モノノ怪 日蝕 | ナノ
帝
声が消えると、私達は足を動かした。
しかし私の後ろにいる女が背負っている赤ん坊が愚図りだしてしまったので、皆が足を止めた。
赤ん坊の声は不規則で、周りは静寂。
まるで此処に日本人が居るぞと見えない敵に合図を発しているみたいだ。
女は慌てて愚図る赤ん坊をあやすが、赤ん坊の機嫌は悪くなるばかり。
男が言った。
殺しなさい、と。
カエは庭に咲き誇る薔薇の前に佇んでいた。真っ赤な花弁のそれは、色が失せたこの大地で綺麗に大輪を咲かせていて、まるでそこだけ異空間のようにすら見える。
風が吹くたびに揺れる花は芳しい匂いを発して、カエはまだ小さな、色付いてもいない硬い蕾を指先でついと撫でた。
「こんにちは」
風と共に、穏やかな声が耳に訪れた。
驚いて正門を見たカエの目に、鎖を巻き付け、閂を付けて閉ざされた門の向こう側に、薬売りが大きな荷を背負って立っているのが見えた。
「……何か?」
「薬を売りに、来ました」
「昨日、母が買いましたから、もう結構です」
「昨日、奥様に、明日も見たいから来てくれ、と、言われまして」
怪訝な表情を浮かべたカエに、薬売りは、真実ですよ、と言う。杖を持っていないカエは片足を引き摺り、歩き辛そうではあるが、ゆっくりと、確かに正門に近付いた。
そして、薬売りが門の格子の隙間から腕を伸ばしても触れる事が出来ない位置で立ち止まる。
「我が家に何の御用ですか?」
「ですから、薬を見せに、来たん、ですよ」
「母からそんな話は伺っておりません」
「胃の調子が、悪い、とか」
「その薬を昨日、母に売ったのではなくて?」
敷地内に薬売りを入れるのを拒むカエ相手に、薬売りは変わらず穏やかな調子で、語り掛ける。
「奥様に、確かめては、如何ですか?」
もっともな意見を言われて、カエは口を閉ざすしかない。母親に確かめてこい、と言うのはそれだけ自信がある証拠と受け取れる。
母親が薬売りをまた家に招いていた可能性を色濃く感じたカエだが、ここで退くわけにもいかないらしく、使用人を呼んだ。
呼ばれた使用人は、以前裏口を締め忘れていた割烹着姿の娘だった。
「また貴方ですか!」
割烹着姿の娘は、薬売りを見るなり警戒心を隠そうともせず声を大にした。カエは割烹着姿の娘の名を再度呼ぶ。すると娘は即座にカエに向き直った。見事な忠誠心である。
「お母様に、本日薬売りを呼んでいたのか確かめてちょうだい」
「奥様にですか?」
「えぇ、お願い」
「畏まりました」
娘は走って洋館へと向かう。
やりとりを見ていた薬売りは仲が良いですね。と言った。
「彼女の親も、此処で働いておりましたから」
今でこそ主従の関係であるが、小さい頃は友人だったのだろう。カエの目は細められ、昔を懐かしむようだった。薬売りは、そんなカエを見て微笑を浮かべる。
「カエさん」
名を呼ばれて、毛嫌いしているはずなのに、カエは吸い寄せられるように薬売りを見た。
「やはり、過去が、良いですか?」
曖昧に取れる薬売りの言葉の意味を理解出来なかったのだろう、カエは返事も、聞き返す事もしなかった。
「戦争で貴女は沢山失った。故に戦争など、と、戦争を、憎みますか?」
無表情が一転、カエの表情が険しくなる。カエは戦争によって、父と姉、更には許婚まで失ったのだ。薬売りの言葉は傷口を抉るようなもので、カエが怒りを感じるのも無理はない。
薬売りは目を細めて、カエの様子を観察する。それはまるで、カエの心の動き一つ一つを見逃さない為のようであった。
「貴方も、周りと同じね」
カエはぽつりと、まるで雨樋から漏れ出た雨粒のように、口から零した。
沢山の言葉や思いが、今、カエの中で渦巻いているのだろう。
口の端まで来てはずっと飲み込んできた言葉達が、とうとう耐えきれないというように口から零れ落ちるようだった。
「戦争なんて無ければ良かった。皆そう言うし、子供の教科書に到っては、戦争を悪として、兵士の話などはすべて黒く塗り潰されたわ」
「それだけ、皆、戦争を憎んで、いるんです、よ」
カエは薬売りの言葉に憎しみを覚えたのか、正門に近付くと怒りに任せて正門を力一杯叩く。
閂によって固定されていた鎖が揺れて、金属同士がぶつかり合う耳障りな音が響いた。
「では、戦争は悪だと、無駄な物だと仰るの?」
「周りは、そう、思って、いますね」
カエは笑った。
人を馬鹿にするように、蔑むような嗤い方だった。
その蔑みは薬売りに向けられたものか、周りの人達へなのかは分からない。
「では、戦争で亡くなった方々はどうなるのです?お国の為にと命を投げた者達は?彼らは悪の為に命を捨てたと?彼らは、無駄なことの為に命を失ったと仰るの?」
カエは胸の内が爆発するような感覚を覚えていた。
今まで口にしなかった数々の思いが、薬売りが口火を切った事で溢れ出して制御出来ないのだ。
カエは父親も許婚も、戦場で散った。
戦争を否定し、争いは良くないと言えば、彼等の死は何だというのか。カエには周りの考え方が理解出来なかった。したくなかった。
カエにとって戦争は、意味が無いものであってはならないのだ。
それでは、死んでいった者達まで、意味の無いものになってしまうのだから。彼らの見た希望が悪だったと言われてどうして冷静でいられるのだろう。
正門の格子を掴んでいるカエの指は、力を入れすぎているから白くなっている。きっと、掴んでいなければ今にでも暴れだしてしまいそうなのだ。
「戦争を無駄だと言うのは、亡くなった人達が勝手に犬死にしたと言うようなものです。彼等は私達が今いる国の礎になってくれました。もし彼等が居なければ他国に攻められて植民地にでもされていたでしょう」
「……」
「それに、この国が戦争に参加したからこそ、解放された国々もあります。それなのに、それを無駄だと言って黒く塗りつぶし悪の歴史とするなんて、この国はどうにかしているわ!」
後半は声が震えていて、感情が押さえられないようだった。カエは今まで蓄めていた気持ちをすべて吐露して、呼吸が乱れている。
薬売りは、格子を握ったままのカエの手に、触れる。カエはビクリと身体を震わせて、手を引っ込めた。
瞳は当惑に揺れていた。自分が何を口走ったのかを考えて、顔色が青ざめている。
薬売りは何も言わなかった。
「お嬢様」
割烹着姿の娘が現われたことで、カエは自然と力を込めていた拳を解いて、まだ少し血の気の引いた表情で娘を見る。
「奥様は、この人を家に招きなさいと仰っています」
カエの表情が暗くなった。冗談ではないと言って、薬売りをこの地から離したい気持ちなのだろう。しかし、体が弱くてろくに外出も出来ない母親が薬売りに会うのを楽しみにしているのだ。帰れと、言えるはずが無い。
「お通しして」
カエは先に家に戻ろうと歩みだし、割烹着姿の娘はわざとだろう、ゆっくりと閂の鍵を開ける。
カエが家に入るのを確認してから、割烹着の娘は鎖を外した。薬売りは、そんな娘に笑う。
「随分、嫌われたものだ」
娘は当たり前です、と言った。
「お嬢様は貴方と会って気分を害しています」
カエを傷つける人は許さない。そう言外に伝えてくる娘に、薬売りは小さく笑った。娘はカエを守る要塞のように薬売りの前に立ちはだかっているのだ。
「お嬢様をこれ以上苦しめないで下さい。もうお嬢様は、十分苦しんだのですから」
「十分、とは?」
娘はしまったと云うように口を塞いだ。
「貴方には、関係ありません!」
さっさと入って下さいと言う娘。
薬売りが門の内側に入れば、娘は慣れた手つきで鎖を巻き付けて、閂で鎖を固定した。要塞は堅牢だと、薬売りは笑う。
出迎えたのは、カエの母親だった。カエは部屋に入ってしまったのだと言う。
「ごめんなさいね、売薬さん」
カエの荒げた声は、母親まで届いていたのだろう、母親は顔を暗くして、謝罪をぽつりと告げた。
「嫌な思いをしたでしょう」
「俺は、あまり」
その言葉が嘘であったとしても、その優しい心遣いにカエの母親は救われた気がした。
「お茶でもいかが?こんな老いぼれの話相手になってくださらないかしら?」
「よろこんで」
カエの母親は使用人にお茶をお願いする。
薬売りとカエの母親は、昨日と同じ席に腰掛けた。
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