ハリポタ 人を愛した死神 | ナノ
act.08 逃走
朝、キリーを見送ってからも胸にあるジクジクとした気持ち悪さが消えない。 気持ち悪さを胸に抱えいるとジッとしていられなくて、家の中を行ったり来たり。
窓から見える空は灰色。
基本的にあまり晴れる事がないからいつもの事で気にする必要もないのだけれども、今日はこの天気すら僕の気を滅入らせる。天候に左右されるなんて馬鹿らしい。そう思うけど、やっぱりしょげる気持ちはどうしようもなくて、それが余計に気分を滅入らせるんだ。
気晴らしに外に出たいと思ったけれど、行くあてもないからベッドに寝転がった。
見える天井は白。
吊るされた白熱電球は、今は光を点さずに窓から入る弱い光を受けて艶やかに見える。
窓の外からは鳥の声がするだけで、人の話し声は聞こえない。
それはそうだ、今は子供は学校に、大人は仕事に行っている時間なのだから。
目を閉じる。音だけが世界と僕を繋ぐ唯一のものになるこの時間を、僕は孤児院に居た時から一番好んでいた。小さな要塞の中に隠れられたような気持ちになったから。
けれど、今は自分の体を要塞にして心を守る必要はない。だってここは僕の部屋で、この家はキリーの家で、キリーは僕を傷付けないから。
僕の心はもう大人に踏みにじられたりしない。傷付きもしない。その事実が僕を安心させた。
けれど、これで良いのかとも思う。この数週間、確かに僕は傷付かなかった。
それはキリーが食事も寝床も着る物も用意しているからで、僕を傷付ける奴等と会うことがなかったからで、それはとても楽だった。そしてキリーはこの生活を続けようと提案してきた。
信じていいのだろうか。
キリーは今のところ怪しい部分はない。あいつはきっと馬鹿だ。医者で頭は良いかもしれないけれど、人として生きることに関しては馬鹿だと思う。
だからキリーを信じても問題ないと思う。
けれど、人をそう簡単に信じていいのかな。キリーも大人だ。狡猾な部分を持っていて、僕を安心させたところで手のひらを返すかもしれない。
そうだ、キリーも大人なんだ。
やっぱり信じちゃ駄目だ。
僕がキリーを利用するだけ利用しても、キリーに利用されることはあってはならない。キリーが例え本当に良い奴だったとしても、信用はしちゃいけない。
閉じていた瞼を開ける。
先日のキリーの提案にはまだ答えずに、居られるだけ居て、何処かに行けるだけの力を得たら何処かに行こう。
夕方くらいだろう、空がもう夜になると告げる時間にチリンとベルが鳴った。
何の音だろう。 廊下に顔を出すけれど、音はしない。
でも、確かにこの家で鳴った音だった。
チリン。
またベルが鳴る。まさか……空き巣? キリーが泥棒に気を付けてと言っていたけれど……でも空き巣がわざわざベルを鳴らすとは思えない。……じゃあ、何?
分からない。
見えない誰かがどういった人なのか気になって、足音を立てないように廊下に出る。
音源だろう場所を確認するために耳を澄ませば、音の元は階下のようだった。 木製の階段を一段ずつ降りて、極力音を押さえて音源に近付く。
チリン、という音を奏でるのは玄関だった。 外に取り付けられた紐が引っ張られて、玄関扉に付けられたベルが鳴らされているらしく、来客だと告げている。
「……」
やっぱり、キリーに客だろうか?
生憎、キリーは居ない。 外に居る人にキリーは居ないと言おうと口を開きかけて、止める。
誰が来ても開けちゃいけないよ?
