久し振りにディスプレイに写されたのは「東堂尽八」という高校の頃にとりわけ仲の良かった男友達の名前だった。

いきなり電話なんて何かあったのだろうか、と一瞬画面をタッチするのが躊躇われたが、私と尽八の仲だ、出ないわけもない。
はいもしもし、と言おうとしたがその「は」に被せてあの頃となんら変わりのない尽八の興奮気味の甲高い声で「今どこにいる!?」と早口で尋ねられた。

「え、バイト終わって帰り道だけど」
「名前は実家暮らしだったよな!?よし、今から◯◯駅の◯◯って飲み屋に来れるか!?」
「え?なんで?」
「野獣がご乱心だ…っうわああ!!」

と、ここで通話が切れる。
道の端で思わず立ち止まりケータイを呆然と見つめてみるが、そうしていたって状況は変わりはしない。
◯◯駅は定期圏内だし、明日の講義は3限からだ。
正直、面倒ごとに巻き込まれる予感しかしないけれど、それでも私は元来た道を戻って駅に向かった。
もしかしたら、久し振りに尽八と連絡を取り合ったことに浮かれたのかもしれない。






「名前!わざわざ来てもらってすまんな!」

居酒屋を入って右奥の一角が一際賑やかなことに気付いて、そろりと近付いてみるとお目当ての人物が私にひらりと手を振った。

約1年振りに会うというのに、尽八はあの頃と変わらない馴れ馴れしい様子で私の肩をポンと叩いて「いやあ、お前が来てくれて助かったよ」としみじみとした風に言った。
どうしたの?と声に出す前に、その座敷スペースに見慣れた顔、と言っても大分久しいのだけれど、数人の男の顔がこちらを向いていた。

「ヒュウ!苗字さんナイスタイミング」

バキュン、と効果音の付きそうなポーズを決めてウィンクを飛ばすのは新開くん。
高校時代に比べより軟派な雰囲気に拍車が掛かっている彼は酒が入って頬をほんのりと赤く染めている。
その横に、相変わらずの仏頂面で「すまんな」と頭を下げた福富くん。
そして向かい側、おそらく尽八の席をも占領して寝転んでいるのは荒北くんだろう。
だろう、と言うのは、あまりにも顔が赤くて目元が潤んでおり私が知っている荒北くんとは似ても似つかない雰囲気を醸し出しているからだ。

「荒北くん、大丈夫…?」
「これでも大分マシになったんだぞ!名前が来るまではひたすらに暴れて気が済んだかと思ったらトイレで胃の中の物を全部吐いてようやく収まったんだ」

やれやれと首を竦めて、尽八は荒北くんの頭を膝で小突いた。

「ほら、念願の名前が来たぞ」

閉じ掛かっていた瞳が薄ぼんやりと開かれ、小さな黒目がきょろりと動き、そして私と目が合った。

「名前チャン…?」
「荒北くん、大丈夫?」

うつらうつらとした様子に心配になってそう声を掛けると、荒北くんはのっそりと身体を持ち上げ、昔と同じ真っ黒でサラサラな髪をガシガシと掻いた。

「あー…ごめんネ、わざわざ、」
「いや、いいけど…。なに、荒北くんが私を呼んだの?」
「ハ!?ちっげえヨ!」
「違うわけあるか馬鹿者!お前が名前に会いたい会いたいって煩いからこのオレが電話してやったんだろう!感謝しろ!」
「ばっ、お前死ネ!!!」

真っ赤な顔で怒る荒北くんからはあまり威圧が感じられない。
キョトンとその場を見守っていると、あーとかうーとか唸った荒北くんは「…まァ座りなヨ」とおそらく尽八の席であったのだろう荒北くんの隣の座布団をポンと叩いた。

「お邪魔します…」

尽八をチラリと見遣ると、構わんとでも言うようにこくりと頷いた。
この間、新開くんと福富くんがこちらをじーっと見ていることが気になって仕方ないのだが気にしたら負けというやつなのだろうか。

「名前チャン、ひ、久し振りだネ」
「そうだね、卒業式以来だもんね」

荒北くんは近くにあったグラスを私に差し出して、まだ口付けてないからァともごりと言った。
透明で泡がシュワシュワと浮いていたそれは、何かのサワーだろうが甘いだけでよく分からない。
これも食べなヨ、と枝豆が盛られた皿を突き出されたのでありがとうと言って一つ摘む。

「…名前チャン、可愛くなったネ」

突然の荒北くんらしからぬ砂糖みたいな甘い台詞に驚いて思わず指に力が入り、枝豆のサヤから豆がピュッと綺麗な放物線を描いてテーブルのどこかに飛んで行った。

「わっ、ごめん!」
「プッ」

荒北くんは可笑しそうに笑って、食器の間をゴチャゴチャ探す私の手をほっとけばいいヨと言って握った。

「彼氏でもできたのォ」
「別にいないけど…。高校の頃はお化粧なんてしてなかったし、そのせいじゃない?」

やんわりとその細く骨張った手を解こうとすると、なぜか荒北くんは少しムッとした顔をして、離すまいとより力を入れられた。

「荒北くんまだ酔ってるでしょ?もっと水飲んだ方がいいんじゃない?もらってこようか?」
「ウッセ。酔ってでもないとこんなことできないんだヨ」

思わず荒北くんの顔を見つめると、気まずそうに視線を外して、見んなアホと弱々しい罵声を浴びせられた。

「でも、」
「だァから黙ってろっつってンの!チューすんぞ!!」

ヒュウ!と向かいの席で口笛がひとつ。

「ちょ、荒北くん、そういう冗談は、」
「冗談なんかじゃないぞ。ほれ見ろ、さっき荒北に噛まれた痕だ」

3人でキツそうに座っている尽八がテーブルの下から腕を持ち上げる。
そこにはくっきりと赤く滲んだ歯型がひとつ。

「痛そう…」
「痛いってもんじゃない。食い千切られるかと思った」

尽八に同情しつつ、完全に目が座っちゃっている荒北くんに向き直る。

「えー……じゃあ、痛いのはやめてね」
「……え…マジで……?」
「マジでって、痛いのは嫌でしょうそりゃあ」
「そ、そそそうだよナ」

荒北くんは酒のせいか呂律がまともに回っておらず、こっから先の会話は全部たどたどしかったのを覚えている。
両肩にそっと手を置かれ、真正面から見る荒北くんはなんとなく、高校時代の彼より大人びて見えた。

「どっ、どこなら、イイの」
「さすがに口はね、恋人じゃないしね。それ以外なら」

荒北くんはコクコクと頷いて、そうして生唾をゴクリと飲み込んだ。
上下する喉仏がくっきりと確認できて彼の華奢な体格を改めて実感する。

「じゃあ、す、するヨ」

その言葉に従って瞼を下ろす。
目を閉じて分かった、肩の上の荒北くんの手がプルプルと震えていることを。

ちゅ、と優しく触れたのは左の頬だった。
恋人でもない人にキスなんてされて不思議な気分だ。
もうおしまいだろうと瞼をそっと持ち上げると同時に、ピリッと鼻筋に痛みを感じる。

「いっ」
「こら荒北!」

尽八が身を乗り出してテーブル越しに荒北くんの頭をスパンと小気味よく叩いた。
思わず鼻を摩ると、新開くんが痕はついてないぜと一言。

「荒北くーん、痛くしない約束」

恨めしく彼をじと目で訴えると、彼はあまり悪びれる様子もなく「可愛かったからつい」と宣った。

「なにその理由」
「オレがさァ、名前チャンのことスキっつったら、今度も信じてくれる?」
「まだ酔ってるの?」

なんて、荒北くんの目を、頬を見れば答えなんて分かっているけれど。
返す言葉が見つからなくて、逃げたかった。
好きとはっきり言われたわけではないのに、こちらだけ白黒付けた答えを出さなくてはいけないなんて卑怯ではないだろうか。

「荒北は酔ってでもしないと本音を言えない男だ、分かってやってくれ」

尽八の横槍に、納得したくなくて私は口をへの字に曲げる。

「スキだから、信じてヨ」

酔っ払いのくせに、今度はしっかりとした言葉で囁かれた。

「信じてはあげる」
「じゃあ、」
「けど、それとこれとは話は別ね」

荒北くんはガッツポーズを作りかけた拳をゆるゆると解いてガックリと肩を落とし、そうして「じゃあ友達からオネガイシマス…」と弱々しく呟いた。

「荒北くん、今度2人でお酒飲みに行こう。ね」

荒北くんの薄い肩をポンと叩くと「ソレ、デートだって思っとくからネ」と恨めしそうに言われ、私は曖昧に微笑む他なかった。
自分のことは棚に上げておきながら、私も酔ってないと恥ずかしくって言えないなんて、荒北くんが知ったら怒鳴られるだろうか。

だから、今はまだ勘弁してほしい。




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