ハリポタ 人を愛した死神 | ナノ
act.18 契約書
トムが寝ている間に抜け出そうと思っていたのに、まるでこちらの思考を読んだように夜明け前にトムは起きてきた。眠たそうにしていない様子から推測するに、不安や興奮で眠れずにずっと起きていたのだろう。
白目が少し充血しているから、眼球全てが赤く染まってしまったようだ。
眠れないほどの不安を拭い去ってやれなかったことを申し訳なく思う。こんな小さな体で、三階の部屋に一人ぼっちで、押し潰されてしまいそうな不安にじっと堪えていたのだ。
こんなちっぽけな子供が大人二人に手を別々に引っ張られて、こっちだこっちだと言われているような姿が想像される。どちらの大人も手を離さないから、トムは千切れてしまいそうな苦痛を全身に感じているのだろう。
けれど、それも今日で最後だ。相手が引っ張るのを辞めたならば、私も手を離すことが出来る。そうなればトムが望んだ形で自由になるのだ。大人の拘束に雁字搦めにならず、人として素直な行動がとれるようになる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます。今日は何があっても外に出てはいけないよ?」
「分かっているよ。心配性」
私が不在になることを先方は知っている。この時を狙って家に押し入られたらという不安は払拭されない。本当ならば1人になんてせず、当事者であるトムも孤児院へ連れて行くべきなのかもしれない。
しかし、この子はシスターが来た時に寒空の下へ逃げ出すほどに孤児院という空間を恐れているのだ。そんな所に連れて行こうとは思えない。それに、私自身も連れていきたくないのだ。もし、万が一、孤児院に心を許した人がいて、その子に会う事でトムの決心を揺るがすことはしたくないという、エゴがある。
いつもと同じように額にキスをして、頭を撫でて家を出る。外には馬車があって、乗り込むと既に弁護士が居た。
「お早う御座います」
「おはよう」
出発の合図として天井を2回叩くと、馬車はカラカラと動き出す。石畳の道を進む蹄と車輪の音はきっと安眠の妨害をしていることだろう。夜明け前の閑静な住宅街で幸せな夢を見ているだろう人々に申し訳なさを覚え、今日限りだと心の中で謝罪をした。
「君、緊張しているのかい?」
走り出した馬車に揺られて、トムが夜に駆けたであろう道を馬車で逆走していると、男はちょび髭をつけた顔でニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて言ってきた。
強がったところで意味はない。この男は私よりよほど長い年月を生きて、人の本質を見抜く目を持っているのだ。今の職業である探偵というのも、シャーロック・ホームズに感化されたからだと言うが、適職だろう。
「そうですね、経験したことがない領域ですから、多少の緊張はあります」
素直に認めれば相手は少しキョトンとして、それから君なら大丈夫さ、と根拠のない慰めを口にした。この男がこんな事を言うなんて珍しい。人とは一線を引き、情など持ち合わせていないような性質だったはずなのに、どういう風の吹きまわしだろうか。
馬車の小さな窓から見える外の景色が白んできて、夜明けを伝えている。さっさと済ませて、早く帰りたい。
「ところで、」
朝日が昇り、世界が白むのを小さな車窓から眺めていると、ワトスンと名乗る探偵がまた口を開いた。男は目深にシルクハットを被っていて、しかも俯いているために今回は表情が伺えない。
「君はどうして一人の子供にそんなに固執するんだい?」
そう問われて、固執、という言葉に良くないイメージがある分、この男はまだ本日の争いを心中では避けたいと思っているのだと察することが出来た。
もしかすると、この男が実は孤児院側と繋がっていて、対話の段階であちら側につくかもしれない。昨日から僅かに感じていた心配事が、まるで餌を得たとでも言うように肥大していく。
先程の言葉も私を安心させるために見せた仮初の優しさの可能性はある。普段あんなことを言わない男が言った台詞だ。疑うには十分だろう。
