モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
常闇
総てが闇で、無音だった。
試しに口を動かして声を発したつもりだったのだが、聞こえないはおろか、空気が震えた感覚もない。
瞬きをしているのか、目蓋を開けているのか、閉じているのか、それも分からなくなってくる。
否、元から目蓋を開けているか開けていないか、これは私が見ている闇の世界なのか、それとも見ていない闇なのか、分かっていない。
ついいつもの癖で、闇が広がっていても夜だから、と考えてしまった。
いや、しかし、もし見ている世界が闇に支配された世界ならば、それほど怖いことはない。
前も後ろも総てが闇。
出口は何処だ。光はないのか。
足を動かそうとして、足の感覚が無いことに気付く。
何故、どうして。
掻く方法も思い出せない。身体の動かし方とはどんなものだっただろうか。分からない、分からない。
視覚もなければ聴覚もない。
触角がなければ当然ながら嗅覚も味覚もない。
そうだ、最初やったつもりだったが、私は本当に声を発っせていたのだろうか。
分からない。声の出し方も知らないし、何より呼吸も思い出せない。舌の感覚も顎も、歯と歯が当たる固い感覚も、何もない。
まるで脳味噌だけになったみたいだ。
そんな筈はない。どうして私が脳味噌だけの存在になるのだ。
淀み一つ無い誠の闇を前に、心がまるで茹で卵のように、硬い殻を剥がしてゆく。
パリパリと剥がれて、軟弱な白身が表れてしまう。
厭だ。弱くなんてなりたくない。
心を守る強固な壁が闇を前に簡単に亀裂を生んで崩れてゆく。
やめてくれ。
私は、そんな弱い人間になりたくなぞない。
弱さを認めたらもっと弱くなる。
だからやめてくれ。これ以上壊れるな。
もし涙を流せるならば、とっくに流していることだろう。
でも私には目が無いから涙も流れない。
涙を流せないなら、まだ強くあれる。
不愉快だが、今だけは感覚も何も無いことを感謝しよう。
しかし常闇は時間感覚を、精神を蝕む。
自分を見失うのは、何年先かもしれないし、1秒後かもしれない。
流暢に考え事が出来ている自分は、なかなか精神が図太いとみた。
脳だけでも生きてゆける強さを、善と見るか悪と見るか。これは難しい。いっそ発狂したほうが楽なのかもしれない。否、そんな自分は今だある自尊心が許しはしない。
しかし何故発狂しないのか、不思議な感覚だ。
いっそ、闇が懐かしいとすら感じる。
私はある筈もない目蓋を閉ざして、闇に溶け込む心地よさに浸った。
そうそれはまるで
羊水に満たされた子宮のような
そんな心地よさ
何もない、墨に浸ったような世界に、歪みのようなものが生じた。
見えるということは、目を閉ざしていなかったのか。
そこに意識を集中させれば、闇の中に白い靄が生まれる。
純粋な闇が汚されているみたいで、少し不快になる。
続いて聴覚が犯された。
音を拾わず存在すら忘れ去られていたのに、布擦れの音が聞こえてくる。
靄の向こうに何か居るのに気付く。布擦れの音がそれからしているのだと、直観的に理解した。
続いて、冷たい空気が温かい部屋に、隙間から入ってくるような、ぞんな重たい空気が肌を撫でる。
たちまち身体があるのだと理解させられて、こんな簡単に感覚とは消えては生まれるものなのかと思った。
前にいるそれは、狐の面を付けていて、この世界に不似合いな色をふんだんに拵えた着物を纏って、その上から火鼠の皮で作った羽織をかけている。何故火鼠だと分かったのかは理解出来ないが、ただ、分かったのだ。
「―――」
相手が何か言うが、まるで聞き取れない。狐の面のせいなのだろう。
しかしおかしなことに、聞き取れないのに何を言いたいのかが分かった。
迎えに来たと、言っている。
何を迎えに来たのだと、口を動かせば今度は私の耳にも自分の声は届いた。
私の声はこんな音だったのか。そんなことをぼんやりと思った。
相手は閉じた扇子を私に向ける。あぁ、爪が藤色に染まっていて、綺麗だ。
その立ち姿で、私を迎えに来たのだと言うから、何故、と問えば、何故?と問いを返された。
まるで迎えにくるのに不都合でも?と訊ねるような、そんな風に狐の面は首を傾げた。
眺めていると、また首が傾いた。
それから何かに気付いたように一度頷いて、扇子を袂にしまった。
そして、手を差し出してくる。
――ゆきましょう。
――何処へ。
――お忘れで?
せせら笑うような台詞に、首の後ろ、毛の生え際がチリチリと焦げるような、そんな焦燥感。
――何を、忘れていると。
――それすらも、忘れてしまづたのですか。しかし構いは、しませんよ。
少し特徴のある口調。
ますます分からない。
――迎えに来たんです。
脳に響く声に、急に苦しさを感じた。
謝罪が胸を締め付ける。
私は、私は。なんてことだ。
――済まない。本当に済まない。
その場に膝をついて、蹲る。
狐のお面は首を左右に振った。蹲って狐のお面を見てなどいないのに、左右に首を振ったのだと分かった。
――お前の名を思い出せない。
――名前に何の意味が、あると?そんなモノ、無くて困るものでも御座いません。
――お前のかんばせすらも思い出せんのだ。
――顔などなくても困りはしません。
――済まない、本当に済まない。
先程まで流れもしなかった涙がほろほろと零れ落ちてゆく。
闇に吸い込まれた涙は姿を消すのが、せめてもの救いだ。
涙が残ることほど、嫌なことはない。
あぁしかし、本当に、何故。
何故思い出せんのだ。
私はお前を、大切だと思うていたのに。
――存在を、覚えていてくれた。それだけで、満足です。
そんな筈はない。
名も顔も忘れられて、だのにどうしてそんな柔らかい声で私に語り掛けるのだ。
――。
相手が何か言うが、それが聞き取れない。しかしそれが私の名なのだと、理解する。
――なぁ。
――はい。
――私は死んだのだな?
――はい。
――そうか。
――はい。さぁ、ゆきましょう。
――お前は何処までついてくるのだ。
――果てまで。
――なんだ、お前も死んだのか。
――待たせてしまいましたね。
――闇の中では時間が曖昧だ。おかげでどれだけ待ったかも分からん。
――それは、良かった。
狐のお面は私に銭を渡してきた。六文分ある。
なるほど、これで黄泉を廻るのか。
私の分まで持ってくるとは、なかなか用意周到だ。
――。
相手は私の名を呼ぶ。しかし当然の如く聞こえなかった。
手を繋ぐ。相手の手はとても熱くて火傷するのではないかと思ったが、私はまるで寒天のように相手の熱を自分のものにしてゆく。
握る手に力を込める。
闇の中ではぐれては、もう会えないかもしれない。
それだけは後生だから止めて欲しい。
せめて私が六つ目の道に辿り着く迄は共に居て欲しい。
死人の戯言だと思われるかもしれないが、一度他者を知ってしまっては、独りがたいそう怖くなるのだ。
そこに着いたら、狐の面に私が持ってきている六文銭を渡そう。
そうすればこいつは帰れる。
本当はまだ死んでなぞいないこいつは、私に付き合って死ぬべきではないのだ。
〜終〜
薬売りは大切な人が死ぬ度に黄泉への道先案内人をしていたらいいと思います。
闇の中、主人公を探して見つけて、黄泉へ送るだけ送ると現世に戻れと言われて渋々現世に戻り、生まれ変わってくるだろう主人公を現世でひたすら待つっていうのを繰り返していたらいい。
頑張れ薬売り。
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