モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
飽和した世界 弍(最終話)
眩暈がしそうなほどの濃度に、頭が痛くなる。階段は地下を延々と下り、どんどん気温が下がってゆく。
寒い。
素直にそう思った。
寒いのは、周りにいる怨霊、霊魂のせいでもあるだろう。
今ほど清らかな空気を求める瞬間が生涯あっただろうか。酸素不足に頭が痛む。
冷たい土壁を撫でながら階段を下りてどれほど経った頃か、漸く階段が終わったらしく、暗闇の中で次に階段があると勘違いしていた私の膝は簡単に崩れた。
壁を撫でて何があるのか確認していると、冷たい堅い物に触れる。
金属だと、ぞっとする冷たさから分かった。
何か無いだろうかと手で探れば、把手がある。
奥に松平が居るかもしれない。
慎重に把手を引き、中を覗くとそこにはもう一枚扉があるのだろう、四角く線を描く光の漏れが現われた。
この先に松平が居るのは確実だ。
手首に固定しているまじないの彫られた刀と脇差し、懐の札を確かめてから、ゆっくりと扉を引く。
漏れてくるのは呻き声と腐臭、それから錆びた臭い。
闇に慣れていた目に光はしみるかと思ったが、小さな燭台があるだけなので、すぐに景色が分かった。
同時に、驚愕する。
まるで地獄絵図のように人が倒れている。
ある者は腹を裂かれ、ある者は身体の一部を欠損している。
またある者は……身体を他の生き物と結合されている。
鼻をつく錆の臭い、腐った臭い
。
なんと哀れな
何をしているのか
身
体が急に重たくなり、地に伏せる。
思考を巡らせるより先に、胸元に全神経が追いやられるような感覚。
きっとこれを人は、魂を鷲掴みにされたと言うのかもしれない。
目を見開いているはずなのに視界が闇に染まる。
視覚が遮断されたのだ。
何故こんなにも簡単に身体が奪われる。
何故私の身体は安易に霊を受け入れる。
口寄せをした事など無い。
なのに何故。
そうか。
以前、将棋を打てば成仏すると云う霊を身体に招いて、薬売りと対局させた。
一度でも憑依させたりすれば、霊媒になり易くなると聞いた事はある。
だが、まさか此れ程とは。
『イタイ』
『クルシイ』
『タスケテ』
『コロシテ』
聞こえる声は鼓膜を震わせるのでは無く、脳髄に直接響いてくる。
煩い。止めろ。
私にお前達を救えはしない。
さっさと出ていけ。
視界が勝手に映像を映し出す。
止めてくれ、見たくない。
見ては駄目だ。
なのに無い目蓋は閉じようが無く、脳に直接映像が浮かぶ。
刃物を持った松平。
縛られた手足。
女のふくよかな右胸に冷たい刃先が当てられて、ゾッとする。
撫でるように滑るそれに、皮膚が裂けた。
皮膚を剥いでいく刃物。
脂肪を含んだ赤い肉がてらてらと灯りの下に照らし出される。
痛みに目頭が熱くなる。喉が詰まって息が上手く出来ない。
私の中に入り込んでいるのだろう女性の体験は、私に受けた苦痛をそのままに伝えてきて、痛みにどうにかなりそうだ。
何でこんな目に遭っている。
何故こんな、畜生でも受けないような非道な行いをこの女性は受けねばならんのだ。
女性の意識は微熱が長く続くから松平を尋ねてきたのだと言っている。ただの微熱であったのに感染病だと云われて地下に隔離され、乳房を解体された後、腹を切られたと。
他の者の目線が視界に開ける。
そこには今し方胸を解体され、腹を裂かれて命を絶った女性の姿と、血濡れた手で紙と筆を持ち、一心不乱に何かを書いている松平。
女性の腹からまだ人の形を成していない稚児が引き摺り出され、松平はそれを眺めた後、また筆を走らせた。
なんておぞましい。
女性の微熱は妊婦のそれで、感染病では無かったのだ。それなのに、嘘を吐いて地下へ閉じ込め、人体構造を記したいが為に解体し、殺した。
他にも、生きたままに麻酔もされず皮を剥がされる者、火傷がどこまで耐えられるか試される者の感覚がまざまざと伝えられる。
畏怖の念と絶望、苦痛、憎悪。
悲鳴は洞窟の中に反響し、重たい金属の扉に吸われて外に漏れることはない。
誰も助けてはくれない。此処に入ったが最期、二度と地上には出られない。
死ねば、更に深く掘られた枯れ井戸へ棄てられるだけ。
もし身体の主導権があったならば、私は間違いなく泣いているだろう。
済まない。済まない薬売り。
私の心は、こいつらに適わない。
私はこの者達を拒絶出来ない。
憐れ過ぎる。
何故、こんな目に合わねばならんのだ。
何故。
悔シイ。
憎イ。
松平ガ 憎イ
*****
西明が出て行ったまま戻ってこない。
もしかしたら物の怪の姿を見つけて戻ってくるかもしれないと思い身仕度をして待っていたのだが、周りの空気がざわつくだけで西明は戻ってこない。
毛を逆撫でされるような感覚に、仕方なく天秤を出す。
西明が出て行って時間が幾分経過した今、まだ物の怪の気配が弱まらないのは西明が苦戦しているからとしか思えない。
邪魔をするなと散々言われたが、西明に何かあっては俺が此処に居る意味が無い。
天秤が示す先へ向かうと、そこには強い物の怪の気配。
襖を無遠慮に開ければ、そこ西明の姿は無く、障子が月明かりを少し室内に射し込ませているだけだった。
どう云う事だと部屋を見回すと畳が一枚剥がされ、床板も退かされてぽっかり穴が開いている。覗き込めば、先には僅かに光の漏れが見えた。
西明はこの洞穴のような階段の先、闇に浮かぶ光の線の先に居る。
そう直観的に理解して階段を早足に下りていると、湿気を含む冷気に腐肉と血液の臭いが混ざっているのに気付く。
退魔の剣がカチャカチャと音を奏でて、階段を掛け下りる。
この先に居るのは、何だ。
西明はどうした。
この血の香りが西明のではないことを祈りながら、階下に辿り着く。
扉の隙間から漏れる弱い光。
重い金属扉を開けて中を見ると、開け放たれたままのもう一枚の金属扉。
洞窟の中は蒼い鬼火が揺れ、金属扉と大地の濡れた一部分が油の様にてらてらと光っている。
その中に佇む、見慣れた後ろ姿。
寝巻として渡された白い着物を着ていたはずなのに、今は子供が好きに染めたように黒い染みがついている。
「西明」
地面を眺めていた西明が振り返る。
その身体には黒い水が、桶からかけられたようにべったりと付着していた。
手には、手首に巻いて固定していた護身用の短刀。
西明の足元には、肉塊が一つ。
否、西明の周りには、人が沢山倒れている。
しかし倒れている者は異常な状態でいる者や腹を裂かれて中身を露出したまま動かない者もいる。
松平が人体実験をしていた。これが真か。