もし男が此方を裏切るなら、私に勝ち目はない。この男は私と同類だから私の力で操ることが出来るか不明であるし、この男が私と同じ力を持っていたら私が操られる可能性もある。この男が敵でなければ良い。そうは思うものの、五分五分程度の信頼と疑いだ。
信頼出来る相手か分からない。本当に私の味方である可能性もあるし、既にあちら側なのかもしれない。もしくは、その場の話の流れで立場を変えるかもしれない。それでも、可能性があるならば、この男を納得させて自分の味方にしなければならない。
そんなことが出来るのだろうか?他人とロクに付き合いをしてこなかった自分が相手を諭して心から味方につけるなんて、そんな芸当を持っている筈もない。
けれどここで何もしなければ、この男が私を裏切った時、私の前には敗北の二文字しかない。百余年の生の間に培った知識を最大限に活用して、この男を仲間にする為には何をすれば良いかを導き出す。
「あの子が、あの家に住む事を選んだから」
下手に着飾った言葉は効果が薄いと思って、素直に言葉を紡ぐ。あの子が望んだからこそ、私はあの子が安心してあの家に住めるように手続きを行うだけだ。
例え孤児院に帰りたくないが為の、仮の場としての発言であったとしても構わない。トムの心身が傷付かない場所を提供出来るのならば、その為に私の脚は何処へでも進められるし、何にだってなれる。
そして他に心地よい空間を見つけたならば、それを喜んで送り出す。それが私の、人で無しの出来る精一杯の人としての振る舞いだろう。
「そんなにその子にご執心になる理由が分からないな」
「それだけあの子が魅力的なんですよ」
「それだけでもないだろう?」
男の問いに、言葉に詰まる。この男は本質を見抜く。きっと私のエゴに気付いているのだろう。
気付いたうえで、私がそれを口にするかを試しているのだ。否、口にしなくとも、私自身にエゴと向き合うように促しているのかもしれない。
「そんな目をしてくれるなよ。僕は"ちゃんと"君の味方だよ。そんなに怖がらないでくれ」
こちらの心の内を見透かされていたのが分かって、急に恥ずかしさを覚える。疑いを向けた私に対して、君もまだまだ子供だね、と笑う相手に誤魔化すように溜め息を吐いた。
この人からすれば子供でも、人間からすればお婆さんを超えたお婆さんなのだ。それなのに子供扱いされるなんて。中身の成長がまるで無い自分を恥じる。
この男の言う通りなのだ。私がトムを手放したくない理由は惹かれたからだけではない。
烈火の如く燃え盛った蝋燭を見たのがきっかけではあるけれど、それだけではない。それだけでこんなリスクの高い行動はとらない。
ただ、私はあの子が迫害されていると目の当たりにした時、知識では見た目が異なる人間が迫害されていることを知っていたのにショックを受けたのだ。
きっと、それは自分の目に入る範囲――意図的に目を逸らしていたのも事実であるが――では見る事が無かった世界を眼前に突き付けられたからだろう。
人間であるトムが迫害される世界では自分のような生き物は絶対に受け入れられないと思った。だから、トムが受け入れられる世界を作って、見た目が違えど受け入れられる空間はあるのだと、自分にとっての安心が欲しかった。
それが、理由。けれどこれはあくまで「人間」である者が「人間」に受け入れられる空間を作る自己満足でしかなく、それで私のような怪物が受け入れられるかと言われたらそれはNOだ。
私と人間は捕食者と被捕食者だ。食物連鎖のピラミッドに置いて、人間より上に居ることとなる私達を、どうやって人間が受け入れるだろう。
トムを受け入れる世界を作り上げたところで、得られる安心感は私にとって何の価値もないのである。ならばトムを手元に置いて意味のない安心感の為にリスクを背負い込む必要はない。さっさと手放すべきなのだ。
それなのにトムを手放したくないのは、きっと本能的な物。何がそんなに執着させるのか分からない。
けれど、人付き合いなんて満足にしてこなくて、他人に対して表面上はそこそこ付き合いつつも警戒心しかなかった私が何故か警戒心を抱かなかった相手なのだ。今は理屈では言い表せられない。
