モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
冬至
一年で一番日照時間が短い日、それが冬至である。
「薬売り、風呂が沸いたぞ。先に入ってくれ」
「先で、良いんで?」
「あぁ。温まってこい」
そう言ってこの家の主人は、すぐに台所へと姿を消した。
薬売りと呼ばれた男は、いそいそと支度をして風呂場へ向かう。
釜風呂である浴場に入ると、湯煙が霧になって視界を暈した。
金縁に触れないように慎重に浸かれば、柚子の香りが仄かに鼻腔を擽る。
見れば数個、柚子が水面を漂っていた。
薬売りは、成る程、と一人納得する。
今日は冬至。
冬至に柚子湯に入れば、風邪や中風にならないという習慣がある。
一番風呂の方が気持ちが良いと考えて、この家の主人である西明は薬売りを先に入れたのだろう。
気遣いを思って、薬売りは一人笑みを浮かべた。
どうりで、風呂に入れと言った後、すぐに姿を隠したわけだ。
西明は相手に気取どられそうな気遣いをする時、そそくさと逃げる節がある。
気付かれるのが、恥ずかしいのだ。
だから言い訳をしてしまう。
けれど言い訳をしたら、更に気取られてしまう。
ならば言い訳をする前に口を閉じるしかない。
その為に、薬売りの前からすぐに消えてしまうのだ。
「可愛い子だ」
薬売りは一人笑う。
一番風呂をありがとうと、伝えようか。
気持ちが良かったと、俺は柚子の香りが好きだと、伝えようか。
西明はきっとそうか良かったな。と淡泊な返事を、視線を反らして早口にするに違いない。
それもそれで、可愛い。
一人考えて、薬売りは笑った。
もっと相手が恥ずかしがる事を言ってやろう。
一番長い夜なのだから、可愛がっても良い。
そんな事を考えながら、薬売りは風呂を出た。
「お先、しましたよ」
「あぁ、出たか。では入ってくるか」
卓に手を突いて立ち上がると、西明は衣類と手ぬぐいを持って浴室へ向かう。
その後ろを、黒猫がついて行く。
「お前も入りたいか?」
「にゃあ」
「そうか」
にゃあ、という返事だけで黒猫の気持ちを汲んだ西明は、桶を持ってゆく。
薬売りは、何もせずにそれを見送った。
西明は浴槽の柚子湯を桶に張る。
桶に黒猫が、浴槽に西明が浸かると、どちらともなく、ほう、と息をついた。
気持ちが良いのだ。
柚子風呂なんて贅沢は、なかなか出来る事ではない。
黒猫が風呂嫌いでなくて良かったと、西明は思った。
猫は風呂が嫌いと言われるが、もし嫌いだったらこの至福の時間を味わえないのだ。
西明は黒猫に柚子湯をかける。
気持ち良いと言うように、黒猫はにゃあと啼いた。
風呂から上がった西明と黒猫は、薬売りが居る居間へと戻った。
「まだ寝ていなかったのか」
「眠くないので」
「日の暮れが早いからな、夜が長い。なのに眠れないから厄介だ」
「西明も、眠れないんで?」
「早寝する習慣があまりなくてな」
ふむ、と言った薬売りは、ところで、と話題を飛ばす。
「寒くは、無いですか」
「湯冷めしたのか」
「少し」
さっさと布団に潜れば良いのに。
西明がそう言っても、眠くなかったので、という返事がきた。
「風邪をひいたら元も子もない」
せっかく風邪をひかないようにとの願掛けをした柚子湯に入って風邪をひいたら、それこそ笑い種だろう。
もう寝るべきだ。
湯たんぽを入れようか。そうすれば温かくして眠れる。
「こたつに潜っていろ」
部屋から出るのは嫌だが、薬売りに風邪をひかせるわけにもいくまい。
西明は台所に向かおうと、腰を上げる。
すると薬売りから、待ったの声。
「湯たんぽはありますから、平気、ですよ」
それも、良い香りのする。と薬売り。
西明は眉間に皺を寄せた。
薬売りが手を伸ばす。
西明に触れる少し前、そこで黒猫が少し大きな声で、にゃあ!と啼いた。
「にゃあ」
もう一度啼いて、薬売りに駆け寄る黒猫。
二人の仲の悪さを知っている西明には、その姿が異様に見えた。
薬売りすら、少し困惑の色を見せている。
黒猫は何を思ったのか、薬売りの膝に乗った。
そして丸まって、寝る姿勢。
西明の代わりに、自分が湯たんぽになると言いたいらしい。
「温かい湯たんぽが出来て良かったな」
「毛深い湯たんぽは、好きではありません」
それに、と言って、薬売りが黒猫に手を伸ばせば、引っ掻こうとしてくる。
子供だが、尖った爪は出血するに十分だ。
「これでは、膝から動かない、ただのぬくい石と、変わらない」
「良い香りがするだろうに」
「肩が凝りそうです」
「それは難儀な」
難儀だと言いながら、さして気にした様子はない。
西明は暇つぶしにと言って、数冊の書物を持ってきた。
二人と一匹から香る柚子の香りは、書物に染み入ることだろう。
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