モノノ怪 日蝕 | ナノ
時
私と姉は満州へ行った。
姉は身重であったにも関わらず、旦那が満州開拓の命令を受けたからと、満州へ向かった。
私は満州に行かず祖国に残りたかったのだが、姉にどうしてもと言われて断れずに満州入りした。
けれど、それが間違いだったのだ。
第二次世界大戦が始まると、祖国は満州にまで手を焼く暇など無くなった。
満州は、無法地帯となった。
日蝕
嵐は過ぎ去り、朝には穏やかな空模様となっていた。カエの母親の体調も安定しており、今は夢の世界を旅している。
カエは母親の容態を確認してほぅと息を吐いた後、窓の外を眩しそうに見つめた。
「それでは、俺は、これで失礼、します」
3日間分の薬を置いた薬売りは、荷を背負い直す。カチャン、と陶器だろう物がぶつかり合う音が響いた。
カエは薬売りを見送るために、床についていた膝を上げて、杖をついて薬売りの後をついてゆく。家の中は見渡す限り落ち着いていて、清楚な雰囲気だった。
カエにとって、戦後この家の中は姉も父も居ないいびつな空間として見えていたが、今となっては戦争前の頃の雰囲気と同じだ。それは、カエの心からいびつな何かが消えたからだろう。
家を出て、水をたらふく吸い込んだ大地に薬売りが一歩踏み出すと、薬売りの高下駄がズブリと沈んだ。
葉についた水滴も揺れて落ち、大地に降り注ぐ。
これ以上大地は水を吸いきれず泥水が跳ねるが、来た時と同様、やはり高下駄を履く薬売りの着衣を汚すことはなかった。
カエは杖が大地に刺さって歩きにくくそうだが、それでも薬売りの後に続く。ロングスカートの裾は泥が跳ねて汚れ、靴も片足を引きずる歩き方である為に泥まみれになるが、全く気にする様子は見られない。
閂が外されたままだった正門は強風によってだろう、閂は地に落ちて左右の門は大きく開かれていた。
濡れそぼった門は風に吹かれてギイと揺れ、着いていた雫を落とす。それは、台風一過のように晴れ渡った空だったので、キラキラと輝く数多の水晶が降り注ぐようであった。
カエはこぼれる雫を眩しそうに目を細めて眺めた後、薬売りに体を向けた。
「本当に、有難う御座いました」
頭を深々と下げ、感謝を口にする。カエの心はもう、自分が作り出した闇に囚われていないのだ。
捕えていた、そして囚われていたカエを救ったのは、他でもない薬売りである。
だからこその、御礼なのだろう。
「カエさん、貴女が、幸せになることが何より、大切ですぜ」
薬売りはそれだけを口にして、敷地を出る。会釈だけをして、自分が宿泊していた場所へと向かうので、カエはその後ろ姿をただただ見送た。
薬売りの姿が見えなくなってから、振り返る。そこには、見慣れたはずの屋敷。しかし、全く異なってカエの目には写っていた。
今までは曇天の中、重厚感のある屋敷であった。それこそ、西洋の絵本に出てくる、蔦が絡まった不気味な魔女の家のように見えていた。
それが今はどうだろうか?
晴れ渡った空、豪雨により壁の汚れが流され白く輝く屋敷。そして、風に揺れる薔薇の花びらと、草木。全てが美しく思えていた、懐かしい感覚がカエの中に蘇る。
母が元気で、父と姉が存命だった頃。
庭で許嫁と薔薇を愛で、笑いあった頃。
闇に囚われて忘れていた、色鮮やかで美しい記憶達。
カエは一度大きく息を吸い込んだ。
肺を満たす新鮮な空気に、悲しくもないのに一筋の涙が頬を伝った。
とある地に、時代に合わない派手な着物を着た薬売りと名乗る行商人がいた。
その者は、とある地の、とある令嬢の話を人々の口伝いに聞いていた。
ある者は、令嬢は婚約したと言った。
またある者は、老いた母と生きる道を選んだと言った。
またある者は、屋敷を売り払い、別の地で穏やかに暮らしたと言った。
様々な人が、様々な尾鰭背鰭をつけて話したが、決まって最後はこういうのだった。
「日向カエは幸せだった」
薬売りは少しばかり、口の端を上げた。
了
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