モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
良い香り:柚胡椒様へ
頭痛を引き起こしそうなくらいの蝉の合唱。
夏特有の肌に纏わりつく空気。
何故、とか、暑苦しい、と思う前に鼻腔を刺激した香りに目を細める。
肺いっぱいに吸い込むと、脳髄が麻痺した。
あぁ、良い香りだ。
否、脳髄が麻痺しようが何だろうが暑いものは暑い。
心頭滅却すれば火もまた涼しいなんて、それは思い込みが出来る奴の言い分だ。
今までの己を構成する概念である心と脳を消せば火も涼しいと思い込めて、それで真実さえ覆すことは出来る。
人間八割は思い込みから出来ている。それは真実。
しかし、しかしだ。
私は今まで自分を構成した概念を容易く捨てることは出来ない。
だからこそ蝉の声に暑さが増すし、川のせせらぎに清涼感を覚える。
それを捨てる意味が分からない。
暑いものは暑いのだ。
その理を覆してまで無理をしなくてはならない場面に出くわした事が無いから言えることだと理解してはいるが、この甘えを含んだ考えを悪いとは思わない。
強者が弱者の気持ちが分からないのと同じで、人は知らないことに鈍感なのだ。
だがこの鈍感さも、生きてゆく上ではとても大切な部分をしめている。
だから悪い事ではない。
何にでも敏感である方がこの世界では生きづらいのだ。
この世界は物分かりの良い敏感な奴に厳しく、物分かりが悪くて鈍感な奴に優しい。
ならば敢えて、何も知らない、何も分からない鈍感として過ごそう。
とまぁ、鈍感で居るのは構わないが、現実を直視しないような愚者になるのはいただけないからいい加減現状況を理解しよう。
まず、そう、暑いのだ。
相変わらず気ままな猫の様に表れた薬売りは、庭で夏の陽射しを一身に受けて原色に近い鮮やかで艶やかな野菜を採っていた私に挨拶もそこそこ、急に抱きついてきた。
籠に盛った野菜は縁側に置いた直後、つまり邪魔になる物が何もない状態で。
つまり強く抱き締められたら体は密着するし熱は伝わってくる。
それで暑いのだ。
否、それに加えてチリチリと頭皮と背を焼く陽射しが暑いし、加えて皮が引きつる感覚が痛い。
これが現状況。
いい加減放してもらわなくては思考が溶けてしまいそうだ。
暑さに加え、なんとも芳しい香りが呼吸をする度に肺を満たす。
思考が、麻痺する。
「薬売り」
背中をやわく叩けば、身体はあっさりと放れて、もっと早くに声をかけていれば良かったと心でぼやいた。
「家に入ろう」
こんな炎天下に居ては、倒れてしまう。
暦上一番暑い時期なのだから、熱中症には気を付けなくてはならない。
「西明」
やわらかい声音に意味はないのだと知る。
暑さにやられてしまったが故のたわごと。
そんな暑苦しい格好では、仕方ないか。
少し塩を入れた冷や水を出すと、男は喉が渇いているわけではないと言った。
熱中症は自覚症状が無いとはよく聞くが、このままではまずい。良いから飲めと言うと、男はあっという間に飲み干した。
陽射しを浴びて旅をしているはずなのに白磁器の肌は血色が失せている様で、倒れるのではないだろうなと疑ってしまう。
尤も、いつもこいつはこの血色なのだが。
風が吹く。
するとまた、あの香りがうっすらとした。
「香か?」
「えぇ、まぁ」
いつもは薬草の匂いを漂わせていたのに、何でまた急にと思ったが、口には出さない。
興味を持つのは悪いことではない。
それにけして悪い匂いではない。
「変わった香りだな」
「嫌い、ですか」
「好きだ」
「俺のことは」
「引っ掛かると思うなよ」
「残念」
皮肉を込めて口の片端を釣り上げると、薬売りも似たような笑みを浮かべた。
「それで」
「何ですか」
「それは何の香りだ」
「海を渡った先にある、らべんだぁ、という花の香りです」
「渡来した品か。よく買うな。高いだろうに」
「薬と、物々交換、ですよ」
成る程な、と納得する。
薬売りは荷を漁り、藤色よりもは青い稲穂のような物を出した。
「茶香炉と同じ要領で薫いても、良いそうです」
「そうか」
「あげますよ」
釘付けになっていた視線を薬売りに向けると、薬売りは笑った。
そんなに物欲しそうにしていただろうか。
確かに良い香りだ。
いや、しかし。
「いらない」
「何故」
「人は他人の匂いには過剰反応するくせに自分の匂いには鈍感だ。否、慣れ過ぎてもっと強い香りでないと感じられなくなる」
「つまり?」
「つまりその香りを絶えず嗅いでいたらいつか反応しなくなる。そんなに良い香りなのに、とても勿体ないだろう?」
「まぁ、そう、ですね」
「だから嫌だ」
薬売りは納得した様で、肩を下げた。
しかし俯いているが少し見えた表情は、口の両端を上げている。
「西明」
「何だ」
「この香りは、俺、ですか」
面を上げる薬売り。
きっと私は今、意味が分からないと怪訝な表情をしているに違いない。
それでも男は嬉々とした感情を隠そうともせずに無邪気に笑っている。
何なのだ。
暑さも相まって、不快指数が増す。
睨むが、薬売りは尚のこと笑うだけ。
誠に暑さにやられてしまったようだ。
「これは、置いてゆきます」
「先程言ったことを聞いていなかったようだな」
「聞いていました。だからこそ、ですよ」
「嫌がらせか」
「あながち、外れていません」
男が笑う。
何となく、分かった。
しかしその憶測を公定するのはあまりにも、癪に障る。
否、しかし公定するに十分すぎる。
人は他人の香りに敏感で、だから私は薬売りの香に過剰に反応した。
それは嗅ぎ慣れていないのもあって、この香りが薬売りだと刷り込みが起きている。
成る程。だから出会い頭に強く包容をして私に香りを覚えさせたのか。
あぁ、本当に、聡いのはよろしくない。
鈍感さも、必要だ。
薬売りはこの香りを嗅げば薬売りを連想すると分かっているのだ。
だから、らべんだぁとやらを置いていく。
嗅ぐ度に思い出させるために。
嫌な奴だ。
それと同時に、自分も自分に優しくないから嫌だ。
もっと鈍感ならば、この香りを楽しめたのに。そう思うと悔やまれてならない。
〜終〜
6/25の誕生花
フェンネル
良い香り
柚胡椒さんのみお持ち帰り可能です。
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