モノノ怪 日蝕 | ナノ
た
満州がソ連軍に押されていく。
更には、大日本帝国に土地収奪されたと訴える原住民が、今こそ恨みを晴らす時と武器を持った。
ソ連軍に、原住民。もはや、満州は大日本帝国の手中に納まるものではなくなった。
満州に住む日本人が次々と襲われる。此処に居ては虐殺されるだけだ。
女だからあなた達は嬲り殺されてしまうと、同国出身の人に言われた。
ひしひしとそれを感じていた私と、産まれて暫くの赤ん坊を抱えた姉は、次の月が隠れた日、国境を越える事にした。
日蝕
締め切った部屋だと云うのに、何処からか突風が吹いた。
カエの黒髪が乱れ、視界を覆う。突然の風に驚いて目を閉じていたカエが髪を退かして目を開けると、そこに闇はなかった。
先程まで部屋に満ちていた闇が消え、ただ、白い空間になっていた。カエの部屋でもない、真っ白で果てのない空間だ。それに驚くカエは、自然な反応だろう。
「カエさん」
背後から聞こえる声にカエは肩を震わせた。
もう二度と現実で聞く事は叶わず、何百回、何千回と記憶の中で再生していた声。カエの本能は逃げ出そうとしたが、精神がそれを許さない。
私は責め苦を受けるべきなのだ。そう思っているから、カエは己を苦しめる対象から逃げ出す事を許せないのだ。
萎える膝を奮い立たせ、振り返る。
そこでカエはまたしても驚愕した。そこにはカエの姉と、カエの婚約者がいつものように立っているのだからカエが恐れるのはいつもの事であるが、驚くのは今回が初めてである。
「っ…」
ヒュッと喉が声にならない音を奏でる。カエの姉は逃げる時の泥まみれの服装ではなく、彼女が生前気に入っていた装いだった。カエの許嫁も軍服ではなく、初めて会った日と同じ学生服である。
それは、彼女と彼が一番幸せだった時の姿だった。
凄惨な死を迎えたのではなく、幸福な中で死を迎えたとでも云うような清らかさ、温かさがある。カエが毎夜会っていた二人の姿とまるで異なるその姿に、声すら出ない。
姉はカエに微笑みかけた。
「カエさん、ごめんなさい」
困ったような笑みを浮かべて謝罪を口にする姉に、カエは困惑する。あの口は優しい言葉なんて吐かないはずなのだ。だって、カエが姉の子を見捨てたせいで姉は死を選んだ。
だからカエを憎んで、疎んでいるのが当然のはずなのに、目の前の姉は清楚で、カエを気遣う言葉を紡ぐ。まるで、姉が結婚する前、この家で穏やかに過ごしていた姉妹の日々のようだとカエは思った。
「カエさん、俺も、済みませんでした。貴女を縛る手紙を残してしまった」
男が言葉を発する。カエは何か言おうと口を動かそうとするが、唇が慄くだけだった。
男は学生帽を脱ぎ、深々とお辞儀をする。
「どうか俺の事は忘れて、良き人を見つけて幸せになって下さい」
男が発した願いが、カエは理解出来なかった。今、私は都合の良い夢を見ているのだと、そう思うしかなかった。だって彼はカエを愛していたのにカエは彼を愛しておらず、死ぬ間際に会うことすらなかった。
なんで許嫁の自分をこんなに無下に扱うのかと憎まれてもおかしくない立場なのだ。だというのに、男は優しく、カエの幸せを願う。
「私は、子供が殺された時、すべてに絶望したわ。でも、あれは理だった。理だったけれど、私には受け入れられなかった。だからあの部隊を抜けたの。カエさんが憎いとか、そんなことは思っていなかったわ」
「嘘」
カエの口がやっと動けば、その口から出るのは否定の言葉。嘘だ。嘘。そんな都合の良い言葉信じない。私は責め苛まれるのが当たり前なのだ。
これは、私がまだ何処かで救われたいなどと浅ましい考えを持っているために見ている夢だ。
「信じて、カエさん。私は貴女を独り残した事を悔いているの」
「嘘」