理由を並べても、トムと一緒に居ることによって発生する危険性を超える程の理由が無いのだ。それなのに一緒に居たいと思うのは、もはや理屈ではない。
「意地悪な質問をしたね。忘れてくれ」
「いつか的確な回答を用意出来たときに、答えます」
ワトスンは笑う。忘れろと言うのに忘れないと言う私に呆れたのだろう。
馬車が止まり、扉が開く。トムが養われていた孤児施設はシスターが運営しているからだろう、医者として稀に施設を訪問して子供達の診察してきた中ではまだ良い方であった。
建物、食べ物、衣類、特に困った様子も無いので、パトロンの力が偉大なのか、教会の寄付もあるのかもしれない。先の事を考えて、後者の力が大きいことを願うばかりだ。
探偵を名乗るワトスンはつけていたヒゲを外し、持っていた弁護士バッジを付ける。もう彼の名前はワトスンでは無くなり、役所に届けている弁護士の名前になったのだ。
弁護士と共に孤児院の門をくぐり、小さな子供達の期待や不安を含んだ目線を全身に浴びながら、院長室へと足を進める。
中に入れば老いたシスターと、先日私が追い返した女性が居て、挨拶を交わす間ずっと妙齢の方には睨まれる状態となった。
老いたシスターは院長だと言い、勧められるままに対面のソファに腰掛ける。
「話は手紙も読ませていただきましたし、こちらのシスターからも伺っております。トムを引き取りたいと、仰られているようですね」
「はい」
私は端的に回答をして、弁護士を見る。男は法的手続きをするために来たことを淡々と伝えた。院長は表情を変えることもなく、そうですか、としか言わない。言外に、譲るつもりはないというのがありありと示されている。
院長の胸に灯る炎は風も吹いていないのに嵐の中に置かれたように左右に形を揺れて、不規則に燃え盛っては弱火になる。彼女自身の中で私達への敵対心と畏怖の念が混在しているのだ。
この状態では真面目に話したところで長引き、サインは貰えないだろう。私は相手の目を見て、懇切丁寧に話を始めた。
院長の後ろにいる女性の目を見るのも忘れない。二人を暗示にかければ、此処での話は終わりだ。
「トムは私の元に居ることを望んでいます。ええ、そうです。トムが望む事を叶えるのが、大人である私達の役目でしょう。私は食事も用意します、休日は共に出かけましょう。学校も、せめて読み書きが出来るようになれば、通わせることが出来ます。はい、そうです。今勉強を進めています。何も問題はありません。見た目?それが何だというのでしょう」
虚ろになっていく女性達の目を見て、術中に収まった事に安堵する。このままサインをさせれば勝ちだ。その後の事は、此処に住まう者達で頑張ってもらえば良い。
私が救うのはトムただ一人。それだけに、注力すれば良いのだ。
「では、サインを」
「はいーーーー」
院長の手が動く。そして、持っていなかった印鑑をデスクの引き出しから取り出して、捺印まで終えた。
これで良い。これで、トムはしがらみの一つから解放された。
ほぅと安堵の息を吐くと、まだ早いよ、と隣の弁護士に言われる。他に何があるのだろうか?見ると、相手は私を見ずに、院長を見ていた。
「トム・マールヴォロ・リドルに関する一切の書類を出して下さい」
「それは、どういう……?」
ふわふわとした老婆の声。君の言葉でなくては従わないみたいだね、と弁護士は頷いて、私に同じ言葉を繰り返すようにと言ってきた。
私はトムの過去に興味はないけれど、トムは自分の過去の情報を求めるかもしれない。トムの養母になる事ばかりに目を向けていて、その他の部分に気を配れなかった自分は、どこまでも視野が狭い。
自分の意思を持って言葉を紡ぐ。院長はゆっくりと頷いて、鍵のかかった書棚から一つの薄いファイルを取り出した。それを持ってくるのかと思って見ていると、覚束ない足取りの院長はそれを持ってソファに戻るでもなく、デスクに近付いて鍵がかかった引き出しを開けている。
書棚は子供達の情報が収まっていたのだろう。だからおおよその内容は想像出来た。
けれど、今取り出している数枚の紙は何を記しているものだろうか?
取り出した紙とファイルを私達の前に置いた老いた院長は、私の暗示にかかっているのも理由であるが、何も考えていないぼんやりとした表情をしていた。
先に気になった紙を手に取り、中身をすぐに理解して背筋に悪寒が走る。これは人間の闇だ。大人が企てるロクでもない、子供を人と思わない所業から出てくる書類だ。
トムの写真と特徴が書かれた書類には大きく価格と、その上に『契約済み』の文字。人の売買が行われているのは知っている。子供は使い勝手が良いから大人が売り捌いているのも知っている。けれど、自分の大事な存在がこんな紙切れ一枚で価格を決められ、売りに出されていたことが怖ろしい。
胸にふつふつと沸く感情は、今まで経験してきた何よりも重たい。
「辞めなさい」
無意識か意識下か判断つかないままに伸ばしかけていた手。その手首を弁護士に掴まれる。
「こいつ等に生きる価値はない」
今この大人を食べたところで、この孤児院のトップが変わるだけだろう。もしこの二人が亡くなった事でこの孤児院が解体する事になったとしても、子供達は別の孤児院に受け入れられるか、溢れた子供はそのままでストリートチルドレンになるか、もしくは無償で何処かに引き取られるかだ。何も変わらない。分かってはいても、此処にいる女二人だけは心底許せなかった。
トムを散々苦しめてきた上で、金額を付けて子供を嗜好品として扱う奴に渡す。その金で女達は何をする?子供達の環境を良くする?子供を犠牲にして子供を育てる?こんな事をしている大人がそんな事をするか?どうせ自分達が裕福になるようにしているだけだ。
トムをどこまで苦しめるつもりなのだ。此処から逃れられたと思っていたら、写真に無記入の値札を付けて、価格がついたら回収する。
許せない。
「落ち着きなさい。此処で何かすれば君や僕が疑われ、平穏な生活は訪れない。君が優先すべき事は何だい?」
優先すべき事、それはトムの事だ。
こいつ等がしてきた数々の悪行への報復でも何でもない、これからのトムを優先しなくてはならない。トムの穏やかな日々を、優先するのだ。
今、此処で殺すのは私の感情であって、目の前にいる女二人ではない。
「落ち着いたかね?」
一度深呼吸をして、大丈夫だと告げれば手首を離される。
余程強い力で掴まれていたのか、手首には相手の手形がくっきりと付いていた。血が通い始めた手は、痺れを伴う。
「今は君の養子となった子供の為に、此処からその子の情報全てを奪う。そして帰ったら美味しい料理を作る。今日はその為だけに来たんだ」
「大丈夫です。もう、冷静ですから」
弁護士は私から紙の書類数枚を受け取って、それを手帳に書き記している。私はトムに関する書類の中身を確認して、鞄の中に入れた。これはトムに見せるべきかどうかは、後日考えよう。今の私では最適解を見つけられない。
トムの売買契約の書類も私の鞄に入れて、女二人に強く暗示をかけて私達の先ほどの会話を忘れさせる。
書類にサインした事、これら書類を私達に渡した事は、記憶に強く刻みつけさせた。そうしなければ、忘れましたで奪いに来られても困るからだ。
「行きましょう」
「良いや、君は先に行っていてくれ。こちらも少しばかり、やる事があってね」
その言葉に裏切りの忍び寄る足音が聞こえた気がした。男は安心してくれと言うが、私が居ては出来ない事なのかと問えば、男はそうだと首を縦に動かす。
「計画を聞かせて下さい」
「それは答えられない。だが、君にとっても特になる事だ。だから、此処は僕を信じてはくれないか?長年の付き合いだろう?」
長年の付き合い。その言葉に首を縦に振れるほど、私の神経は穏やかではない。まるで子を産んだばかりの雌猫だと自分ですら思う程に、警戒心ばかりが先立ってしまっている。
これで良いとは思わない。冷静に対処する必要がある。
