モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
甘える薬売り:10000hit
蝉の啼き声が耳に痛い。
聴いているだけでも暑さを感じるそれは、まさに夏の風物詩。
畳の上に寝転がって、四肢を投げ出す。
チリンと鳴る風鈴の音が、清涼感をかもし出していて耳に心地良い。
「ごめんください」
チリン、と鈴の音。
庭先に生えた草木は照りつける陽射しに青々と繁っている。
鮮やかな、極彩色に溢れた庭園。
冬の庭も好きだが、生命に溢れるこの季節の庭も好きだ。
「ごめんください」
ギシ、という音。
人一人の重さに床が軋む。
大きくなる足音と共に近づく気配。
姿を見なくとも、相手が誰か分かる。
庭と同じ位鮮やかな衣装を纏った男が姿を表すと、小さな溜め息をついたように見えた。
「居るなら、返事くらい、したらどうですか」
「声が薬売りだったからな」
「俺だと、返事も、しないと」
背負っていた巨大な木箱が下ろされる。
中で陶器と天秤がぶつかりあう、高いながらもどっしりと構えたような音がした。
男が傍に来て座る。
私は起き上がらずに、見下げられるまま。
「薬売りならば、勝手に上がりこんで来るだろう?」
「どういう」
起き上がろうとすれば、男は少し前屈みの格好で私を覗きこんでいたので背筋を伸ばす。
男が動くと香りも動く。
香の匂いで誤魔化したつもりのようだが、硝煙と血の臭いが鼻を掠めた。
運が、良い。
「汗臭い」
ぼやけば、男は少し驚いた表情。
「水浴びは、して、いましたが」
「服についている。洗うから脱げ」
「今、ここで、ですか」
「調度風呂も焚いている最中だ。まだ温いだろうが、今の季節には調度良いだろう」
男に貸す服と布を取り、脱衣所に向かう。
「脱いだ服は」
「籠に、でしょう」
「そうだ」
脱衣所を出て暫くすると、壁越しに男から声がかかる。
それは脱衣所に入って良いという合図。
男の脱ぎ捨てた服と盥と洗濯板を持って庭に出た。
浴室の傍に井戸があるので、男が作る音が私までよく聞こえ、私が作る音は男の元まで届く。
「湯加減は?」
「調度、良いです」
「そうか」
陽射しが照りつけて、黒い浴衣は熱を吸収する。
袖をたくし上げて腕を晒していると、チリチリと肌が焼ける感覚。
太陽に背を向けているのだが、一枚着衣を纏っている背も皮膚が焼ける感覚がする。
洗う服には多分男のものであろう、今は乾燥して黒くなった血が付着していた。
血は染みになる。
襟元に黒い染み。
鮮やかな衣装故にそれは目立つ。
この服は、もう駄目だな。
それでも落とせないだろうかと躍起になって布地を擦る。
水の色が変色して、ほんの少しばかり生臭さが鼻をついた。
きっと男の身体には、まだ生傷がある。
他の衣装も洗い終わって干す。
陽射しが強いから、早く乾くだろう。
頬を伝う汗を手で拭い、盥の水を捨てる。
すでに出来た水溜まりに更に水が加わって、地面の広範囲を濃い土色に変えた。
しかし暑く乾燥した空気に水はすぐに気化して、大地の匂いが充満する。
「西明」
「何だ」
「熱い、ですね」
「こちらも暑い」
「そろそろ、あがります」
「私も室内に入るとするよ」
薬草を摘んでから縁側に向かうと、風鈴がチリンと音を奏でていた。
屋内を吹き抜けてゆく風はひんやりとしていて、少し汗をかいた身体に心地好い。
飲み水を組んで、机に置いておく。
棚からすり鉢を出して、畳の上に座って薬草をすり潰していると、白い着物を着た男が肩に布をかけて出てきた。
水を含んで垂れ下がった髪が重たそうで、何故こいつはいつも中途半端にしか水気を吹かずに脱衣所を出て来るのだろうかと、そんなどうでも良い疑問が浮かぶ。