キリーは確かにそう言った。 もしかしたら、客のふりをした怪しい人かもしれない。
キリーは日中仕事だって、キリーの知り合いなら知っているはずだ。 それなのに今来るのは、どう考えてもおかしい。
部屋に戻ろうとも思ったけれど、足音を気にしながら階段を三階まで登るのは疲れるから、外に居る人が帰るまで息を潜めて待つことにした。
外の人、早く帰らないかな。ベッドでゴロンってゆっくりしていたい。あのベッドは本当に寝心地が良いんだ。
くあっとあくびをする。そろそろ帰ってくれるかな。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
扉越しに問うて来るのは女性。 その声音に、心臓が凍り付く。
さっきまであくびをして伸び切っていた口が、硬くなる。
「トム?いるのでしょう?出ていらっしゃい!」
身体がビクリと勝手に跳ねた。 徐々に女性の声は大きくなる。
ヒステリックな叫びは耳に痛い。 僕はこの耳の痛みを知っている。
嫌と言うほどに。
僕の人生に、魂に刻まれた声だ。
「トム?トム!寝ているなら起きなさい!帰りますよ!」
呼び鈴ではなく、ドアを叩く音。 ダン、ダン、と音が響くたびに心が凍りそうになる。 耳を塞いでも指の隙間から入ってくる音が耳に反響して頭が痛い。
奇妙な緊張感に圧迫されて吐きそうだ。
「トム!」
ヒステリックに叫ぶ女の声。 扉一枚隔てた向こう側が怖い。
何であいつがここに来ているの。僕は何でこんな怖い目にあっているの。 せっかく逃げ出したのに。
あそこでの痛いのも苦しいのも悲しいのも、やっと解放されたと思ったのに。 連れ戻されたら、何の為に僕が逃げ出したのか分からない。
こんな小さな家に立てこもっていても、扉はいつか開けられる。
破られて、引っ張り出される。
女が迎えに来た。
僕は戻される。
あそこに戻されるのだ。
そんなの、嫌だ。
絶対に嫌だ。
逃げなくちゃ。
女が扉の前から動かないのならば、裏口から出て逃げれば良い。
分かっているのに、僕も玄関の傍から動けなかった。足から力が抜けて、立てない。
でも逃げないと、キリーが帰ってきたら外に居る女と会ってしまう。そうしたら僕の出所が分かって、僕を女に引き渡すに違いない。
迎えが来てよかったね、と言って笑顔で渡されたらどうしよう。そうしたら僕は、二度と逃げられない。
立たなくちゃ。
逃げなくちゃ。
手を床に付いて、力を込める。 身体が傾きそうになるから足を踏張って、一階の奥、裏口へと進む。
逃げてどこに行けば良いのかなんて分からないけれど、もうここにはいられない。 裏口の扉を開けるとキイと蝶番が音を出して、それだけでも僕の心臓は跳ねた。
暫く周りの音に耳を澄ますけれど、虫の音や風の音しかない。
大丈夫、女は気付いていない。
一歩を踏み出す。
裏庭は芝生の生えた大地だから足音はしなくて、これなら大丈夫だ、正面にいる女には気付かれない。
僕は隣の家の庭に入って、キリーの家から抜け出した。
走って走って、気が付いたら赤煉瓦の家に囲まれていた。
キリーがこの周辺は見分けが付かないと言っていたのを思い出す。
だから庭の作りで覚えるんだよって、言っていた。 でも、何も考えずに走ったから分からない。
ここはどこだろう。 どこに行けばいいのだろう。
まっすぐ?
右?
左?
分からない。
足が勝手に後ろに下がる。
駄目だ。
戻ったって意味はないのだから前に足を進めるしかないのに、行く当てがない足は地面にくっついて歩きづらい。 孤児院を脱走した時は闇に染まってて、人が誰もいない世界でただただ月が僕を導いてくれた。だから怖くなかった。
でも今は雲の切れ間から溢れ出た夕陽の赤い光によって地面も住宅も温かい色に染まっていて、人が行きかっていて、そんな中に一人でいるのが凄く嫌だった。
大人と手を繋いだ子供が楽しそうに笑っているのが不快だ。
大人は僕の存在を認識して一瞥するけれど、やっぱり自分の子供が大切だからすぐに視線を子供に戻す。 途端に胸にぽっかりと穴が開いたような、それでいてザワザワと虫がお腹の中を走り回るような、奇妙な感覚。
なんだろう、これ。
何でこんな嫌な気分になるのだろう。
僕の伸びた影を誰かが踏んでいく。
僕の影は知らない人に踏まれて、ぐちゃぐちゃになってしまいそう。
まるで、大人に振り回されている僕自身みたいで、ひどく惨めだ。
自分の影が自分を投影していて、嫌で嫌で、住宅の影に身を潜める。
陽射しのささない裏路地に入ると、たちまちひんやりとした空気が僕を包み込む。その空気は、僕を待ち望んでいたようだった。
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