しかし此処で譲った結果、悪影響が生まれないとも限らない。どちらを選んでも、という言葉が浮かんで、それなりに良くしてもらっていた日々を思い出す。この男を信用しなければならない。此処までついてきて、助言もくれた。まだ教会から出たばかりの幼い私に生き方を教えてくれ、その後も度々助けてくれた。
この人は、根本的に味方のはずだ。
「後で、教えてくれますか?」
「ああ、後で良ければ、結末を含め教えよう」
いつ教えてくれるかは分からないけれど、この約束は必ず守られるだろう。この男は私に嘘をついた事が無い。過去の実績から、信じて良いはずなのだ。
部屋を出て、一息つく。
自分一人を守るならば何だって出来るし、痛い目にあったとしても授業料だと思うようにしていたが、子供一人関わるだけでこんなにも余裕がなくなるのかと思うと、自分の矮小さを思い知らされる。
こんな精神でトムを健やかに育てられるのだろうか。先程伸ばしてしまった右手を見て、先に門へ向かおうと足を進めた。
途中通り過ぎる子供達は誰の親になるつもりで来たのかと私を値踏みする目線を隠す事なく向けてくる。そうだ、此処にはトムの私物がある筈だ。それを受け取るのも今のうちだろうと思い出し、近くにいた子供に声をかける。
「ねぇ君、トムの部屋を知っているかな?」
「え?トムって、どのトム?」
トム、という名前は使われる頻度が高く、きっとこの孤児院にも「トム」は数名存在するのだろう。トム・マールヴォロ・リドルだと告げれば、相手は驚きの表情を浮かべる。
「あいつ生きてたの!?」
「ええ、勿論」
生きていたの、とはまた随分な台詞だ。死んでいたと思った?という意地悪な問いが出そうになって、肯定であれ否定であれ気分が優れない事になるのは目に見えて明らかなので口にはしなかった。
「あの子の荷物を引き取りに来たの。あの子の部屋へ案内してくれる?」
「おばちゃん、トムを引き取ったの?」
「そうよ」
成る程、これくらいの年から見れば私はおばちゃんなのか。と自分の見た目の年齢をしみじみと感じていると、子供はよく引き取ったね、という言葉を続けて言った。
また見た目からくる偏見だろうか。もう聞き飽きた。そう思っていたのに、子供が紡ぐ言葉は私の想像とはまるで違った。
「あいつ、変な力あるのに」
「変な力?」
変な力、とは何だろうか?私のように人を操る力?まさか、あの子は人間だ。胸にある蝋燭が何よりの証拠である。
「それも知らないで引き取ったの?」
「それはどういうものなの?おばちゃんにも教えてくれるかな?」
子供が渋い顔をするので、万が一にと持ってきておいた飴を一粒渡せば、子供は顔を綻ばせてあっという間に口を割る。
「あいつ、人の大切な物を自分の物にするんだ。大切な物が消えて、トムの所に行くとトムのロッカーに何でかある。物を勝手に移動させる力があるんだよ」
「物を勝手に移動……?」
物理的に考えて有り得ないことを言う子だ。物が勝手に移動するはずはない。という事は、トムは手癖が悪いのだろうか?物を盗むのに慣れていて、周りに気付かれていないのかもしれない。
だとすれば、トムは立派な犯罪者である。
「信じてないでしょ」
「えっ、いいえ、そんな事はないわ」
「嘘だ。もう話してやんない」
「そんな事言わないでちょうだい」
そっぽを向く子供に、もうふた粒飴を見せれば、子供はちらりとそれを見て、奪うとポケットにすぐさま入れた。
「あと、これは内緒だけど、俺、あいつが浮いたのを見たことがあるんだ。他にも蛇の話してる事が分かるみたいで蛇に対して頷いたりしててさ、あいつ、悪魔だから変な力を持ってるんだよ」
何を言っているのか、この子はファンタジーの登場人物とトムをごちゃ混ぜにしているようだ。
こんな事を言いふらされてトムが変なものを見る目で見られていたのかと思うと、どうにもいたたまれない。とはいえ、言いふらさないで欲しいからと未来ある子供に暗示をかけるのはやりたくない。私の力は大人に使うことはあるけれど子供に使ったことはなくて、子供に使った場合、将来どのような影響が出るか分からないのだ。