男は無言で机に置いた水を飲み、空になった硝子をトン、と机に戻した。
「西明は、何を、して、いるんで?」
「見れば分かるだろう。こっちに来い」
男はゆっくりした動作で私の傍に腰かけると、前髪を掻き上げて額を晒した。
先程まで藤色の頭に巻いた布で隠れていた額。
そこには赤い筋が四本。
まるで鋭利な爪で引っ掛かれたようだ。
頭部は傷に比べて出血が多い。
あの血痕から傷は大きいと思っていたが、勘違いで良かった。
「小さい、でしょう?」
だから大丈夫だと、暗に言われる。
「菌が入れば傷の大小に関係無く厄介だと、知っているだろう」
「まぁ、そう、ですね」
風呂上がりの男の身体は熱を孕んでいて、触れると熱い。
何と戦ってきたかは知らないが、これだけの傷で済んだ事に、少し安堵する。
布を巻こうとして、髪が濡れたままだと云うのを思い出す。
「髪を拭いてくれないか」
「……」
「薬売り」
「疲れて、まして」
「それでは傷口に布を固定できない」
だんまりを決めこんで、本当に迷惑な奴だ。
「手ぐらい動かせるだろう」
見せられ手には、深く大きな切り傷。
「先にこれを見せないか。傷だらけじゃないか」
「西明が、怒る、ので」
「怒っていないだろう」
「怒って、ますよ」
「怒っていない」
何を怒ると云うのだ。
男の本業が退魔である限り、戦いは逃れられない。
半端者が退魔を行おうとして逆に命を失うなんてことは、よくある。
そんな中、命に関わらない程度の怪我だけで済むなら上々だ。
「手はそのままに、動くなよ」
男の後ろへ回って布で髪を束ねて固定する。
「頭巾みたいだ」
「中が、蒸れます」
「少しの辛抱だ」
髪から垂れた水が傷口に触れるのはあまり良くないから、手と腕の手当てをしている間だけは束ねていてもらおう。
男の手を取り、薬を塗る。
男の物だとは思えないほど節が無い指は白くて細くて、まるで女人の手だ。
爪が長く形が良いのもきっと理由にはなるが、指が長くて、その全体の大きさから男だと知れる程度。
容姿も女より麗しい。加えて手が小さければ、どこをどう見ても外見だけなら女性となるだろう。
手と腕に薬を塗り、布を巻いて、簡素な治療は終わる。
男の背に回れば、髪を拭いてくれるんで?と問われる。
「両手を怪我している者にやれと言うほど、鬼ではない」
「左様、ですか」
布を解いて、柔らかい髪を拭く。
水気を取る程度に拭いていると、男がゆっくりと猫背になってきた。
やりにくいと言おうとして、やめる。
疲れているのだろうと自己完結をして、髪を拭くのに専念した。
蝉が力の限り啼いて、風鈴が風の気のみ気のままに音を奏でる。
それらは本場の夏が訪れたのだと、告げていて。
「暑い、か」
私が住むこの場所は北に位置する。
それ故に男は夏場にここを訪れるのだが、南の夏はどれほど暑いのだろうか。私には想像し難い。
きっと、想像している以上に暑いに違いない。
だから私が今ここで暑いとぼやいたとしても、男にとってそれは甘えた意見なのだろう。
ある程度まで拭いてから、傷口を覗きこむと薬が乾いて、痂のようになっている。
布を巻く必要は、無いかもしれないな。
「眠るか?」
背中を柔く叩いて問いかければ、頭は左右に振られて髪がふわふわと動く。
「そうか」
相手も大人だ、本人が眠りたくないと云うならば、無理に寝かせる必要はない。
使用した物を片づけていると、背後にいた男がもたれかかってくる。
少し湿った感覚がして、頭を背に押し付けられているのだと気づいた。
風が吹き抜けて、髪が頬を少し掠めてゆくから痒い。
蝉の声が反響する。
「西明」
私を呼ぶその声はか細くて、蝉の合唱に容易く飲み込まれて消える。
「西明」
「何だ」
「西明」
「うん?」
「西明……」