「西明」
名を呼んだのが合図のように西明は斬りかかってきた。
刀を持つ手首を掴んで動きを押さえようとするが、西明の方が力が強く、押さえきれない。
両手を用いて動きを防ぐと、西明の姿をしたそいつは、にいと口の端を上げた。
西明ならば決してしないだろう笑い方に、胸の奥が焼ける感覚を覚える。
「西明を、返せ」
両手を塞がれた状態では何も出来ない。
怪我をするのは承知で片手を離す。
途端にそいつは今が好機と全体重をかけて刃先を胸を狙って刺し込むが、身体をずらしたおかげで刃先は肩に刺さり、骨にぶつかる。
痛みに思わず目を閉じそうになるが刮目して、自由な手で札をそいつに押しつけた。
耳をつんざく悲鳴が洞窟内に反響し、鬼火が消える。
瞬時に後ろへ跳躍し距離を保とうとする西明の姿をした相手は刀の柄を握ったままだったので、肩から刀が抜けて血がどろりと溢れ出す。
傷口を圧迫するが、出血は止まらずに着物を染めてゆくが、今はそんな事は些細なことだ。
後ろによろけるそいつは、呻いた後に顔を上げた。
「くすり、うり、か……?」
呂律が回らない、稚拙な発音。
鬼火が消えた世界。
西明の後ろにある小さな燭台一つだけが光源となった。
闇に浮かぶ西明の表情は見えない。逆光の中、影絵のように西明はゆらゆらと動く。
「西明」
名を呼べば、腕を怠慢な動きで少し上げ、刀を見たのだろう、その後こちらに顔を向けた。
「それ、は……私がやった、のか」
それ、とは、肩の事だろうか。
押さえてはいるが服に滲む血に、西明の声は震えている。
「す……済まない、済まない薬売り、私は、私がお前を、」
西明はふらりと後ろに後退しようとして、地面に伏した肉塊に足をとられて尻餅をつき、息を短く吸った。
短刀が血溜まりに落ちたのだろう、奇妙な音が響く。
「……松平」
そう呟いた後、西明は頭を垂らす。
「西明」
「殺せ」
急に殺せと言われ、今度はこちらが驚愕する。
「分かっているだろう薬売り、私の身体を怨霊が巣食っている」
「ならば、追い出すまで」
「無理だ」
「何故」
霊媒師でもない西明の身体に霊が馴染むとは思えない。
西明が面を上げる。
後ろに下がった事によって顔半分だけが弱い灯りに照らされた。
影が色濃くついた顔には絶望しか見出だせない。
鬼火がまた生まれ、辺りを照らす。
「私の心は、もう、保たない」
「何故」
「彼等に同情してしまった。心に隙を作ってしまった」
あってはならない事なのに、と顔を覆う。
鬼火がさらに増える。
西明の中に居る怨霊が、外に出ようと暴れだしているのだ。
「憑依されて尚拒絶出来なかった。憐れでならなかった」
だから――だから嫌だったのだ。
西明は霊に対しても情を持つ。
それが命取りになるとしても、対象を慈しみ、救済の技法を探す。
しかもそれを無意識下でしているのだから質が悪い。本人は優しさなど無いと言うのだから面倒だ。
だから西明には、権力を持つ家の物の怪騒動はさせたくなかったのだ。
権力者の下では苦しめられて怨霊になるものが多い。そうなれば西明は必ず物の怪の肩を持つに決まっている。
「痛い痛い痛い」
痛いと呻くのは男の地を這うような声。
「助けて、嫌」
来ない助けを求めるのは若い女性の声。
亡き者の声の中に、西明の拒絶する声が断続的に入る。
西明は怨霊と戦っているのだ。
中に押さえ込もうとする西明を嘲笑うかのように鬼火は強くなり、顔を覆う爪が黒く変色して獣のように鋭くなる。
「やめろっ!」
西明が吠えた。
手を力なくダラリと垂らして俺を見る西明の顔は涙に濡れていて、胸が締め付けられる。
漆黒だった瞳が紅に染まり、まるで血に濡れているようだ。
「時間が無い」
早く斬ってくれ、と苦しげに述べる。
「形は鬼、真は人体実験や解体新書、理は……」
胸元を押さえて、西明は膝を着いた。
もう、身体が保たないのだ。
「松平の、憂さ晴らしだ」
カシャン、と退魔の剣が音を立てる。
「さぁ、斬れ」
上げられた面。
西明は、笑んでいた
。
解き、放つ
刀を捨てる
薬
売りの姿が消え、代わりに褐色の肌に金の紋様を身に宿した男が現われた。
長い絹色の髪は男の動きと共に揺れる。
黄金色に輝く退魔の剣の刃先が西明の喉元に向けられ、寸でというところで止まった。
「不様だな」
憎々しげに述べる男は黒い歯をぎりりと噛み締める。
対する西明は、涙の跡が頬に残ってはいるが、穏やかな表情だ。
「お前に殺されるならば、悪くない」
「望んでの所業か!」
「死を望むほど世を憂いてはいない。ただ、お前に看取ってもらえるなら……」
溜め息を吐いて、我儘だな。と西明は頭垂れた。
「あぁだが、最期にもう一つ我儘を」
「何だ」
「黒猫に、済まないと」
告げてくれ。
男は目を見開き、それから唇を噛んだ。
「それだけか」
「ああ」
「……そうか」
命乞いでもすれば、男は西明を見下し、愛想も尽かせたことだろう。
しかし西明は自分を救う救済の技法を求めはしない。
それはいっそ潔いが、まさに愚かだ。
生きる術があるかもしれないのに、可能性に縋るような惨めな様を見せない。
醜態を晒しても生きようとする人間味の欠けた西明が、男には高潔に見えた。
それは男が今まで、生き物の欲求の醜悪な部分を纏めて出来上がった様な存在である物の怪と、対峙してきたからかもしれない。
死を前にして悠然な態度を崩さない西明は、あろうことか首を斬り易い様にと頭を上げた。
白い喉が露になり、仰け反る格好に着物が少し崩れる。
すると首の付け根に傷跡として残っている薬売りの噛み跡が現われて、男は顔を歪めた。
せめて最期、西明に傷を付けるのが俺であることが、救いか。
男は一人、声に出さずに自己完結した思いを胸に、退魔の剣を振るう。
西明は最期まで、笑顔だった。
「にゃあ」
鈴が鳴る。
「あぁ、こら」
男は今にも走りだしそうな毛艶の良い黒猫の首元を摘んで、持ち上げた。
藤色の紅を指し、奇妙な隈取りをした男である。
鮮やかな衣裳に鮮やかな化粧、麻色の髪。黒など一点として身に纏っていない男は、漆黒の猫を胸に抱く。
「お前の主人は、もう居ないよ」
焼け落とされた、骨董屋の前に佇む男。
黒猫は焼け落ちた元店に向かおうと暴れるが、男は離さない。
隣家に被害が及ばずに済んだ火災は誰がやったのか、未だ分かっていない。
ただ、字が読める者は、口々に炭となった骨董屋の店主を罵倒した。
瓦板は書く。
乱心者、松平平八宅に押し入り、患者数十名に乱暴狼藉を行い殺害。止めに入った松平平八も討ち取られ候。その乱心者、隣村の骨董屋の主人、名を久倉西明と云う
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→
カ
ラン、と不気味な装飾がされた刀が地面に投げ捨てられた。
何をしているのだ。
早く斬らねば、私は完全な鬼になる。
そうなれば敵として、厄介な筈。
まだ不完全な内に殺せと云うのに、何故斬らない。
「薬売り」
「俺に」
頭を垂れて、肩も落として呟く声。
体が、心が、ギリギリと痛む。視界が紅く滲む。
喉までせり上がってくるのは、亡き者の声。
身体の主導権はまだ譲らぬ。
譲れば、もう二度と私は表に出られないだろう。
「俺に西明は、斬れない」
語尾は擦れて弱々しく、どうにか聞き取れる程度。
愚か者。
どうしてお前がそんな泣きそうな声を出す。
私の心がまた弱くなるではないか。
決心を揺るがすようなことを、してくれるな。
お前は物の怪を斬る。
物の怪は斬らねばならぬと、何度も繰り返していただろう。
なのにどうしてそんな簡単に、貴様の中にある決まりを、秩序を、理を、覆すのだ。
私なんぞの為になど、あってはならんのだ、薬売り。
「甘っちょろい考えだ」
「それでも俺は」
「そんなお前が、愛しくてならないよ。薬売り」
脇刺しを鞘から抜く。
「覚悟を、決めよう」
お前が私を殺せないならば、私が私を殺せば良い。
刀を持つ手が意志に反して暴れ出すので、もう片方の手で押さえる。
私と心中は嫌か。
そうだろうな、私も嫌だ。
誰が好き好んで知らん奴と心中なんてするものか。
しかし共に輪廻の道を歩んでもらうぞ。
お前達の恨みは未だ果たされていないが、これ以上人を傷付けさせはしない。
還るが良い。
薬売りを斬ろうと勝手に暴れる利き手を押さえて、刃先を自分の方に向ける。
擬態化が始まっているのだろう、爪が黒く染まっている。
もしかしたらもう私の姿は人ではないのかもしれない。
「西明!」
薬売りが吠えた。
嗤う。
自我を失ってお前を傷付ける前にどうにかするには、こうするしか、ないのだよ。
*****
蝉が啼く。
ついこの前に若葉が柔らかく揺れていたと思えば、深緑の葉がざぁっと音を奏でて風に揺れる。
茶屋に旅人が一人、腰掛けていた。
街道に出た長椅子に腰掛け、番傘の下だと云うのに笠を被って茶を飲んで寛いでいる。
「店内の方が涼しいですよ」
店員の若い女が声を掛けるが、丁寧に断られた。この席が良いのだと、旅人は穏やかな口調で告げる。
客が少なくて暇を持て余している店員は、旅人の隣に腰掛ける。旅人はちらりと店員を見たようだが、またすぐに街道に視線を戻した。
「旅をなさっていらっしゃるんですか?」
「はい」
「じゃあ京には」
「行ってきたばかりです」
「まぁ、羨ましい」
「行きたいんですか?」
「えぇ、都には憧れます」
「そうですか」
「……あなたはどうして京に行ったんですか?」
都に憧れなど抱いていないと暗に言っている素っ気ない口調に、娘は怪訝な顔をした。
憧れても行けない者も居るのに、なんて贅沢なのだと腹を立てたのかもしれない。
しかし旅人は顔色一つ変えず、仕事で、と言った。
途端に娘は口を押さえ、丸い盆を胸に抱えて、お仕事大変ですね、と言った。
「そこまで忙しくは、ないですよ」
旅人は茶を口に含み、喉を動かす。
空を見上げれば何処までも広がる青。
娘も促されるように見上げて、目を細めた。
「此処は暑いですね」
ぽつりと旅人は呟く。
「これからもっと暑くなりますよ」
その言葉に旅人は深く溜め息を吐いて、顔を手で扇いで風を送り込み始めた。
どうやら旅人は暑さに弱いらしい。
「出身はどちらですか?」
「北陸です」
「あぁだから、暑いのに弱いんですね。北は夏も涼しいと聞きます」
「それすらも暑いと思っていたので、こちらでは適いません」
「京は盆地ですから、もっと暑かったでしょう」
「えぇ、次行くならば冬に、と思いましたよ」
あぁ暑い。とどちらともなく呟いた。
金属の様な艶を見せる黒塗りされた爪が、扇ぐ動作で上下に動く。
娘は綺麗に染められている爪に、旅人の仕事を考えて悲しそうな顔をした。身体を売る仕事でなければ、どうして爪に化粧が出来るだろう。
「ご実家に帰りたいんじゃありません?」
旅人は一寸の間の後、首を横に振った。それに娘はいっそう悲しい顔をする。
親に売られたのだろうか、だから帰れないのだろうか。それとももっと別の理由があるのかもしれない。
平々凡々と暮らす娘には旅人の過去など到底想像がつかない。
ふと、娘は旅人が首を振った拍子に露になった首筋に視線を向け、途端に硬直した。
首を横断するように走る一本の傷跡。
長い距離を走るそれは、歪に肉が盛り上がっていて傷の深さを伝える。
旅人は娘の露骨な視線に、困ったように笑って首を手で隠した。娘は痛々しい傷跡に対する衝撃のあまり、嫌悪の表情を誤魔化せずにいる。
「見苦しいものを見せてしまいましたね」
「いえ、あの、その、痛くは、ないんですか?」
不躾な質問だと気付いた時にはもう遅い。慌てる娘に旅人は笑みを崩さなかった。
「火傷跡の様なものですから、痛みはありません」
「そう、ですか」
「はい」
娘はほぅと息を吐いて、肩の力を抜いた。
姿勢を正すように盆を抱え直す。
まさに旅人の身体は、娘の日常からずれていた。
娘は情事の末に傷つけられたのだろうかと考え、何を不粋な、人の触れられたくない過去を探るなんてと思い直す。
何か別の話題をふろうと考えて、娘は以前風の噂で聞いた事を思い出した。
「北の方ならご存じかしら」
旅人は何の事だろうと娘を見つめ、話を促す。
娘は話題が変えられることに歓喜し、饒舌に語りだした。
「医師が二人も亡くなってしまって、医者不足だって聞きました。あぁ、医師二人ではなく、医師一人に、弟子入りした方が亡くなったんです」
「存じませんでした」
「そうなんですか。何でもその医者は代々医者の家系で、医師の元に弟子入りしたいとやってきた田舎者を快く受け入れる様な優しい方なんですよ。なのにその日不審火によって、家が全焼してしまって、患者用の家屋は被害を受けなかったらしいですけど、母屋の皆さんは亡くなってしまったんですって」
「不審火、ですか」
「夜が明ける前の出火で、皆さん寝ていたから逃げ遅れたんでしょうね」
「……御冥福を」
「本当に。その弟子入りした方も可哀相ですよね。その日より遅れて弟子入りすれば、焼け死ぬことも無かったのに」
娘が話しているうちに落胆してくるので、旅人は何も云わずに頭を撫でた。
頭を撫でられて、足先に視線を向けていた娘が旅人を見ると、慈愛に満ちた表情を向けられていた。
しかしすぐに視線は街道へ移り、あ、と短い声があげられる。旅人の視線の先には、芸者のような派手な姿の人影があった。
「お連れさんがいらしたのですね」
「えぇ」
腰をあげ、代金を支払うと旅人は早々に連れの元へと向かった。
「情報収集は終えたか」
歩調を少しばかり早めた西明は開口一番にそれだけを述べた。
「はい」
「そうか」
笠を深く被り直す西明。
顔を隠すその仕草に、鍔を摘んで上げた。
「首が絞まるのだが」
締めた紐が首に食い込むのだと顔をしかめらる。
紐に手を掛けようとすると、手を制された。
それでも手を動かして紐を解けば、西明の表情は忽ち曇って、そして一瞬だが怯えの色を見せた。
笠を外すと影が無くなり、漆黒の艶やかな髪が風に遊ばれる。
細められた瞳は髪同様漆黒では無く、血の色だ。見る人が見れば畏れ慄く其の眼球。しかし俺にとってその瞳は宝玉。
「じろじろと見るな。私は見せ物ではない」
不愉快だと云わんばかりにねめつけられて、笑った。
それが不愉快だったのか、顔をそらして少ない荷を背負い直す西明。
「茶屋で」
「はい」
ちらりと俺を見て、それからまた視線を落とした。
それは言い辛い事を言う時の癖。
しかし西明は性格上、視線を反らしたまま話す事はしない。
平素を装って、ありきたりな会話をするように語り出す。
「松平の一件は、不審火で決着が付いたようだ」
真実は闇に葬られたと、西明は嗤う。
本当は其の事実を知っていたので、そうですか、とだけ返した。
あの日、西明が首を斬った瞬間、鬼は西明の身体を出た。西明が死ねば自分も道連れにされる事を怖れて逃げ出すという行動をとったのだろう。
西明が血を首から噴出させながら倒れるのと同時に、退魔の剣を抜いて鬼を斬った。
鬼は逃げることに必死だったのか抵抗も無く斬られて、すぐに西明に駆け寄ることが出来た。
駆け寄ると、西明は地面に伏していた。鬼火が消えた闇の世界に、燭台の灯りはあまりにも頼りない。
鮮血の臭いだけが鼻腔を刺激した。
あの時、西明は首を深く斬っていたので死ぬはずだった。
だが、傷が異常なほど早く治癒して指先が動くと同時に、退魔の剣が物の怪が傍に居ることを告げた。
西明は鬼と融合し始めていたのだ。
鬼特有の紅い瞳と金属の様に強靱な爪、それから異常なほどの生命力が残った結果、生き長らえた西明。
そう、西明は半妖の身となっていた。
西明は斬ってくれ、と俺に言った。
半妖は妖怪を引き寄せ易いからもし村へ戻って生活していたら必ず村へ何らかの被害を被る。だから村へは戻れない。
一人で諸国を回るという方法がないでもないが、いつ何時、中に巣食う鬼が暴れだすとも知れない。誰かを傷つけてしまった時、首を斬っても死なないのだから、きっと自決は出来ないだろう。
だから頼む薬売り、斬ってくれ。そう、西明は言った。
しかし俺の答えは、斬れない。だった。
西明は落胆したが、俺にとってこの事件は喜ばしいことだった。
西明は半妖となり、人間の様に儚い存在ではなくなった。
妖怪を引き付けやすい体質になった為に諸国を巡らなければならなくなった。
西明の魂が鬼に食われた時、すぐに西明を葬る為に共に旅をしようと提案出来た。
そして今、俺が望むままに、共に諸国を巡れている。
「次は何処へ行くんだ」
「土佐に、行こうかと」
「土佐?」
西明が顔をしかめる。
あそこは暑いから西明は行きたくないのだ。
しかし今の状態で北へ行けば西明は感傷に浸り、変わった己に落胆するだろう。
それはまだ先で良い。いつかそんな事もあったなと笑えれば良いと思う。
だから今はただ、穏やかに旅をしよう。
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→
ゆ
らりと鬼火が現われた。
日常では見る事の叶わない蒼い炎を人は恐れるが、私は美しいと思う。
霊魂が一点に集まって凝縮して混ざり合う。
初めて見る結合に茫然としていると、塊はゆっくりと人間のような体躯になってゆく。
赤黒い膚のそれが何者か、一目で分かる。
鬼だ。
表皮は人の苦悶に満ちた表情が蠢いていて、まさに異形と呼ぶに相応しい。
普通ならばその姿に畏怖の念を抱くはずなのに、何故だろうか、愛くるしさすら感じてしまう。
蒼い灯りに映し出されたそいつに、私は愛想を振り向くように笑った。
「ひいっ!」
声と云うよりもは音が反響した。悲鳴は洞窟の中ではよく響く。
鬼は的を私からその音源に移した。
松平の方へ振り向いた鬼に、また短い声を上げて尻餅をつく松平。
鬼の身体が波打った。正確には表皮の顔が蠢いたのだが、どちらにしろ、鬼が少し動く度に吐き気をもよおす程の憎悪の念を感じる。
万一鬼が外に出れば母屋の者のみならず、離れにいる患者も喰われるだろう。招かねざる被害を思い、入り口を閉めて札を貼る。
他に出入口があったら無駄だが、此処に居る者達が逃げ出せる場所を二つも作っているとは思えない。逃げられないように監視するならば、出入口は一つの筈だ。
きっとこの強固な二重の金属扉が唯一の出入口だろう。
「た、たすけっ……!久倉殿!助けっ!」
漸く私の存在に気付いたらしい松平は、声を震わせていた。
懇願して、届くわけもないのに腕を精一杯延ばしている。
「助ける前に、お訊ねしたい事があります」
「何を悠長な!」
松平の怒号に鬼が身を屈める。
それは駆け出す合図のようで、迷わず札を放った。
耳をつんざく悲鳴に、札は霊にとって傷口に擦り込む塩と何ら変わりはしないのだと再確認して、僅かに罪悪感が胸を掠める。
しかし命と傷みならば命を優先せねばならないのだ。今は、仕方がない。
「た、助け……」
「ならば教えてくれはしませんか。此処が、何なのか」
ぐるりと見回す。
血の臭いは相も変わらず鼻を刺激して、呼吸をする度に肺に血が溜まる様な錯覚を覚える。
地面は黒く染まっていて、いったいどれだけの人間が血を流したのかと思った。
吹き曝しの洞窟は不衛生で、身体を好きにされた者達の身体には蛆が涌いていて、呻き声が時折している。
松平の動向を伺うが、沈黙を守る男は頑なだ。
札を持ったまま、相手が口を開くまで何もしない。
一枚の札など、これだけ強力な鬼の前ではすぐに効果が失われる。
鬼はすぐに標的を松平に絞ると迫ってゆく。
「松平様」
「……ひっ!」
蹲って震えている。
何があっても話さないつもりなのか。
それとも思考が追い付かず話せないのか。
そろそろ札をやらなければ松平があの鈍色の爪に斬り殺されてしまう。
「松平!」
「私は悪くない!」
