モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
春
雪が解けた地面に緑があった。
久方ぶりに見た新緑色。
きっとあの人はこの色を見て、口元を綻ばせるに違いない。
それを思えば胸が温かくなった。
まるで陽だまりに居るようで、とても心が満たされる。
私はあの人の居る家へと、浮き立つ気持ちを押さえられずに軽い足取りで向かった。
ハル、はる、春
陽が延びた。
あと少しすれば、新芽が現れる事だろう。
雪も少しずつ解けだしている。
川の水が増量したのを見れば、それは明らかだ。
キシリと、床が音を奏でた。
次いで、滑らかな声音で西明、と名前を呼ばれる。
振り返ればそこには薬売りが居て、私の隣に立って景色を見た。
白銀の世界。
陽が延びた事や雪解け水から、春が近いと感じる。
しかし、見た世界にはまだ春の訪れは見られない。
何処かで猫が鳴いた。
「黒猫だ」
「何故、分かるんで?」
「声で分かる」
「猫は、どれも同じだと、思いますが」
「少しばかり違うよ」
薬売りはそんなものですかね、と言って辺りを見回した。
私は声の方へ視線を向ける。
チリンという鈴の音が聞こえた。
そこには塀があるだけ。
しかし、すぐに鈴の音と共に黒猫が塀へ飛び乗って姿を現した。
どうやらお隣さん宅を通り道にしているらしい。
「にゃあ」
駆け寄るその子を抱き上げようと、しゃがんで腕を延ばす。
相手は期待を裏切らず、胸に飛び込んできた。
背を撫でていれば、黒猫は私に擦りついてくる。
可愛いと、思う。
「にゃぁ」
黒猫は背を伸ばして、軽やかに腕の中から抜け出した。
「黒猫?」
地面に飛び降りた黒猫。
チリンと鈴が大きな音を奏でた。
黒猫は少し離れた場所で振り返る。
にゃあ、と鳴いて私を見つめてきた。
そしてトコトコと歩き出して、また振り返ってにゃあと鳴く。
「何ですかね」
「さあ。付いてきてくれと言われている気がするな」
「にゃあ」
黒猫はチリンと鈴を鳴らして、頷いた。
どうやら付いてきて欲しいらしい。
外套を着ていないのだが、今すぐ付いてこいというのか。
もしかしたら倒れた人でも見つけて、私に助けを求めに来たのかもしれない。
縁側の下に置いてある下駄を出して履く。
「西明、行くんで?」
「行くよ」
私は黒猫の後をついて行く。
薬売りの分の下駄は縁側の下に隠してはいない。
それを知っている薬売りは屋内に姿を消した。
あいつは寒がりだから、家で待機するつもりなのだろう。
「にゃあ」
早く早くと言われているみたいで、私は黒猫の方へと歩を進めた。
庭から表の通りへ出る。
すると私の店先の扉がガタガタと音を立てながら開いた。
中から現われたのは極彩色の着物。
「来るのか」
「えぇ」
ほら、と渡される外套。
すべてを理解していたのか。
受け取って、外套を羽織る。
「ありがとう」
「どう、致しまして」
「にゃあっ」
黒猫は少し不機嫌な声を上げた。
見ればすぐにそっぽを向かれる。
すぐに歩き出す小さな後ろ姿。
隣にいる薬売りが小さく笑ったのが分かった。
私と薬売りも歩く。
黒猫は川沿いに出て、上流へと向かう。
何があるのだろうか。
黒猫は駆け出したりしないから、急ぎの用事ではないのだろう。
これだけ歩き回るなら、外套を着なければ身も凍る寒さだったに違いない。
今更だが、薬売りの気遣いに心から感謝した。
雪を踏みしめ人が入らない地へ足を進める。
聞こえる音は黒猫の鈴の音と、私と薬売りの息遣いだけ。
寒さに手足と鼻先が痛い。
冬にこれだけ人が入らぬ場所へ足を向けるのは初めてだ。
一人では、決して入りはしない。
もしも足を踏み外したら、そんな事を考えてしまう。
今は一人ではないから足を踏み外したとしても、助けてもらえるのだ。
その安心感から、踏み入れた事の無い地で、雪が降り積もって足場が危うい場所も歩ける。
葉が落ちて細枝を晒した木々が茂る山。
山の斜面に入る前に、黒猫は立ち止まった。
そこは雪解け水の通り道で、地面が露出している。
「にゃあ」
黒猫が私を見る。
私は黒猫の前にしゃがんだ。
黒猫は少し後退する。
すると、そこには淡い緑。
「新芽、ですね」
後ろから覗き込んだ薬売りが言った。
そう、そこには小さな小さな新芽。
日照時間の短さと、背の高い木々により日が射さないこの地に生えた新芽は、とても淡い緑色だ。
昨年見た新芽は、これより色が濃かった気がする。
「まだ寒いのに、新芽か」
「せっかちなのかも、しれませんね」
「そうかもな」
せっかちな新芽。
せっかちと云う表現は強ち間違えてはいないかもしれない。
だが、せっかちであっても、この新芽がこう言っている事は確かだ。
春はすぐ傍まで来ているのだと。
〜終〜
北陸はまだ雪が降っている
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