※凛がゲイという特殊設定です。苦手な方はご注意ください。 大教室の後ろの扉を引けば、いつものように早口な女教授が訳も分からぬ専門単語を並べ講義をしている。 椅子と壁の間の狭い道をペコペコしながら進み、お決まりの席、その横に名前の背中が見えるのを確認して凛はそこへ真っ直ぐ向かった。 通路沿いの席、そこに静かに腰掛ければ気付いた名前は少し眉を顰めて小さな声で文句を言う。 「アンタ、1限サボって何してたの」 「あ?寝坊だよ、寝坊」 さらりと言ってのける凛に名前はより皺を深く刻んだ。 「出欠取ったんだからね」 「うわ、マジかよ。紙出してくれたか?」 「…出したよ」 紙というのは出席を示すために名前や学籍番号を書く小さな紙を言う。 一人一枚しか貰えないため、友人の分を書いて提出することは至難の技なのだ。 「さっすが、ありがとな」 「あれ、バレないようにするの大変なんだからね。今度寝坊するようならモニコするよ」 「今日はたまたまだよ、昨日飲み過ぎたんだって」 凛は悪びれもなくそう言う。 反対に名前は心配そうに眉を下げて凛のその端整な顔を覗き込んだ。 「…なんだよ」 「ゲイバー?」 「…………悪ぃか」 ふいっと外方を向いて読みもしない参考書と書きもしないノートと筆箱を用意し出す。 その誤魔化すような態度に名前はより一層不安を募らせ、凛の肩に手を置いた。 「ねぇ、大丈夫なの?凛まだハタチだよ?危なくない?」 「…危ないってなんだよ」 「ほら、凛綺麗だし。変な男の人に変なコトされてない?」 「……その変な男に変なコトされてぇ、つったらどうする?」 ニヤリと鋭い鮫の牙のような歯を見せて凛は笑った。 しかし、瞳だけは鈍い光を放ちこちらを見ようとはしなかった。 凛はゲイだ。 名前はいつから凛がそうなのか、大学生になるまでどのように過ごしてきたのかを知らない。 過去を詮索するようなことを凛が好まないのは百も承知だからである。 ただ大学で2年間の付き合いを経て知っているのは、凛が度々ゲイバーやそういう出会いの場に行き、男を作ってはすぐに別れているという事実だ。 凛のプライドからか、大学内ではそういう関係を持つ人はおらず、それ以前に男友達でさえ作っていない。 顔が綺麗なため女の子にモテるのだがそれも鬱陶しいらしく、関わるのは名前ただ一人である。 「あのね、凛は自分を安売りしすぎ。求めてくれるなら誰でもいいって考えいい加減捨てなよ。なんかあってからじゃ遅いんだからね」 「へーへー。ご忠告どうも」 うざい、と言われなくともそう言われているのは付き合いの長い名前でなくとも明白だ。 名前はそれ以上言及することも叶わず、机に伏せて居眠りを始める凛の隣で小さく溜息を吐いた。 名前は欠伸を噛み堪えてルーズリーフにシャーペンを走らせる。 1限の始まりのチャイムはとっくに鳴ったが、隣の席は昨日と同様に空席のままだった。 また凛は夜の繁華街をふらつき、声を掛けてきた男に闇雲に付いて行っているのだろうか。 名前はひとつ考察をしていた。 凛は愛されたいだけなのではないかと。 捨てられた野良猫のように、凛は臆病な自分を虚勢を張ることで隠しているのではないかと。 いつか本当に好きになれる人と巡り会うために探し回っているのではないか。 そんな健気で儚い存在の凛に名前はいつからか惹かれていた。 男を好きになることに女であることがハンデになるなんて思ってもみなかったが、名前は割り切ることに慣れ始めていた。 大学内で凛の居場所は私の隣だけだというのならそれを甘受し、凛の望む存在となろう。 それが凛の幸せだというのなら。 キィと椅子を引く音がして顔を上げればいつものように凛が隣に座った。 「凛、また寝坊?」 サラサラの赤毛が横顔を隠して顔が見えない。 名前は凛の腕を少し引き目を合わせようとして、そうして息を呑んだ。 「それ…っ」 「……」 俯いたってもう遅い。 凛の整った顔に、頬に、唇の端に痛々しい傷があることに名前は目敏く気付いた。 「外、行こ」 凛を通路に押し出せばゆるゆると立ち上がり、名前はそれに続いて通路で立ち尽くす凛の垂れた腕を掴んで後ろの扉から教室を抜け出した。 ノートを写さなければ理解できない授業であったが、そんなことどうだっていい。 授業中なだけあって校舎の外には生徒が疎らに居る程度だ。 名前は意外と素直に付いてくる凛を少し不安に思いながらよく日の当たる広場のベンチに凛を座らせた。 凛は長い髪を頬に垂らして下を向いたまま微動だにしない。 名前はスカートを履いていることなど気にも留めず凛の前にしゃがみ込み、まるで幼稚園児にするみたいに目線を合わせて言葉を発した。 「凛、その傷どうしたの?」 「……男に殴られた」 答えてくれないのを覚悟で聞いたが、凛は唇を震わせる程度に開いて名前の問いに答えた。 「殴られたって…喧嘩でもしたの?」 「……そういうプレイなんだと」 「は?なに、それ…」 名前は奥歯を噛み締めた。 その男を殴ってやりたい、凛の心までも傷つけたその最低な男を。 しかしこの行き場のない怒りをどうすることもできず、両の手は爪が掌に食い込むほどぐっと握るしかない。 「…辛かったでしょう?無理して学校来なくて良かったのに…」 怒りで震えそうになる声を抑えて名前は努めて穏やかに言う。 「……名前に迷惑掛けたくなかったし」 「そんなの、いいのに、全然」 「…………それに、」 凛が少し顔を上げたため名前も釣られて上を向いた。 横の髪がさらりと捌けて、赤黒く変色した傷跡が太陽の下くっきりと晒される。 「名前の顔見ると安心するんだ、俺」 凛はその傷とは不釣り合いな綺麗な表情で笑った。 名前はそれがどういう意味なのか上手く理解する前に、反射的に凛の手を強く握っていた。 思わず凛が顔を顰めるほどに。 「、おい」 「凛、私と付き合おう」 「は、」 「大切にするから。凛のことたくさん愛すから。いつも凛のこと考えてるから。だからお願い、私と付き合って」 「ちょ、名前…」 凛は心や傷の痛みなどすっかり忘れてただただ名前の突然の告白に狼狽えていた。 終いに名前はその双眼からぽろぽろと涙を溢れさせる始末。 「凛が、心配でならないよ」 本格的に泣き崩れる名前に、凛も泣きたくなるほど胸を締め付けられた。 大学に来るのは名前が居るからだと言っても過言ではない。 いつだって凛は名前を付き合わせてしまっている自覚があった。 俺のせいで名前は俺以外の友人と一緒に居られない。 俺が一緒に居るせいで彼氏なんて作れやしない。 俺のせいで。 「凛、大好きだよ…」 凛は名前を抱き締めた。 腕を背中に回し、女の子特有の小さな肩や柔な身体があまりにも脆く壊してしまいそうで少し怖気付く。 「…俺、男が好きだけど、女なんて無理だって思ってたけど、…名前なら好きになれる気がする」 好きになりたい。 凛はそう願いを込めて名前の身体を引き寄せ、胸に閉じ込めた。 じんわりと温かくなる心は嘘じゃなかった。 |