私が怒鳴って鬼に札をお見舞いするのと松平が涙声で叫ぶのはほぼ同時だった。
「私は悪くない!悪くないんだ!」
鬼の悲鳴に混じって自己肯定を叫ぶ松平に、胸の奥がざわりと騒ぐ。
「医者の家系が悪いんだ。私は医者の才能など無いのに、皆がさせた!」
それとこれとの接点が解らず続きを待っていると、松平はまるで子供の様に泣き叫んでしゃっくりを繰り返す。
「上の奴等は私の気持ちなど解らない!いつもいつも父と比べられて失敗作と烙印を押されて!」
吐き出されるのは負の感情。
ずっと一人で溜め込んでいたのだろう、涙と一緒に止まる事を知らずに溢れ出している。
「今私がこんな目に遭ってるのだって……!畜生、畜生!」
「話して下さい」
札を周囲に貼って、安全地帯を確保する。
「お前だってそうだろう?」
急に投げ掛けられた台詞に、鬼から視線を外して背後で蹲る男を見る。
「お前だって金で動いたじゃないか!お前は金が欲しいんだろ!私は金だけじゃない。家名を守らなくてはならないし、上からの命令には逆らえないんだよ!田舎でのうのうと生きているお前とは訳が違うんだよ!」
「上から命令されたと」
元々自分に淡泊なので、言い掛かりは気にもならない。
しかしそれが相手にとって余計に腹立だしい事なのだろう、憎々しげに睨まれた。
「お前には分からない!」
「上から命令も来ない田舎に住んでいますから」
松平が口を閉じる。
どうやら命令されたと云うのは正解らしい。
しかし何を。そんな事、考える迄もないか。
「解体新書ですか」
「そうだ。上様が体調を崩している。私はその原因究明と解決策を、そして近隣諸国より発達した医学を得るように命じられたのだ」
哀れな男だ。
物の怪騒動の原因は私が来るより先に原因まで気付いていただろうに。
それなのに私を呼び寄せて、事を明るみにさせたその真意は何だ。
「私を助けろ。そうでなければ、お前の命も無いぞ」
くだらない脅しだ。しかしそれはあながち外れていないだろう。
松平が死ねば私がこの事実を知っているか解らない。危険因子は摘み取るに限ると考えているだろうお上は、事が明るみになる前に私を消しにくるだろう。
民を生きたまま切り刻んで人体実験にしていたなどと流布されれば、国が傾きかねない。
松平が生きて私が真相を知ったと言いさえしなければ、私はただお祓いをしたとみなされて村に帰れると。そう云う訳か。
尤も、松平が黙っている可能性は極めて低そうなのだが。
まだ僅かに生きている者達と鬼を見る。
人の身体を分解するだけではなく、他人や他の動物と縫合されている者もいる。
鬼からは、憎悪の念。
解体新書の枠を抜けた、気紛れで、興味本位から来る遊び感覚の実験が見て取れる。
もし私がこのまま松平を助ければ、この行いは松平が生きている間、否、最悪の場合はこの家が根絶するまで永遠に続けられるだろう
。
松平を助ける
松平を助けない
「
久倉殿……」
「その札より、出ないで下さい」
松平は己の感情に正直だ。
医師としての実力がついてこない現状の中、周りから医師として求められる重圧の憂さ晴らしが人体実験だった。
自分に正直だったから、上から命じられた人体実験と銘打って爪を剥いだりして、遊んでいたのだろう。
しかしそれを裁く者がいなかった。
それが此処まで自体を悪化させた。
私は松平を裁くべきなのかもしれない。
しかし松平がこの地を治める者と共闘していては、私が何を言ったところで事実はねじ伏せられ、隠蔽されるのは明白。
そんな諦めの境地の中で何かをしようと思うほど、私は世間知らずでも誠の善人でもない。
私が何かする事によって村の者達に被害が及ぶ可能性は十二分にあるし、私だってあの住み慣れた家を失いたくない。
危険な橋を渡るほど、私は若くも愚かでも無いのだ。
結界から出る。
「お前に恨みがあるわけではない」
鬼は私を見つめる。血の色に染まったその瞳に己が映っているとは、不思議だ。
私を敵とみなしたのだろう、鬼は雄叫びをして、黒い液の吐瀉物を撒き散らす。衣服に着いたどろりとしたその吐瀉物が、血反吐だとすぐに知れた。
此れは鬼になった者達の気持ちのようだ。声にならなかった思いを吐き出した鬼は、いつでも飛び掛かれるように姿勢を低くした。
「済まないな」
左手に札を、右手に刀を。
刀にはまじないが彫られている。
薬売りの剣ほどではないが、それでも戦いには使える。
あまり戦は得意ではないのだが、苦手だと言って避けられるものでもない。
鬼を睨む。
それが合図とでも云うように、鬼は大きな体躯などものともせず飛び掛かってきた。
「西明!」
金属の扉が開かれる。
そこには来た時と同じ格好の薬売り。
対する私は血が付着した寝巻。
「遅かったな薬売り」
「西明、これは、一体」
「物の怪は私が斬った」
「西明、怪我は」
「大事ない」
「この、状態は」
倒れている松平に視線を向け、それから辺りを見回す。
鬼火が消えた今、頼りない灯りがちろちろと辺りを照らすだけの視界。
それでも薬売りは視えているのだろう、周りに視線を送っている。
「松平の仕事の場だ」
「どう、云う」
「お上からの命令で、解体新書をより詳しく作っていたらしい」
「豚の身体に、生首を縫合するのも、解体新書、ですか?」
「それは松平の憂さ晴らしだ」
僅かな灯りに慣れた視界の中で、薬売りが顔を歪ませたのが分かった。
「何か言いたそうだな」
「……何でも、ありません」
言いたくないならばそれでも構わない。しかし今ので薬売りが言いたい事は大体理解出来た。
理解は出来たが、それに答えるつもりは、無い。
ただ胸の燻りは罪悪感からか、薬売りの善人さへの嫌悪感からか。分からないが、後ろめたくて視線を床に投げた。
「帰るぞ、薬売り」
「本気、ですか?」
「ここで嘘を吐くものか」
「西明……」
「行くぞ」
松平は今後も人体実験を続けるだろう。
此処にいる者達がまた鬼となるのは時間の問題だが、松平にとってこれが仕事ならば仕方ないし、私にはどうすることも出来ない。
その仕事を辞めさせる為には松平の悪業を公開するべきなのだろうが、それをやったところで、松平を善き医師と思いこんでいる者達が信じるだろうか。
真実を確かめに来た者が松平に問うたら、松平は私に罪を押しつける可能性が高い。
その為に坊主ではなく、医師であり除霊を行う私に目をつけたのだろう。
もし遺体が見つかった時、私が狂ってこのような行動をとったと松平が言えば、周りは馴染みでも何でもない私の意見より松平の意見を真実として受け取る。
そして真実は闇に……それが世の常だ。
荷を背負いながら歩む帰路。冷たい空気は重たく、体温は闇に拡散してゆく。
疲労は頂点に達していて互いに沈黙が続くが、疲れから口を開くのが億劫なのではなく、互いに思う所があって生まれる沈黙は足に絡みついて、一歩を重くさせる。
やっとの思いで辿り着いた我が家は、夕焼けに染まっていた。
胸中で深く溜め息を吐く。
「西明」
薬売りが名前を呼ぶ。それに懐かしさを感じる理由を理解している自分に、また溜め息が出た。
女々しいったらない。
「発つのだろう」
「はい」
短い返事。
たった二文字の言葉によそよそしさを感じるのは、仕方ない。
私を幼い頃から知っていている男は、今回の事で幻滅したのだ。
霊を満足させて成仏させていた過去の私が、今の私の中に存在しないのに衝撃を受けたのだ。
物の怪を斬る事でしか成仏させてやれない薬売りが、過去の私を高尚な者に向ける眼差しで見ていたのは知っている。
大人になり、彼らの想いではなく自分を優先した私に、男は何を見たのだろう。
浅ましく卑しい、醜い程に利己的な大人を投影したのか。
分かる事は唯一つ。
薬売りは二度と、私の元を訪ねはしないという事。
「達者でな、薬売り」
「西明も」
「私は変わらんよ」
善くも悪くも、これ以上人格に変化はきたさないだろう。
尤も、もう逢うことは無い薬売りには関係ない事か。
男は下駄で砂利を踏む。
雪解けが始まったと云ってもまだ夜は身も凍る寒さだ。
しかし男の足は止まらない。
私も何も言わない。
どうして言えようか。
見送って、一息吐く。
すっかり冷えきった身体から白い息は出はしなかったのに、今吐き出した息は白い。
それでようやく気付く。
息を詰める程、己は別れに緊張していたのだと。
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「
鬼よ、私の言葉が理解出来るか」
鬼は反応を示すが、それが音に対してなのか、私の呼び掛けを理解してなのかは分からない。
ただ鬼の表皮で蠢く顔が一斉に私を見たのだけは理解した。
「久倉殿」
背後から縋るような声に振り返らずに鬼を見つめたまま、口を動かす。
「貴方の味方にはなれません」
「そ、そんな!それでも術師か!医者か!」
「その前に人間です」
「なにを!」
「人として、この行為に賛同出来ないのですよ」
高尚な訳でもない、仁や徳に熱い訳でもない。むしろ利己的で浅はかだからこそ、私は松平を助けないのだ。
その結果、松平を支持する上の者やこの街の者が怒り、故郷が被害を受けるかもしれない。
それによってどれだけの被害が故郷に生じるか、考えない訳ではない。
それでも私は鬼に同情する。
彼らは好きで鬼になったわけではない。沢山の苦痛に耐えられなかっただけなのだ。
そんな彼等をどうして斬れる。
それに松平を助けてどうする。この行いが続けられるだけだ。私はこの行為に加担など出来ない。
彼等のような悲しき者達を増やせる訳がない。
「ふざけるな!金を受け取っただろう!働け!働かぬか!」
半狂乱になって叫ぶ松平に、あの使用人が金を横取りしたのだと知る。
私は受け取っていないと伝えるべきだろうか。
否、しかし、もし真実を伝えればあの侍までもが恨まれる。
恨みの矛先は今から松平を見殺しにする私一人に向くだけで良い。
結界を解く。
松平は腰を抜かしたまま、半狂乱に叫んでいる。洞窟の中で谺する声に、鬼に吸収されなかった微量の霊が騒ぎだした。
「鬼よ、よく聞け!松平平八以外には何もしないと誓えば、私はお主とは戦わぬ!しかし」
まじないの彫られた短刀を構える。
鬼は静かに佇んだままで、私の言葉を拾おうと、理解しようとしているのだと錯覚を起こしそうだ。
「他の者に手出しするようならば、斬り捨てる!」
鬼は僅かに頷いた。
それは身体を少し屈めただけかもしれない。しかしそれが私には了解の合図に見えた。
鬼と松平の間に立つのをやめる。
壁となっていた私が退いて、鬼と向き合うことになった松平は涙を流した。
「い、嫌だ!」
「そう言った者を何人殺したか、覚えておりますか」
「助けて!」
「貴方は助けを求めた者に慈悲を与えましたか」
冷たい土壁に背を預ける。
ここで恐怖を感じるのは赦されない。
直接手を下すわけではないが、私が松平を死に導いているに違い無いのだから、畏れることも目を背けることも赦されない。
鬼が腰を抜かして動けない松平に近付いて、手を振りかざす。
松平は恐怖と驚愕と憎しみをない混ぜにした表情をした。
「満足か」
床には一目で人とは分からない肉片が散らばっている。
その真ん中に立つ鬼はこちらを見ると、呻いた。
ぎこちない、カラクリの様にかくかくとした動きで腰を曲げる鬼に、こちらも姿勢を正して一礼する。
「痛みは一瞬だ」
出来れば痛み無く逝かせてやりたいのだが、流石にそれほどの技法は持っていない。
まじないの彫られた刀を抜くが、鬼は動かない。
ここまで話が分かる鬼も居るまい。
柄を握る手に力を加えるとほぼ同時に、扉が重圧な音を立てて開いた。
「西明!」
荒げられた声に驚いて扉を見ると、そこには険しい表情の薬売り。
「止めろ!」
その手には札が握られていて、今まさに鬼に向けて投げようとするからこちらも声を荒げてしまう。
薬売りは驚いたように動きを止めて、私に視線だけを向けてきた。
「西明」
「こいつは無害だ」
「しかし……此処は、いったい」
辺りを見回して漸く気付いたらしい。
鬼火によって照らされた世界には解体され、縫合された者達が地面にそのまま横にされている。
今更、鬼の所業ではないと気付いたのか、札を握る手を下げた。
「松平の実験場だ」
「人体、実験、ですか」
「そうだ」
「松平は」
「其処に」
鬼の足元を指す。
薬売りはどうやら理解が一瞬及ばなかったらしく、眉根を寄せて凝視して、それから目を見開いた。
「見殺しに、したの、ですか」
「あぁ」
「何故」
「私が醜いくらい利己的で浅はかで愚かだからだ」
薬売りは何か言いたいが言葉にならないらしく、口を開閉した。
鬼が薬売りを見て唸る。
私は手をかざし、動くなと鬼に態度で示した。
「薬売り、お前が斬るのと私が斬るのでは、どちらが痛くない」
「それは、判り兼ねます」
「そうか」
痛みの少ない方を選びたいのだが、仕方ないか。
「薬売り」
「はい」
「私の薬箱に朱の紙に包まれた薬がある。暗闇で色の判別がつきに難いだろうが、夜目はお前の方が利く。そこでだ、持ってきてくれはしないか」
「中身は、何ですか」
わざわざ訊くのか。
仕方の無い奴だ。
