モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
河川敷にて
「あ」
小さな声を上げて、隣にいた奴が屈んだ。
「鼻緒か?」
「はい」
どれ、と私も屈む。
すると右足が少し出されて、見れば親指と人差し指の間にすげられた鼻緒が切れていた。
高下駄の鼻緒は旅の疲労に勝てなかったのだろう、擦り切れてしまったのだ。
男は今日、身軽な格好である。
それもその筈、散歩に出かけただけなのだから。
河川敷に腰を下ろして、右足の下駄を脱ぐ男。
高い空を見上げ、良い天気ですね、と呟かれた。
隣に腰を下ろす。
砂利は尻に痛いが、足を延ばして座れば全体に体重が分散されるから、そこまでつらくない。
前を向けば、川が乱反射して眩しい。
目を細めていると、隣で小さく笑う気配。
「何だ」
「いえ、あまりにも、眉間に皺を、寄せるもので」
「眩しいのだから、仕方ないだろう」
空を見上げる。
青一色だ。
今日は綺麗な橙の夕焼けが見れるだろう。
紫に染まる鱗雲や筋雲も綺麗だとは思うが、鮮やかな橙も好きだから、少し胸が踊る。
隣で薬売りが横になる気配。
あぁもう、好き勝手してくれる。
「鼻緒はどうするんだ」
「散歩に来たのですから、鼻緒の代わりなんて、あるわけないでしょう」
それより、一緒に横になりましょうよ。
大の大人が二人、河川敷で横になっていたら土手から見た人が驚くに違いない。
それに私は、外でだらけた姿を曝せる程の恥知らずではないのでな。
「断る」
「つれない、御方だ」
「承知の上だろう?」
「可愛げの無い」
「可愛くてたまるか」
「では」
区切られる言葉。
何だと首だけを捻って薬売りを見れば、こちらに手を伸ばしていた。
「綺麗、ですよ」
そう言って髪に触れてくる。
薬売りは私の髪が好きだ。
綺麗だとよく言ってくる。
けれど私のように黒髪で同じ髪質の人は五万といる。
だからこんなお世辞を言われても、笑うしかない。
「私はお前の髪が好きだ」
頭巾から出ている髪に触れる。
「あら、西明先生」
急に掛けられた言葉に、心臓が大きく脈打つ。
すぐさま手を引っ込めるついでに、髪に触れる薬売りの手を払い除けた。
「こんにちは」
素早く立ち上がって、尻を叩く。
土手にいる女性は朗らかに笑いながら、こんにちは、と返してくれた。
「あら、薬売りさんも。こんにちは」
「こんにちは」
上体を怠慢な動きで起こす薬売りは、くつくつと笑っている。
「見られていなかった、みたい、ですよ」
「煩い黙れ」
小さく呟かれた言葉に睨み付けるが、意味がないらしくまた笑われた。
その、すべて見通したような態度が癪に触る。
まだ起き上がらない薬売りを無視して、土手に上る。
「西明」
後ろから名前を呼ばれようが、知ったことではない。
「あら、薬売りさんはどうしたんですか?登ってこないわね」
「砂利道を高下駄で歩くものだから、鼻緒が駄目になってしまったんですよ」
「困ったわね」
「お気になさらずに、あいつが考えなしにあんな所を歩くから悪いんです。それに、今から草履を取ってくるつもりですから」
「ふふ、優しいのね、西明先生」
「取りに行ったまま戻ってこないかもしれませんよ」
「嘘ばかり」
女性が口元を手で隠して笑う。
発言は少し物騒だが、たおやかな動作だ。
女性はふふ、と笑った後、私の髪に触れた。
「薬売りさんと、髪の触れ合いっこをなさっていらしたじゃない」
その発言に、一寸硬直したのは言うまでもない。
〜終〜
公共の場に薬売りと居るのは、やめようか。
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