ただただ繰り返し私を呼ぶ男は、私の帯に指を引っ掻けたようだった。
存在を確認するように何度も名を呼ぶ男に、問いかけて良いものか悩む。
男は言いたいことがあれば言う人間だ。
けれど今は、喉元まで来ているのに出てこない。言いたいのに言う勇気がない。一歩が踏み出せない。と云う状態のようで、言葉は続かない。
否、本当はまだ言うべきか言わざるべきか悩んでいるのかもしれない。
ここで私が問いかければ、男は吐露するだろう。
しかしそれで男が後々後悔することになりはしないだろうか。
あぁ、駄目だ。
まるでこの思考回路は円環で逃げ場がない。
ここは男の中に溜まった膿を出す為に、刃となろう。
「薬売り、何かあったか?」
帯と背の間に挟まっている指が少し動いたのが分かった。
けれど返事はチリンと、風鈴の音だけ。
まだ一歩が踏み出せない。
それはそうだ。
その一歩で男は傷口を晒すことになる。
その傷がどれ程深く、化膿しているか、私には分からない。
分からないから、正直、怖い。
けれど、やはり私には、お前が見捨てられない。
なぁ、薬売り。
半端にお前の心の壁を崩す私をどうか許してくれ。
「薬売り」
「人は、醜い」
吐き出された言葉は、重たくて、苦しい。
その言葉の裏を咄嗟に探る。
物の怪を退治する際に見させられる部分に、普通なら人が敢えて気付かないふりをして目をそらす部分がある。
それは醜くて、利己的で、とても残酷だ。
「西明も、そう、なのですか」
「私も、醜いよ」
お前が傷を負う度に、身勝手な感情が暴れ狂う。
薬売りがそれをしなくても、いつかは誰かがやってくれるのだからお前がやる必要はないと、だからお前が人の醜い部分をわざわざ見ることも、傷みを背負うことも無いのだと。
身勝手な気持ちだ。
私が嫌だから薬売りから生業を取り上げようとする。
そして居もしない誰かに後は任せて見ないふりを決めこもうとする。
何て浅ましく、醜いのだろう。
薬売りの考えを無視して、自分の我が儘を押し付けるなんて出来ない。出来るわけがない。
それに今この時だけ私が足枷となって男を囚えたとしても、その足枷は男の時間軸からすればすぐに朽ちて消える。
私が死んだ後を考えると、私は足枷になどなれない。
一度醜いものから離れた後にまた同じ状況に戻されることほど、酷なことは無い。
甘い蜜を知ったものは、その甘さに酔いしれ苦汁を口にすることが出来なくなるのと同じだ。
「西明」
返事が出来ない。
どうなるかなんて分かりもしない未来を考えて胸が苦しいなんて、馬鹿げている。
未来に恐怖を抱くことほど、時間が無駄なことはない。
帯がクイと引っ張られる。
「今暫く、このままで、良い、ですか?」
「好きなだけ、そうしていろ」
中途半端に猫背な格好は、少しばかり辛くはあるが、我慢できない体勢ではない。
何もすることがなくて、襖を眺めるだけ。
すると聴覚が異様に研ぎ澄まされて、蝉が啼いて、風鈴が鳴って、何処かで犬が吠えて、一人の時と何も変わらない空間だと錯覚してしまう。
しかし背中にある温もりは存在を主張していて。
背中が湿っているのは、汗ばんだせいなのか、男の髪の水気なのか、分からない。
ただ背から伝わる男の体温が、熱い。
「傍に」
蝉の声に紛れて、何かが聴こえた気がした。
それは私にとって都合が良くて、でも甘えてはいけない台詞。
だから今聴こえたのは、都合の良い幻聴だと思い込む事に決めた。
蝉が啼く。
男がいる。
夏が、来た。
〜終〜
リクエスト作品
『甘える薬売り』でした。
中途半端に甘えていて済みません。
- 28 -
[
*前
] | [
次#
]
←
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -