モノノ怪 日蝕 | ナノ
国
またどこかから銃声が聞こえる。
今回は、すぐに伏せる合図が出された。
狩人達が近いのだ。
息を殺して、私達は木々と一体化するように努める。
女の悲鳴が何処か遠くで上がった。
耳慣れしない、異国の者の笑い声が響いた。
静かな部屋で薬売りとカエの母親は、ローテーブルを挟んで向き合っていた。ローテーブルの上には、アンティークのティーセット。
ティーカップの中で水面をゆらゆらと揺らす紅茶からは、湯気がたっている。薬売りはティーカップを持ち、それに口を付けると傾けた。
和服であれど、その優雅な仕草は様になっている。カエの母親も、ティーカップに口をつけて、紅茶を飲む。
カチャリと、ティーカップとソーサーがぶつかる音がして、カエの母親の手元からティーカップが離れた。
「売薬さん」
「はい」
薬売りもティーカップをソーサーに置き、カエの母親に視線を向けた。
そんな薬売りとは対照的に、カエの母親は戸惑うように、少し目を伏せる。薬売りは催促する事もなく、黙ってカエの母親を見つめた。
「カエさんは……」
「カエさんが、如何なさい、ましたか?」
「カエさんが貴方に何と言ったのか、教えていただけませんかしら?」
カエの母親は、少し躊躇しながらそう言った。
自分の娘の事でありながら、他人に尋ねるというのは恥ずべき事だと思っているのだろう、頬がやや朱に染まっている。
「ご本人に、直接、尋ねては?」
薬売りは、わざと素っ気なく答えてみせた。すると目に見えてカエの母親は落胆する。太股の上に置いた手に力が込められて、着物に皺が寄っているのを見た薬売りは目を細めて観察した。
「……お恥ずかしい、話ですが」
カエの母親は悲しみに暮れた声で、言葉を綴った。
カエは満州から帰ってきてから、昔みたいに何でも話してくれる子ではなくなったのだと言う。
「満州で何があったかは知りません。あの子は話してくれませんから。私もあの子には訊ねません」
「何故?」
カエの母親は涙を零した。一滴、また一滴と、着物に染みが出来てゆく。今まで我慢していた気持ちが溢れ出るかのように、涙はポロポロと落ちる。
「満州から帰ってきたカエさんは憔悴しきっていました。カエさんの姉は満州で亡くなっています。きっと、亡くなる瞬間を、見たのでしょう」
カエの母親は、カエの姉が亡くなったと表現しているが、その実、殺されたという事だろう。実姉が目の前で殺される瞬間を見たとすれば、それは心にどれほど深い傷を付けたのだろうか。
「カエさんは、どうやって満州から、逃げて、来たんで?」
「国境越えです。カエさんは必死に祖国まで逃げてきたのです」
「国境越え……」
満州国の事に関して、薬売りは殆ど無知に近かった。
何故国境越えをしたのか、そう尋ねると、カエの母親は困ったように、こう言った。
「満州は、ソ連に攻め込まれたのです」
薬売りは、なるほど、と頷いた。
本国も敗戦してボロボロになっているのだから、満州もソ連によってボロボロになったのだろう。では、カエの姉はソ連の軍人に命を奪われたのかと、薬売りは推測した。
「あの子は、何と言いましたか?」
カエの母親はハンカチで目元を拭いながら訊ねる。薬売りは薄い笑みを張り付けて、彼女は戦争を恨んではいないと伝えた。
「カエさんは、戦争を否定すれば、亡くなった者の命まで否定する事になると、仰っていました」
カエの母親は、口を堅く結んだ。
その表情は痛みを伴っているように見えて、薬売りは大丈夫ですか?と意味を成さない、回答が分かり切った事を訊ねる。カエの母親は模範解答として大丈夫です、と返して、一度大きく深呼吸をした。
「私は、あの子が戦争を憎んでいるとばかり……」
「他大勢は、そう、ですよ」
「私はあの子の前で戦争を悪く言っていました」
「何故?」
「あの子から姉を、許婚を奪った戦争です。恨みを共有して、共感すれば少しは心が休まると思っていました」
真逆だったなんて、と母親は苦しそうに言う。本心は真逆なのに母親の発言に反対もせず、カエはそうね、と同意する意見しか口にしなかった。
カエはカエで、母親は心から戦争を憎んでいるのだろうと思っていたのだろう。そして、その母親の意見を否定してはいけないと思い、本心ではない同意を繰り返していたのだ。
本当は違うと言いたかっただろうカエを思うと、カエの母親は胸が張り裂けそうだった。
母親の優しさが裏目に出てしまったのは、お互いに本心を語らなかった結果だろう。日向家を見ていて『切ない』という感情が薬売りの心に生まれた。
「カエさんは、いつから、話さなく、なったんで?」
薬売りの質問を受けて、心からの気持ちを語らなくなったのはいつからだろうかと、カエの母親は過去の記憶を遡る。
「満州から帰ってきた時は、兎に角憔悴しきっていました。後は……」
カエの母親は何か思いつくところがあるのだろう。
しかし、言い淀んでしまう。
「後は?」
薬売りが促すと、覚悟を決めたように、口を開いた。
「あの子の許婚の手紙……もう、遺書と言った方がよろしいでしょう。それが届いた時、あの子が発狂したかと思いました」
薬売りは問わない代わりに、カエの母親を黙って見つめた。
その瞳は、誤魔化す事を許さないと云うようで、カエの母親は震える声で言葉を紡いでゆく。
「内容は知りません。ですが、あの子は策略結婚を嫌っていました。ですから、この婚約が白紙に戻ったのを喜ぶかと思っていたんです。なのに、あんなに泣き崩れて」
「本当は、好きだった、とか」
「分かりません。もう私には、あの子の気持ちが、まるで分からないのです」
母親はまた涙を零す。親子の溝が浮き彫りになる話を聞いて、薬売りはその流麗な顔に影を覗かせた。
「済みません、こんな話をしてしまって」
「構いませんぜ」
ぽろりと落ちた雫は、ハンカチではなく皺が寄った小さな手に水溜まりを作った。
肌に馴染んだ涙は、また体に吸収されて涙となるのだろう。カエの母親は疲れたように、泣いたせいで熱くなった息をはぁと吐いた。
薬売りは、目を閉じた。
聴覚を澄ます。
すると、薬売りの耳は、小さな声を捕らえた。
それは、若い娘の謝罪の言葉だった。
- 5 -
[
*前
] | [
次#
]
←
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -