モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
師走の23
「ああっ」
男が珍しく、本当に珍しくやや大きめな声をあげた。
抑揚こそないが外で降りしきる雪に音を吸収されたこの空間でその声は反響する。
本から視線を外して男を見れば、男は口をぽかんと開けて間抜け面。
何をそんなに、驚愕しているのか。
男の目線を追うがそこには何もない。
あるとすれば壁だ。
壁に驚く人間はまずいない。
いるとすれば少し頭のネジが緩い者か、何か現世に居てはならないものを視てしまった者だ。
男がこの二つに当て嵌まるとは到底考えられない。
大方、何か忘れていた事を思い出したのだろう。
「西明」
「何だ」
「今日は、23日、ですか」
「日を数えられなくなったのか」
「違います。確認をしたかっただけ、ですよ」
「師走の23だが」
「これは、困った」
「そうか」
「困りました」
「そうか」
「困っているんです」
「そうかそれは大変だな」
こういった会話が続く時、男には注意しなければならい。
人に『困っています助けて下さい』と救済を求めるような精神をこの男は持ち合わせいない。
何があっても他人に困っているなどと知らせる事は無い。
何でもないと余裕そうな外面をしながら、自力でどうにかしようと内面で試行錯誤しているのがこの男だ。
そう云った面での自尊心が高い男が『困った』と言う時は必ず何かある。
だからこそ訊かずに話題を流そうと思っていたのだが、男は勝手に口を開いた。
話題を聞けばそれは即ち相手が困っている内容を知る事になる。
そうなると巻き込まれるのは必須。
それは勘弁願いたい。
「24日は」
「薬売り」
「……」
「今日は魚にしようか」
「西明、魂胆が丸分かり、ですよ」
「それはお前もだ、薬売り」
「互いの事をよく知っている証拠、ですね」
「魂胆を探るとはあまり好ましくない間柄だな」
「西明」
「お前の我が儘を聞き入れたりはせんぞ」
「西明は蘭学の本を、読んだ事は、ありますか?」
「蘭学?」
飛んだ話に、今から男が語りたい事との接点を探すが、何も浮かばない。
この時期と蘭学の接点とは、何だ。
「ありますか?」
「ある。倉に幾つか冊子があった。本の場所に並べているから、薬売りも見た事があるだろう」
「見ましたが、読んだのかどうかは、不明だった、ので」
「興味が引かれてな、読んだよ」
「そうですか」
男が笑ったように見えた。
直感的に男の手の内に入ってしまったのだと気付いたが、今ではもう遅い。
出向した船から降りるのは不可能なのと同じように、後は流れに乗るしかない。
「では24日を、クリスマスイブ、25日をクリスマス、と言うのは知っていますか?」
確か、そんな事が書かれていた気がする。
「聖人が産まれた日だろう」
「そうです」
「お祝いをするんだったな」
「流石西明、よく知っている」
薬売りの魂胆が分かった。
お祝いをする。と言った瞬間の嬉しそうな顔は、子供が予期していなかった良い出来事に喜んでいる時のようだ。
しかし、その喜びを受け入れてやるつもりはない。
「ただ知識として持っているだけだ。吉利支丹の聖書や十字架も倉に少数ながらあるが、私とは繋がりがない。イエスズ会に属していないからな」
「そうでしょうね。西明が何かを信仰する姿は、想像に難い」
「だろうな」
「はい」
「だから我が家でキリストの産まれを祝う風習は無いよ」
「しかし、祝うだけなら、バチは当たりません、よ」
「年の瀬は忙しいのに、祝ってられるか」
「では祝わずとも、一緒にいましょう」
何を言い出すかと思えば。
てっきり祝いたいと駄々を捏ねて私が仕方ないと折れるいつもの流れになるかと思っていたのだが。
何を考えているのやら。
その日を共に居ようと言われなくとも、男は此処に停泊中であり外は雪が降り積もっている状態なのだから、否応無く時間を朝から晩まで共にしているではないか。
当たり前の事を言われて、こちらとしては少し戸惑ってしまう。
「一緒にも何も、お前は雪解けまで此処に居るのだろう?」
「はい」
「ならば今のは愚問だ」
「そう、ですね」
男の言いたいことがまるで分からない。
何がしたいのだ。
何が裏に隠されている?
だめだ、理解が及ばない。
しかしまたあの書物を読む気にはなれない。
異国語を読むのには時間と労力が必要なのだ。
この忙しい年の瀬にそんな悠長な時間を設けられるほど私は暇を持て余していない。
それにそのクリスマスの日を共に過ごす意味など、私が読んだ本には記載されていなかった。
大方、男が旅途中に貿易港に寄るか何かをして仕入れた異文化の知識だろう。
私には出来ない情報収集方法だ。
男を見る。
嬉しそうな雰囲気を纏っている男に理由を求める質問を投げ掛ける行為こそ、愚行だ。
幸せならばそれで良い。
お祝いに洋菓子を作るのは無理だが、何かちょっとした菓子を作ってやるのも良いだろう。
男は甘い物が好きなので、きっと喜ぶに違いない。
まったく、いつから薬売りにこんなに甘くなったのやら。
一足早い幸せを君に。
Marry X'mas
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