「毒薬だ」
猛毒だが、痛み無く死ねる薬。
もし自分の身に何かが起きたら、自決する為に持ってきた薬だ。
まさか他者に使うとは思わなかった。
「何に、使うんで」
「此処に居る者達に決まっているだろう」
まだ生きている者達をこのまま放っておいても苦しんで死ぬだけだ。
それならば少しでも苦しむ時間を短くして、痛みを感じずに死を迎えさせてやりたいと思って何が悪い。
「分かりました」
「ありがとう」
それから、こんな処を見せてしまって済まない。
本当ならばすべて私一人で済ませるつもりだったのに。
最期の最期に、醜い所を見られてしまった。
薬売りを見送ってから、もう一度短刀を構える。
刃先を鬼に向けて、足を踏みだした。
被験者も逝かせた後、そのまま松平家を出る。
早く帰らなければ、もう二度と村には戻れなくなるかもしれない。
「西明」
「何だ」
「何があったか、教えて、くれませんか」
「さっき、話しただろう」
帰路の最中、人のいない山道。
今しかないとばかりに問い掛けてくるから、眉間に皺が寄る。
しかし私の言葉に薬売りも眉間に皺を寄せてた。
しかも手首を掴んで歩みを止めるから、こちらも歩みを止めなくてはならない。
「急いでいるのだが」
「ならば、話して、下さいませんか」
「先刻も言ったが、話す事はもう話した」
「聴いていません」
ぎりりと手首が締め付けられる。
今度は痛みに眉根が寄った。
「西明の、心の有様を」
強い眼差しに、一寸視線を反らしてしまう。
それが自分に都合が悪いのだと分かっていても、反射的にしてしまうのは心を見透かされてしまいそうだからか。
見透かせる訳が無いと分かっていながらも、この紅い隈取りの成された視線は例外を物語る様で、強く睨まれると後ろめたくもないのに視線をそらしてしまう。
「話す義理はない」
「西明」
「っ……」
骨がみしりと鳴ったような気がした。
血流がせき止められるくらい強く掴まれて、手先の血色が悪くなって痺れる感覚。
「放せ」
「教えてくれるまで、放しは、しません」
早く帰らなければ村にはもう戻れなくなる。
手首を早く放してもらわなくては壊死してしまいそうだ。
「断絶する為だ」
結局折れるのは、私か。
「何を」
「あの行いを」
「それを西明がする、理由は」
「松平を下手人だと突き出せば良いと言いたいのか?」
「えぇ」
「それは無駄な行為だ。松平は上様の病を治す為の実験を、上から命令されていた」
「……揉み消される、と」
「そうだ」
「だから、殺した」
「浅はかだと嗤うが良いさ。私は後悔こそしていない」
話しはこれで終わりだ。
これ以上話しても、何にもなるまい。
私が話さないと理解したらしい薬売りは掴む力を緩めた。
血の巡りが再開されると手の痺れは次第に治まる。
見ると手首は痣になっていて、手加減をしない奴に溜め息が漏れた。
「お抱えの医者が殺されて、更に俗世に知られてならん事を知った私を生かしておくとも思えん」
「だから早く帰ろうと、して、いたんで」
「村にも国の手が回れば、もう戻れないだろうからな」
月明かりしかない山道は一歩間違えれば足を踏み外して川まで落下する。けれど慎重になど歩いていられない。
村に被害が出る前に着きたいと考えていれば自然と歩調は早まる。
しかし願い叶わず、陽が出て暫くして着いた村には捕吏の姿があった。
近くの森に身を隠して、様子を伺う。何人居るのだろう、かなりの人数だ。
「……おかしい、ですね」
「はめられたか」
元々私を生かして帰らせるつもりは無かったのだろう、松平が死んだと連絡が来る前に捕吏がいる。
秘密を守る為なら労力は惜しまないのか。よくやる。
こうやって命を粗末に扱うのが国ならば、村の者にも被害が及ぶ。
松平の実験の規模も大きかったから、村を壊滅に追い込んでも何とも思わないかもしれない。
「困ったな」
私が前に出れば、捕らえられて終了になってくれるだろうか。
元々と私が撒いた種だ。
周囲に被害が及ぶ前に、私がどうにかするのが筋だろう。しかし、それだけで上の者の怒りが収まるのか分からない。
「西明先生」
小さな声で呼ばれて、思わず身体が跳ねる。
見れば、隣人の妻が四つん這いになって身をひそめながら少し遠くに居た。
「西明先生、大丈夫?」
「私は。それより村の状況は?」
「皆外出禁止になっているだけで、実害は無いわ」
「そう、ですか」
「貴女は、どうして、此処に?」
私が云うより先に薬売りが問いかける。
その手には、何故か退魔の剣。確かに外出禁止ならば、隣人が村に入る前の森の中に居るのはどう考えてもおかしい。
しかしそれを相手に突き付ける理由は、何だ。
まさか
「黒猫か?」
隣人はにこりと笑い、四つん這いのまま近付いてくるその姿は不気味で、猫になれと言うと、あっさりと猫になった。
人型の時は手に握っていたのだろう、首に付けていた鈴を今度は紐の部分を噛んで引き摺りながら駆けよってきた。
抱き締めて、頭を撫でる。
声だけは出さずに、喉をゴロゴロと啼らして擦り寄ってくる。
嗚呼、やはり、私は此処に居る者の幸せを崩したくない。
「薬売り」
「はい」
「黒猫を頼む」
どうか生きて欲しい。
醜い程愚かで浅ましい私の行いがこの命一つで赦されるなら、それ程安いことはない。
尤も、私一人が死んで赦されるかはまだ分からない。それでも、何もしないよりもは良いだろう。
黒猫のつぶらな瞳が細められる。
私の腕の中で黒猫は一度にゃあと啼いて、また人の姿になった。
「西明」
それは私の姿で、私の声。
目の前で少し怒った顔をしている私は、額を突き合わせて問うてきた。
「西明は今出たら死ぬ」
「これは私が撒いた種なのだから、それくらいはして償わなければならないんだよ」
「嫌」
怒った黒猫はキッパリと言って、私を困らせる。
黒猫はやんわりと笑った。
自分の顔でそんな優しく笑われるのも不気味なもので、きっと私は間抜けな顔をしている。
黒猫は満足そうに笑って、薬売りの方に顔だけを向けた。
「おい男」
「薬売り、ですよ」
「私はお前が嫌いだ」
「俺も嫌いです」
黒猫が鼻で笑ったのが分かった。
薬売りも、少し困ったように笑う。
「西明を護れ」
「言われずとも」
「西明」
また額がこつんとぶつかり合う。
見つめていると鏡で見慣れた顔が近付いてきて、そして軽い音を立てて口付けられた。
目の前に居る私は満足そうに笑って、私を抱き締める
。
抱きしめ返す
某然とする
私
も幼い黒猫を強く抱き締める。
「西明、大好き」
「私も大切に思っている」
だから、だからこそ。
「だから勝手は許さんよ」
