モノノ怪 日蝕 | ナノ
が
闇に紛れて森の中を歩いているために、時折身体に枝が当たる。
痛みよりも、それで生じる音を私は恐れた。
枝を踏んではパキリと音がする。
枝に当たっては葉の擦れる音がする。
これが敵の耳に届いたら。
そう思うと怖かった。恐ろしかった。
私は紐を強く、強く握った。
パチ、と耳に心地良い音が鳴った。
薔薇の前に居るカエは片手に鋏を持って、咲き乱れている薔薇から二本、選びぬいた花を切る。
リビングのテーブルと母親の部屋にある花瓶に一つずつ、一輪挿しを飾るつもりなのだ。
パチ、と、二本目の綺麗な薔薇は切り離され、カエの胸に抱かれる。胸に抱かれた薔薇の茎から一つ一つ、刺を取るカエ。
使用人が水を入れ替える際に刺で怪我をしないようにとの配慮だろうか。それとも、攻撃性のあるその先端に嫌悪感があるからなのか。
緩やかな風が吹いて、ロングスカートの裾と豊かな黒髪を揺れた。乱れた髪を細い指で梳いたカエは、薔薇に鼻先を近付けて香りを堪能する。
目を閉じて、風に髪と服をたゆたわせながら立っているその姿は自然体であった。閉ざされた門の外から見ていた薬売りは、目を細めてその姿を見ている。
薬売りが鉄格子に触れると閂が動いて鎖が擦れる、何とも場違いで耳障りな音が響いた。カエはパチリと目を開き、薬売りが佇む正門を見る。
その表情は先程の穏やかさと異なり、険しさを携えていた。眉間に皺を寄せ、眉尻を釣り上げている。瞳には何故か闘志のような炎が見てとれた。
薬売りはバツが悪そうに肩を竦めて、こんにちは、とありきたりな言葉を発する。
「今日も母に会いに来たのですか?」
「そう、なります、ね」
「毎日ご苦労な事です。他にお薬を売って歩かなくてよろしいの?」
「今日は友人として、貴女のお母様に、会いに来ました」
カエの眉間の皺はますます濃くなる。
行商人風情と母親が親しくなるなんて思いもしなかったのだろう。母親がカモにされていると思ったのかもしれない。
それでもカエはこの数日、母親が笑顔を見せるようになっているのに気付いているので薬売りを追い出す事は出来ないのだ。
それに、今のところ高額な薬を売りつけたりはされていない。カエは正門を堅く閉ざす閂を開け、鎖を外す。
「お入り下さい」
「お邪魔します」
薬売りが庭に入ると、カエはまた正門を閉ざして鎖を巻き、閂を付けた。異国の軍人が尋ねてきても入ってこられないように、堅く閉ざされた正門。しかしそれは、カエが外界との関係を遮断しているように薬売りには思えた。
まるでこの門は、カエの心のようだと。
「綺麗な薔薇、ですね」
カエが胸に抱えている二本の薔薇に目を細めて、薬売りがわざと聞こえるような音量で言葉を発する。突然の褒め言葉にカエは怪訝な顔一つせず、むしろこの薔薇を育てた事を誉れと云うように柔らかい笑みを浮かべた。
カエは薔薇の花弁を指でついと撫でる。
その表情は愛情に満ちていて、この薔薇を愛しているのだと分かった。
カエは人を愛さない。
いっそ拒絶しているが、代わりに、薔薇を愛でている。
薔薇の肉厚な花弁を撫でるその表情はまるで慈母のようだ。
「カエさん」
「何ですか」
声をかければすぐに表情は消え失せてしまった。薬売りはそれを気にするでもなく、口を開く。
「許婚を、愛していたのですね」
カエの表情が驚きに変わった。
突然の発言に、当惑しているのだろう。
「そこに植えられている薔薇は、許婚の方の庭から株分けされた薔薇だと、聞きまして」
薬売りの言葉にカエの表情が驚きが消え、代わりに口元を手で隠してクスクスと笑った。滑稽というように、肩を震わせている。
薬売りは黙って、カエを見ている。
「貴方はまるで薔薇ね。その見た目の美しさと芳しい香りで人を惹き寄せる。母がまさにそれだわ」
でも、と続ける。
「携えている刺で綺麗だと賞賛して触れてくる人を傷つける。通りすがりで触れた者を傷つける」
「傷つけたいのでは、ありませんよ」
「私には、人の傷口にわざと刺を突き立てているように見えるわ」
カエは淡泊に言い捨てた。容赦の無い言葉に、薬売りはただ笑う。