「独りになった貴女は自分を責める。それを分かっていたはずなのに、私は私の感情に任せて死を選んでしまった。貴女が苦しむと分かっていながら…ごめんなさい」
嘘、と途中で言おうとしたカエは、姉の謝罪に口を閉じる。そんな優しい言葉を紡がないで、そんな悲しい言葉を紡がないでとカエは言いたかった。
優しさに甘えてしまう。自分の作り出した都合の良い妄想に捕まってしまう。図々しく生きてしまう。
パシ、と何処かでラップ音が奏でられた。カエは聞き慣れた音に振り返る。
そこには闇が二つ、人の形をして佇んでいた。
「……」
姉と、許嫁だ。
カエは安堵の表情を浮かべた。
やっと、都合の良い妄想から逃げ出せる。カエの現実が、カエを責める者達が現れたことに安堵したカエに、姉は悲痛な表情を浮かべた。
「カエさん!やめてっ!!」
黒いそれに近寄るカエは硝煙の香りを嗅いだ。それと同時に、甘ったるい香りもした。赤子から漂う、母乳の香り。火薬まみれになった香り。カエが経験したことのない香り。カエがどうにかすれば、もしかしたら生きていたかもしれない二人の香り。
「カエさん、それは、なりませんぜ」
この数日で聞き慣れた声。
「何故?」
カエは姿なき声に言葉をぶつける。もう震えはなかった。落ち着きはらっており、カエは闇に向けて笑みさえ浮かべている。
「貴女が貴女の作り出した怨霊に囚われるのは構わない。しかし、あの人達は、貴女を心配して、成仏出来ないでいる」
「……え?」
カエが振り返ると、姉と許嫁は悲しそうな顔をしていた。何故私を気遣うのだとカエは言いたかった。
けれど、言えなかった。カエ自身、二人と話し、薬売りの声を聞いて薄々気付き始めているのだ。それでもそれを否定するのは、自分を罰する人がいなくなる恐怖。
断罪されたいのだ。そうしないと、誰もがカエを許してしまうから。
そして二人を記憶の中だけの人として扱い、二人が居ない今を生かそうとするから。
「カエさん、お願いです。自分を苦しめないで下さい」
許嫁が言った。
「もう貴女は十分に苦しんでいるじゃないですか」
「私の苦しみなんて、貴方に比べたら……」
「これは比較するものではありません」
許嫁は言い切ると、カエの元に歩み寄った。闇で出来た許嫁が揺らめく。
逃げるのか。一人だけのうのうと生きるのか。
カエの耳に毎夜毎夜紡がれた、自分で自分に言いたかった言葉達。カエは自分で自分を裁くことが出来なかった。
生きている人間は皆、カエを救おうとした。だから死んだ許嫁と姉に裁いてもらうしかなかった。そのために、二人を作り上げたのだ。
自分を責めてもらうために、姉と許嫁を醜悪な気持ちばかりを詰めた闇にして作り上げた。それはカエの闇だったのに、勝手に二人に仕立てていた。
それに気づいた二人はずっとカエの側でカエを見守っていたのだ。だからこそ、カエは毎夜首を絞められても死ななかった。
カエの頬に許嫁が触れる。冷たさもない、暑さもない、柔らかな風が頬を撫でるような感覚だった。薔薇の香りがして、庭で共に話していた時のようだった。
「生きて、幸せになってください。それが俺の望みです」
カエの頬を涙が伝う。
拭うことも出来ない許嫁は、困ったように笑った。
カエの口が、少しだけ動いた。
「ごめなさい」
それは心からの謝罪だった。
自分を責めて欲しいがために相手を悪者にした事、
心優しいと知りながら勝手に醜悪な闇に仕立て上げた事、
二人がカエを心配して成仏できなかった事、
すべてに謝罪をした。
世界が煌めく。
白い長髪をなびかせた男が、カエの背後にいる闇を切り裂いたのだ。
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