袂に隠していた札を黒猫の背に貼りつける。
途端に黒猫は悲鳴を上げて、私に擬態していたのを解いた。
「達者でな、薬売り」
「これが西明の生き方なのですね」
「あぁ、とくと見るが良い」
黒猫の悲鳴を聞いた捕吏が走ってくるので、私は森から出る。
これから受ける所業は、きっと想像を絶するものだろう。
そして真実は闇に葬られ、誰もが私を悪と見るだろう。
だが構わない。
私は私の信念を貫き通した。
それだけで、十分だ。
雪解けが始まる時分、ある街に下手人の生首が晒された。
生首は顔中に痣や擦り傷を作り、死ぬ直前まで苦痛を与えられていたのだと分かる物だった。
しかしそれに同情する者はいない。
代わりに唾を吐きかける者や罵声を浴びせる者が居たが、生首はやはり生首なので、ただその状況をあるがままに受け入れていた。
しかし翌朝、それは定位置から忽然と姿を消し、街の者達は詰め所に駆け込み、隠さずに晒せと怒りを顕にした。
この街で唯一の名医とその患者達が、あの生首になった人間に惨殺されたのだから、街の者が怒り狂っても仕方ないのだ。
しかし詰め所には一人しか居らず、その一人は途方にくれていた。
生首は隠したわけでも、別の場所で晒しているわけでもない。
本来ならば三日三晩晒されるはずだった生首。
それが晒された翌日に姿を消してしまったので、詰め所に一人を残して他の者は生首の捜索に出てしまったのだ。
首一つ無くなったからと云って騒ぎになる様な時代ではない。
あの生首は街人の怒りを鎮める為に必要不可欠なので、皆慌てふためいているだけの事。
街の者も総動員して一日中探したが、結局、どこを探しても生首は見つからなかった。
忽然と消えた生首を不気味がる者は少なくなかったので、噂がぽつぽつ生まれたかと思うと、あっという間に他国にも広がる。
あの生首の人間は鬼道が使えたと云うから余計に噂は誇張され、根も葉もないことが嘯かれる。
しかしそれも人の噂も七十五日と云う様に、雪が解け、新芽が芽吹き、初夏を知らせる緑が生まれる頃には、姿を消した。
こうして、この大量殺人も時代と共に風化してゆくのであった。
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理
解が及ばず、薬売りに助けを求めるように視線を向けると、視線をそらされた。
「黒猫」
「大好き」
「あぁ」
黒猫は身体を離して、にこりと笑う。
鏡に向かって笑顔を向けたことの無い私にとって、己の顔でそんな表情をされると不気味だ。
そんなにこにこと私を見てくれるな。
黒猫は私の姿のまま立ち上がる。
そんな姿で立ち上がっては、捕吏に見つかり次第捕えられてしまう。
黒猫をしゃがませようと服を握ろうと手を伸ばしたら、横から伸びてきた藤色の綺麗な爪の手に手首を握られる。
「薬売り」
「分からないわけでは、ないでしょう」
ぐいと引っ張られて、薬売りの胸に顔が埋まる。
鼻を強く打って、ツンとする痛みに涙が滲むのと同時に、何かが駆けてゆく足音。
振り返っても、もうそこに黒猫は居ない。
「久倉西明は私だ!捕らえたいのならば捕らえるが良い!」
口を動かしてもいないのに遠くから聞こえる己の声。
「黒っ!」
口を塞がれて、なりふり構わず振りほどこうとするが、力で適わない。
「西明、分かって、下さい」
嫌だ。嫌だ。
分かりたくなどない。
「黒猫も、西明に、生きて欲しいのですよ」
そんなの嫌だ。
誰かを犠牲にしてまで生きたくない。
黒猫の屍の上に立てというのか。
追え、と怒声が響く。
頭がぐらぐらした。
今私が表に出れば、混乱が生じるかもしれない。そうすれば黒猫は助かるかもしれない。
なのに身体は強い力に拘束されて自由が利かない。
薬売りが憎くて堪らない。
自分の行いの尻拭いを他人にさせる自分に反吐が出る。
心臓が早鐘打って、痛い。このまま破裂してしまえばどれだけ楽だろう。
「火を点けたぞ!」
騒ぎの中、知らない男の声がした。
葉の落ちた枝の隙間から見える空に、狼煙のようなものが一本立ち上った。
「生け捕りがしろ!」
「火の周りが早い、離れろ!」
様々な声がする。
炎が勢い良く上がるので、油を使ったのだとすぐに分かった瞬間、内臓が熱くなった。
血液が一気に沸騰する感覚は、生涯、これきりだろう。
鎮火しても暫らく、西明は動かなかった。
まだ捕吏がいる。
長居すれば見つかる可能性もある。
拘束を解いても尚地面に座り込んで空を見上げる西明の腕を掴むが、西明は反応すら示さない。
腕を引っ張って無理矢理立たせるが、足が萎えているのだろう、身体がぐらりと揺れて踏鞴を踏んでいる。
「西明、しっかりして下さい」
声をかけて、ようやく焦点の定まらない視線がこちらを見る。
廃人になったのか。
西明は失う怖さから大切な存在を作らない臆病な人間だ。
だから西明にとって存在を確かなものにした黒猫の死は大きく西明の心を抉る。
しかし、それでは命を張って西明を生かした黒猫が報われない。
黒猫は廃人にさせるために命を投げ捨てたわけではないのだ。
「西明」
「何故死ぬ理由があった」
急に強い眼差しを向けられて少し驚くが、同時に大丈夫だったのだと安堵する。
西明は、俺が思う以上に強い。
「何故だ」
「皆の前で死ねば、西明は死んだと、思われます」
「それで私の人相書きが貼られるのをやめさたのか?追っ手を無くさせたのか?」
「きっと、そうでしょう」
「っ、そうか」
てっきり馬鹿げていると、怒りを顕にするかと思ったのだが、西明はただ頷いて、それから、無表情のまま涙を流した。
「済まない、薬売り」
泣くつもりはなかったんだ。
そう言って涙を拭うこともせず、荷を背負う。
「何処へ」
「分からん。ただ、私は生きなくては、あいつに面目が立たない」
行く先も定めずに歩きだす西明は、残された生を無駄に生きるつもりだろうか。
隣に立って、手を握る。
「行きましょう、西明」
「何だこの手は」
「何も知らない初心者が旅を出来るほど、世の中甘くは、ありませんよ」
「……知識はある」
「知識だけで生きられたら、苦労ありません」
西明は口を閉じる。
下手に言い訳をしないのを良いことに、手を引っ張って歩きだす。
西明は最初こそ顔をしかめたが、すぐに少し俯き黙って着いてきた。
旅であっさり死んでは、申し訳ないと思ったのだろう。
黒猫に頼まれた以上、西明に生を全うしてもらわなくては困る。
尤も、それは建前なのだけれど。
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