薔薇を抱えたカエは、何を考えたのか、一本の薔薇を突き出した。
「差し上げます」
「俺に?」
「はい」
「大切な華なのでしょう?」
「私にとって、誰に差し上げてもいい価値しかこの華は持っていませんから」
カエは薬売りに薔薇を持たせる。純和風の出で立ちの男に薔薇は不釣り合いのように思えたが、男の面が日本人離れしていたからか、よく栄えた。
薬売りは薔薇の香りを嗅いで、素敵な香りですね、と笑った。
その笑みに見惚れてしまった事にハッとしたカエは、すぐに視線をそらす。そこには、薔薇が咲き乱れる景色。
一瞬だけ寂しげに目を細めたカエは、口を開いた。
「貴方が勘違いしていらっしゃるから言いますけれど」
カエの一連の動きを見ていた薬売りは、薔薇を顔に近付けて香りを楽しんでいる風を装いながら双眸ではしっかりとカエを見据えていた。
カエは薬売りの瞳が射るように見ているとは知らずに、語り出す。
「私はこの花の送り主を愛してなどおりません。ただ薔薇を愛しているだけ」
「それは、本心、ですか?」
「策略結婚の相手をどうして愛せます?私は彼に一度しかお会いしておりません。その方を愛せるはずがないわ」
カエは薬売りを見て笑う。恋仲だったと考えていた薬売りを、お前は観衆のくだらない噂に騙されたのだと嘲るような笑い方だった。
薬売りはカエを眺め、本心から告げているのか違うのかを見定めようとしたが、カエは口の角を上げて笑うだけでその表情が虚勢なのか本心なのか判断がつかない。
「勘違いは、正されたかしら?」
「おかげさまで」
「それは良かったわ」
カエは玄関に近づき、薬売りを招き入れた。促されるように薬売りはやわらかなソファに腰をかけた。
カエと入れ替わるように現われた使用人の女性がすぐに紅茶を持ってくる。透き通った飴色のそれに薬売りは少しばかり表情を緩ませた。
薬売りは此処で出される紅茶が一等好きなのだ。
芳しい香りを発する異国の茶も、西洋菓子のクッキーも薬売りにとっては物珍しい。
薬売りは優雅にティーカップを持つと、陶器に口付けた。使用人も去り、一人になった薬売り。そこに現われたのはベージュの羽織を肩に掛けたカエの母親だった。
カエの母親はカエに支えられながら歩いていて、以前会った時よりも顔色が白くなっており、幾何か弱っているようだ。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい」
口を押さえて咳き込む母親の背を擦り、宥めながらカエはやはり部屋に戻りましょうと言う。しかしカエの母親は断固として、薬売りとの対話を止めようとはしない。
カエは困惑の表情を浮かべたまま、母親をソファに座らせた。
「具合が悪い時に訪ねてしまい、済みませんでした」
「気になさらないで売薬さん。それに、具合が悪い時に来ていただいて助かっていますから」
「それなら、良いんですが、ね」
「ふふ、謙虚なのね」
薬売りは母親の背後に立つカエに視線を向ける。カエは心配なのだろう、母親の小さい背中を眺めて悲しそうに目を細めていた。
「肺が、やられたんで?」
咳の音、体の衰弱具合から容態を推測した薬売りに、カエは少しばかり驚きを表情に滲ませた。薬売りをヤブだと疑っている節があったのだろう、言い当てた事に驚いているようだ。
「えぇ。それに効く薬はないかしら?主治医が出張で暫く居らっしゃらないの」
「これを、お試し下さい。沈痛の効果が、あります」
「それは助かるわ」
薬売りは小さく笑みを浮かべ、一日分の薬を処方する。
カエの母親は薬売りに、何処に住んでいるのかを訊ね、薬売りは宿名を告げる。実にたわいのない会話だ。
しかし長く話せば肺に障る。カエは咎めるように母親を制止して、薬売りも早々に家を出た。
一人宿へ戻る最中、風がごおっと唸り薬売りの髪を巻き上げた。空を見れば、雨粒こそ降ってはこないがゴロゴロと鳴る重たい雲。
今夜は嵐だ。
薬売りは湿気を含んでいつもより柔らかくなった髪を風に遊ばせながら、気持ち早足で宿へと向かった。
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