ならば、私が此処でこの子に懇切丁寧にトムは普通だと話せばいいのだろうか?そういうものでもない気がする。
「ところで、私が見たいと言った男の子の部屋を教えてくれる?」
時間がこの子に「普通に考えてありえない」という事を教えてくれるだろうという結論に達して、何も言わない事にした。
夢見がちで妄想しがちな年齢なのだ。そういう事を言い出しても仕方ないだろう。そして、時間が来れば自然の摂理にならって、こんな記憶は消えていく。
「ええと……こっち」
話を切り替えたことに釈然としなかった様子の子供は、それでも私を案内してくれる。
「ありがとう」
道先案内人の子供に連れられて入ったトムの部屋は、小さな窓には脱走防止なのか格子が付けられていた。大人の背丈より高い縦長のロッカーと、簡素なベッドに木製の机と椅子。此処にトイレがあれば、間違いなく独房と表現しただろう。
ロッカーを引っ張ると、鍵がかかっていた。鍵はどこにあるのだろう。トムが脱走してきた時に着ていた服は洗う時にポケットを確認したけれど、鍵はなかった。ともすれば、この部屋の中にあるのだろうか?
勝手に引き出しを開けて、奥の方まで確認する。ノートと鉛筆が1段目に入っただけで他の引き出しには何も無かった。
もう一度1段目を開けて、ノートをひっくり返すと鍵が落ちてくる。その鍵を持ってロッカーに差し込むと、それはすんなりと反時計回りに回った。
解錠したのである。
「……」
中を見て、トムの手癖を理解する。そこにはトムの物ではないだろう、他の人間の名前と愛しているという言葉が綴られた懐中時計と、見たことの無い指輪が置かれていた。これらは持ち主に返すべき品だ。
誰から返してもらったのかという話になればまたトムの名前は此処で悪名高くなるのは間違いない。それでも、親に捨てられた子供が、唯一残された親との絆を奪われた悲しみで途方に暮れているのだと思うと、返さないわけにはいかない。
他に入っているのは衣服だけで、トムにとっての宝物は無さそうだった。もうこの部屋に用は無い。
先ほど見つけた盗難物を手に部屋を出る。周りの子供達は私を不思議そうに眺めていて、その子達に名前が刻まれた懐中時計と、名前も何も無い指輪を見せる。
「君たち、これの持ち主は知っているかな?」
「それ!私の!」
「僕の!」
すぐに走り寄ってくる子供二人。名前を確認すると、懐中時計に刻まれていたのと同じ名前だったので、その子に返す。
指輪の方は確かめようも無いので、周りにいる子供を見回してから、その子に返した。
「トムが悪戯に君達の大切な物を奪ってしまっていてごめんね」
「おばさん、誰?」
「私はこれからトムの養母になるんだよ。だから、トムへの怒りは私にぶつけてくれるかな?本当に、ごめんなさい」
周りは驚いたようにざわめいて、皆が皆、トムをそういった目で見ていたと悟る。どれほど此処が地獄だったのだろうか。想像するだけで、悲しくなる。
「おばさん、トムは悪魔なんだよ?大丈夫なの?」
「トムはただの人間だよ。君達と目の色がほんの少し違う、それだけの人間」
「違うよおばさん。あいつは変な力を持ってるんだ!騙されたら危ないよ!」
此処にいる子供は誰もが口を揃えてトムは人ではない、変な力を持つ、と口にする。いったいどういう集団心理の働きだろうか?一人を鬼と決めて虐める新しい遊びのように思えてゾッとした。
子供の純粋な狂気とは、こういうものなのかもしれない。
「私はトムがとても良い子だって知っているよ。だから君達にそんな風に言われると悲しいなぁ」
「騙されてる。可哀想」
一番大人っぽい、およそ年齢も一番高いだろう子供がそう呟いた。
「あの人きっと殺されちゃうね」
「トムに操られてるのかも」
口々に告げられる言葉達。騙しているのはトムではなく、実際は私なのだけれど、それは勿論言えるはずもないので私は肯定も否定もせずに帰る事にした。
