ねえブンちゃん目離さないで、私どっかに行っちゃうよ。
「…俺の好きなタイプはさ」 「食べ物くれる子」 「ばかやろう、そうだけどちげーよ」 「やっぱそうなんだ」 「だから違うっつーの」
ぷうっと膨らんだ風船ガムが、爽やかなグリーンアップルの香りを放ちながら弾ける。苦笑いが溢れるほど、林檎の香りはもう私の脳内に染み付いていてチリチリと胸を熱くする。
「俺の、好きな子はさ。 なーんか憎たらしくって、でも憎めなくてちょっと強がり。だけど時々可愛くて、いつも隣に居てくれるヤツ。ああ、あと黒板の上まで手ぇ届かなくていっつもピョンピョンしてるバカ」
ブンちゃんの横顔は少しだけ赤く染まっていて悔しいくらいニコニコしてる。冷たい風も町の夕日も揺らめく心も全部全部奪い去って、優しい贈り物みたいな笑顔を私に向ける。そうだ、忘れてた。いつも隣にいてくれる君も眩しいくらい輝く君もおんなじくらいかっこよくて大好きだっていうことを。きっとブンちゃんは私が何回悪い夢にうなされたって何回だって起こしてくれる。そのたびに優しい贈り物を添えて、私の頬を赤く染め上げるんだ。
「理想はな、手作りのクッキー持って好きだって言って欲しいんだ」
耳まで真っ赤にしてそう告げるブンちゃんに、ベタだなんて声を上げて笑うと頭をコツンと殴られた。ねえ、神様みてる?私の好きな人はいとも簡単に世界を変えてしまう。真っ赤な夕日さえも飲み込んできらきらした世界をつくりだす。 私たちが一緒に過ごしてきた時間はまだまだ始まりにすぎないのかな。だとしたら未来はきっと目眩がするくらい素敵だよ。絡ませた指が今までの終わりと優しい始まりを告げる。長い夢から覚めた私は、目を細めながら眩しい世界へ飛び込んだ。
温かい夢から覚めた 優しい朝のはじまり
ほんのり温かいクッキー片手に、走り出す日曜の午後。
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