モノノ怪 短編 | ナノ
空の蝶々
こんな夢を見た
空
の
蝶
々
生物の先生は、とても変わった先生だ。
集落から少し離れた海辺にある平屋建ての家に、独りで住んでいる。
風貌も変わっていて、ぼさぼさの白髪は竜胆色の頭巾で纏めているし、頭巾から出している前髪と両サイドの髪は長くて、ちょっと汚らしい。更によれよれの白衣に、これまたよれよれのワイシャツ。唯一スボンは黒いけれど、周りからは白と云う名で呼ばれている。
なんて安直なのだろう。
かくいう私も白と呼んでいるので、人の事は言えないのだけれども。
私は、白が好きだ。
子供が持つ大人への憧れを恋だと勘違いしているだけだと言われても、私は白が愛おしい。
まるで母性愛のように、白の男性にしては狭い背中を見るだけで胸が苦しくなって、無性に泣きたくなる。
嗚呼、この感情は、何処から来るのか。
チャイムを鳴らす。そして先生、と呼び掛ける。
すると案の定、無視をされた。
白はいつも居留守を使う。
鍵をかけていないから何時でも入れる玄関だけれども、私にとっては鋼の重たい扉だ。
引き戸に手を掛けられない。触れられたとしても、すぐに手は胸元に逃げ返って、服に皺を寄せるだけ。
だから玄関扉に背を預けて、座り込む。コンクリートの地面は、屋根が作り出した影に守られて冷たかった。
見上げた空はカラッと晴れた淡い青。
白い尾長鳥が優雅に青を横断して、白い筋を描いてゆく。あれが筋雲だと私に教えてくれたのは、白だった。
てん、てん、と太鼓の音が遠くから聞こえて、もうお祭りが始まったのだと知る。
「先生、聴こえますか?今日は縁日ですよ」
白の声は聴こえない。
代わりに床が軋む音、次いで、履物を履く音。
カラコロと高い音がして、いつも履いている靴ではないのだと気付く。
何を履いた?
分からない。
知らない。
私は猫背になって、玄関扉から背中を放す。
するとそれを見計らったようにガラリと音がして、見上げれば、無表情の白。
無表情は不機嫌だと相場が決まっている筈なのに、白の無表情は感情を丸々失ったように見えるから不思議だ。
おしろいを塗ったような肌は、白が浮き世場慣れしている事を際立たせる。
白は以前、この肌もこの髪も嫌いだと言った。
劣性の証だからと、呟いたのを聴いた事がある。
けれど白は劣性なんかじゃない。私はそう思う。
白は、天使様なのだ。
「先生、今日は鮮やかですね」
「わざわざ、迎えに来るとは、思いませんでした」
藤色の口紅に、紅い隈取り。
濃い空の色の着物に、金糸で刺繍が施された黒い帯。
白が白じゃ無くなる。
色が白を汚す。
悲しい。
哀しい。
でも、それ以上に
「綺麗」
「言葉は、選びなさい」
額をコツリとやわく打たれる。
指輪までしている。
マニキュアも、艶やかな藤色。
「行きますよ」
「何処へ」
「さぁて、何処、だか」
立ち上がって、お尻を叩く。
白は不思議な服装のまま、またカラコロと音を奏でて歩き出す。
高下駄を履いた白はいつもよりも背が高くて、見上げる角度も大きくなる。
すると前を向いていた瑠璃色の瞳が私の方へ流れて、視線が絡まる。
着物の色よりも、空の色よりも、澄んだ青。
「何か?」
「まるで巫女様みたい」
「巫女とは、どういった漢字を書くか、ご存じで?」
「だって綺麗過ぎて」
人間じゃないみたい。
言おうとして、やめる。
巫女は女性でなくてはならないのだろうけれど、白には性別を越えた美があると思う。
その美は、人の枠すら抜けそうで、怖い。
言葉の途中で声を失った私に、白は何も問いかけてこなかった。
カランコロン。
カランコロン。
アスファルトの道に高下駄は高い音を奏でる。
「足、痛くないですか?」
横にはむき出しの大地があるのに、堅い堅いアスファルトを歩く白。
下駄は大地に向いているのに。
「先生」
呼び掛けると、怪訝そうに、また瞳だけが私に向く。
その視線は、そのまま下へ。
「そう言う苗字さん、貴女も、下駄、でしょう」
「え?」
下を向けば、素足に下駄を履いていた。
自分の奏でる音に、気付かなかった。
だって、私の音は、耳に心地好くない。
カラ
コツ
コロ
コツ
嗚呼なんて耳障りなのだろう。
不協和音に眩暈がする。
アスファルトの端に寄り、そのまま大地へ一歩を踏み出す。
大地は優しく私を受け入れてくれた。
下駄の半分を沈める柔らかい土に、私と云う生き物すら受け入れられたような錯覚を起こしてしまう。
「苗字さん、お止めなさい」
硝子のように堅く冷たく、そして脆い声音。
白を見れば、嫌悪の表情。
「何故」
怒るのですか。
訊きたくて、けれど白が持つ色彩に気圧されて、言葉が喉に絡み付く。
「何故?」
白が滑らかな動作で、白魚の指を後ろに向ける。
つられて振り返り、驚愕する。
蜆蝶程の大きさの蝶が、我先にと空へ向かって飛んでいるのだ。
その光景の、美しい事。
濃い空の色にパールを散りばめたような蝶々が幾千幾万という群衆になり、空へと続く一本の道を作り出している。
淡い青色の空に、濃い空の色が一本。
いったい何処から蝶々がこんなに沢山。
道の原点を探るように下を向けば、私の足元の大地から溢れ出している。
「先生、これは」
「空の蝶々、ですよ」
「空の?」
目の前の迫力によろめいて一歩後ろに足を着くと、蝶々が踏んだ大地から沸きだしてきた。
「先生!」
「今日の祭りが、何の為に催されるか、知って、おりますか」
白は私に近づき、私を抱き上げて、アスファルトの上に降ろしてくれた。
へたれこんだ私に、白はしゃがんで視線を合わせてくれる。
「最近、空が薄い、でしょう?」
薄い、という表現に、分からないと視線で問えば、白は空を見上げる。
「空の青が、薄い。そう、思いません、でしたか?」
「思いました」
「それは、空の蝶々が、青を吸って、しまうから、ですよ」
嗚呼そうだ。
思い出した。
幼い頃に祖父が話してくれた、お伽話。
雲は小さな蝶々の群れなのだ。
蝶々は空を飛んでいる間に空の青が甘い蜜だから吸ってしまって、体が重たくなって雨に変わる。
そして青を含んだ蝶々は雨になって大地に降り注いで、地中に隠れてしまうのだ。
けれど、それを黙って見ていたら、空は白になってしまう。
だから、大地にいる蝶々たちを起こして空に還させる為に、楽器で音を奏でるのだ。
最後に空からの使者が演舞をして空の神様に艶やかな色をお返しする。
そうだ、それが今日行われる、行事。
「泣くのは、お止しなさい」
「けれど私、途中で無理矢理起こして、還らせてしまいました」
「気に病む事では、ありませんよ」
白は、微笑んでくれた。
そして、私を置いて、立ち上がる。
「苗字さん、明後日の授業は、休講、です」
それだけ言って、私に背を向けた白は集落の方へと歩き出す。
囃子が聴こえる。
先生の背中が、小さくなってゆく。
私は恐ろしかった。
同時に愛おしかった。
そして哀しかった。
私の目に余った涙がぼとりとアスファルトに落ちて黒いシミを作るのと、先生が蝶々になって空へ還るのは、同時だった。
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