モノノ怪 短編 | ナノ
紅葉
その人は諸国を旅しながら薬を売っているそうで、私たちの居るような場所に来るのも、そう珍しいことではないのだと言う。
紅葉
此処は遊郭。
唯一の出入り口である大門から私たち遊女は身請け人がいない限り、決して出られない空間。
夜になれば張見世に行かなければならないが、今はまだその時刻ではない。
私は割り当てられた部屋に座し、薬売りを名乗る男性を待つ。
こんなに人が来るのを待ち遠しいと思うのは、初めてだ。
いつもなら宵闇が来なければ良いのにと思うのに、今だけは一人で居る時間があまりにも長く感じて、早く早くと時の経過を願うばかり。
子供の軽い足音と重量感ある足音が襖越しに聞こえて、身体が浮くような感覚。
今すぐ襖を開けてお姿を拝見したいと願うが、それはあまりにもはしたない気がして憚られる。
正座して、手櫛で髪をいじる。
まだ陽が高いところにいるからと、髪を結い上げていなかったのは失態だ。
身だしなみに気を使わないだらしない女だと思われやしないだろうか。
「名前姐さん」
「はい」
「薬売りが来ました」
「通して差し上げて」
襖がスッと滑り現れたのは、綺麗な色彩の着物と不思議な隈取りが特徴的な男性。
普通ならば憚られるような変わった模様の着物や隈取りも、何故かこの男性にはよく栄える。
名匠が作り出した陶器のような淡色仕立ての美しいその容貌が、それを許すのかもしれない。
「お久しぶりです」
「お変わり、無いようで」
「いいえ、薬売りさんに逢うのを心待ちにし過ぎて、胸が焦げ付いてしまいそうでした」
「それは、困りましたね。胸焼けの薬でも、如何でしょう」
「お上手ですこと」
「お互い様、ですよ」
ふふっとお互いに笑って、それだけで幸せになれるなんて、私は安い女だろうか。
彼からすれば私は数いる客の一人にすぎず、まして遊郭の女の中の一人。
眼中になど無いだろう。
嗚呼、そのようなこと、今考えずともよいのだ。
今は限りある時間なのだから、心から楽しまなければ勿体無い。
「薬売りさん」
「はい」
「気が晴れるような薬は、無いかしら」
「気分が良くなる、と?」
「えぇ、最近、あまり質のよろしくないお客様がいらして、三味線を、折られてしまったの」
「それは、災難で」
「本当に」
気に入っていたのに。と出かかった言葉は口内の中に納めた。
愚痴なんて、聞き手にすればつまらないでしょうに。
何故私はこんな話の種しか持っていないのだろう。
この口が憎らしい。
「気付け薬の類いはありますが、気を晴らす薬というのは……少し、身体によろしくないものでなら」
「少しくらいなら、大丈夫じゃないかしら」
元々身体に善くない生活。
客が食事に薬を盛って、性感帯が異常になることも珍しくない。
どうせいつかは朽ちる身だ。
ならば心に善くありたい。
そう思うのは罪なのか、相手は困った様に眉尻を下げた。
「御体を大切にしなさった方が、良いですよ」
薬が売れれば懐が暖かくなる。
だから怪しい薬ですら売る調合師は少なくない。
けれど彼は、この人だけは違う。
薬を売って病を治すという己の仕事に誇りを持っているのだ。
なんて高尚な心の持ち主なのだろう。
好きにならないはずが、無い。
現に彼にとっては常套句であろう台詞に、私は己が心配をされたのだと勝手に思い込んでいる。
思い上がりも、ここまでくれば滑稽だ。
「気晴らしの薬でお渡し出来る物は、ありませんが」
商売道具が入っている大きな木箱を漁る男性。
いったい何が出てくるのやら。
宝箱を開ける前のような感覚で相手の手付きを眺める。
ただ物を探しているだけだというのに、その動作一つですら釘付けになる。
これはもう好いた惚れたの話ではない。
決して手が届かない存在を崇拝する信仰と似ている。
こちらに向き直る姿。
同じ正座で対峙する。
「名前さん」
「はい」
「手前には三味線を買ってやる持ち前はありません。気晴らしに良い薬も、ありません」
「そんな、気に病まないで下さい。私はただ、そんなつもりじゃ……」
「名前さん」
「……はい」
「お手を」
手を、意味も分からないままに相手に伸ばす。
甲を上にした私の手に、藤色の形良い爪をつけた細い指が触れる。
掌を上に向け直されて、もう一つの綺麗な手が、上に乗った。
少し冷たい相手の温度が、熱を持った私にはとても心地良い。
男性の手が離れると、私の手には簪。
「これは?」
「頂き物、なのですが」
「素敵な逸品」
「では、貰って下さい」
掌に乗ったままの簪を眺めていた頭を上げて、男性を見る。
「こんな高価な物、いただけません」
「しかし、それは女性である名前さんに、似合いの品です」
「薬売りさんにも、似合いますわ」
「付けません、よ」
「貴方につけて欲しくて、相手は薬売りさんに差し上げたのでしょう」
「しかし、つけませんから」
「だとしても……」
「貰って下さい、名前さん。俺は貴女に、貰って欲しいの、ですよ」
そこまで言われては、受けとるしかない。
けして安くはないだろう簪。
彼の頭に似合うだろう落ち着いた濃い色合いの品。
紅葉の造形と鈴がついていて、今の季節にとても合う。
「少し、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「はい」
鏡台の前に移動して、髪を結い、簪を挿す。
黒髪の私にはあまり目立たないだろうと思っていたが、鈍い光沢がまたこの季節特有の物悲しさを演出している。
じっと私を見る男性と、鏡の中で目が合う。
私は向き直り、頭を下げた。
「ありがとう、御座います」
涙が出そうになる。
しかし涙など自由に出せてしまうようになった私には、涙を堪える術も身についていて、下を向いても零れなかった。
そう、それで良い。
笑顔を浮かべて相手を見ると、柔らかい笑みをむけられた。
「やはり、よく、お似合いだ」
嗚呼、何て殺し文句。
遊郭からは決して出られはしない身分だけれども、彼と外を歩きたいと、思ってしまう。
どうか、私を買って下さい。
私は貴方の傍に居たいのです。
貴方の隣に立ちたいのです。
簪に触れ、ぐっと言葉を飲み込む。
身の程を、弁えなければ。
「薬売りさん、昨日のお客様に羊羹を頂いたの。良かったら、食べて行っては下さらないかしら?」
「名前さんが、頂いた方が、よろしいのでは?」
差し上げた方も、貴方に食べて欲しいでしょうし。と、先ほど私が言った言葉をそのまま返される。
そう、私には言葉遊び程度の扱いが一番良い。
この言葉達を思い出しては、幸せに浸るくらいが良い。
勝手に期待して、勝手に哀しむ自分には、もう飽き飽きしているのだから。
〜戯言〜
紅葉の花言葉
「節制」「遠慮」「自制」「大切な思い出」
専門用語の解説
●遊郭
遊女を抱えた家が多く集まっている地域。
●遊女
娼婦。女郎。
●身請け
芸妓・娼妓などを身の代金を払って年季のすまないうちに、その商売をやめさせること。落籍すること。
●張見世
遊郭で、娼妓が店の往来に面した所に居並んで客を待つこと。
〜参考〜
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