子供達の目に私はどう映っているのか、そんな事はまるで興味ないけれど、トムが此処を嫌がる理由だけは十分に理解出来た。
先に馬車に戻って、書類に目を通していると弁護士が帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「貴方の計画は遂行されましたか?」
「ああ、上々だったよ。これで問題はないね」
問題、という言葉に、何か問題あったのかと目を向ける。
ドアを閉めて天井をステッキで2度叩く男の合図を受けて、馬車はカラカラと移動を開始した。
外の景色を見つめる男は、まるで行きの私のようだ。これから決戦がある。そんな雰囲気を醸している。
「何かありましたか?」
「そうだね、君にとっては良いニュースだ」
「良いニュース?」
胸の弁護士バッジを外して大事そうにハンカチで包んで内ポケットに入れた。
ちょび髭をまた付けて、名前をワトスンに変えたところでこの男の脳内に入っている知識は弁護士のままなので、この男は髭さえ取ればまた弁護士に変わるのだろう。
出会った時から敏腕弁護士として色々な顔、歳で生きてきている男だから、いきなり探偵になったと言われた時には、探偵と弁護士の二足の草鞋を良くやると溜息を漏らしたものだ。
「パトロンとの関係は潰れた。一応その子の契約も解消したよ」
「どうやって?」
「あまり言いたくないが、僕は君よりも人を操るのが得意でね、電話で院長に対応してもらったのさ。ただまぁ、先方は納得していないから、完全に安全かと言われるとそれは保証出来ないがね」
ならば最初からこの男があの二人を操ってくれたならば良かったのに。そう思うけれど、この男の事だ、私の前で力を見せたくなかったのだろう。手の内を明かさないとは、私の前で力を披露しないことと同意義だ。
これは信頼関係というよりは、保身のためだろう。私も本当なら、この男が居る前では力を使いたくはなかった。互いの技量試しをされるようで、あまり快くはないのだ。
「まぁ、早く終わって良かったのではないかい?今日は豪華な夕食だろう。くれぐれも、子供の前で不味そうに食べてはいけないし、吐いてもいけないよ」
美味しいというのが分からない我々にとってそれは酷く難しいものである。けれどこれからはそれをやっていかなければならないのだ。
人間の食事を口にして、不味いそれを美味しそうに、そして受け付けたくないと細まる食堂を無視して嚥下する。それが私のこれからの課題である。吐き気と腹痛との戦いとも言えるだろう。
「心してかかります」
「それは大変結構」
ワトスンは満足そうに笑った。
この人は、結局のところ、私に優しいのだ。そんな人を今でも僅かに疑っている自分が浅ましく思える。
馬車の中、ロンドンの役所に着いて一度馬車を降り、書類を提出する。書類を確認された後に身分提示を求められ、それも済ませると受理された。数日後には正式な案内通知が届くとの言葉に、胸をなでおろす。
馬車に戻って、ステッキで2度天井を叩けば、また石畳の振動を受けながらも馬車はゆっくりと速度を上げていった。
「有難う御座いました」
「やれる事をしたまでさ。では、ここで失礼するよ」
「え?」
「最後に一つ」
男は至極真面目な表情で私を見た。
「もし君がその子との安全な未来を望むなら、5年以内にロンドンを離れたほうが良い」
「どうして」
「それは答えられない。それではまたいつか、生きていたら会おう」
男は走る馬車の扉を開けて、すぐに降りてしまう。その動きは軽やかで、運転手も気付かないほどだった。
降りた場所に彼の拠点はないはずだが、もしかしたら別に寄るところがあるのかもしれない。
扉を閉める。
公的手続きも終えた。これでやっとトムに絡まっていたしがらみが一つ、解消されたのだ。
帰って、トムに笑顔を見せよう。そう心に決めた。
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