白い砂、青い水。 ザブンと鳴る波の音に乗せて海水浴を楽しむ若い男女の声が混じる。 「あっつ…」 ビーチサンダル越しに熱せられた砂の粒の熱さに眉を顰める。 歩く度に足が砂に埋まり、少なくとも指先はその熱を持った砂に直に触れることになるのだから堪ったものじゃない。 「パラソル借りといたから、それでマシになんだろ」 「え、ほんと?」 前を歩く凛に驚きの声を上げれば、振り返って少し誇らしそうに笑った。 「気が利くじゃん」 「お前暑いの嫌だっつってたろ」 俺から誘ったしな、と凛は続けて言った。 凛が海に行きたいと言い出したのは前々からのことである。 泳ぎたいのならわざわざ海なんかに行かなくても毎日水泳部員として室内プールで悠々と泳いでいるだろう、と中々乗り気にならなかったのは私があまり海が好きではないから。 日焼けも、湯船に浸かるとヒリヒリと肌が痛むのも、髪がパサパサになるのもどうしても好きにはなれない。 ベッドに潜ると波のグワングワン揺れる感覚が眠りにつかせてくれないのも海が好きじゃない理由のひとつだ。 それでも、凛が行きたい行きたい言うものだから我が儘な彼氏様に付き合って来たというわけ。 なんて優しいんだろう。 「で、水着着て来たんだろうな?」 「着てるよ、あんだけ言われたら忘れないって」 「っしゃ!」 凛は拳をグッと握って腰の横で小さくガッツポーズをした。 呆れた、どうやら彼は私の水着姿が見たかったらしい。 「変態」 「っうるせ!」 私がボソッと悪態をつけば凛はその眉を釣り上げるものの、すぐに嬉しそうにへへっと笑った。 そうあからさまに期待されると披露するのも中々躊躇われるものがある。 正直に言えば凛に海に行きたいと初めて言われてから内緒でダイエットをした。 この持て余したお腹の肉を蓄えたままビキニを着る勇気なんて私にはない。 着たくなんてないけど着るからには似合わないとね、別に凛にどうこう言われるのを気にしているんじゃなくて、そう、着られる水着のために! 可愛い水着を作ったデザイナーさんのために! なんて自分でも訳のわからない理由をつけてプライドを守っていたけれど、結局は凛に似合うねとか可愛いねとか言われたくて頑張っただけ。 凛が借りておいてくれたパラソルの下にレジャーシートを敷き、荷物をそこにドスンと置く。 休憩休憩、と冷凍庫で固めておいたペットボトルの烏龍茶を喉を鳴らして飲んでいる隣で凛は着ていたTシャツとハーパンを躊躇いなく脱ぎ始めた。 「先、浮輪膨らましとくぞ」 荷物の中から持参した大きめの浮輪を取り出し、空気を入れる突起に口をつけて膨らましていく。 私はその姿をペットボトルを握ったまま黙って見ていた。 いいや、見とれていた。 「…あ?なんだよ」 ふにゃふにゃの浮輪から顔を上げて凛は訝しげにこちらを見た。 「…や、そういえば私、凛の水着姿ほとんど見たことなかった、って、思って」 「なに、惚れ直した?」 ギザギザの歯を見せてニッと笑いふざけたように言う凛に、私は真面目に頷いた。 すると、凛は驚いたように目を丸くしてカチンと固まった。 「…あの、身体、かっこいいのね」 言って、俯く。 引き締まった腕や胸、割れた腹筋。 ムキムキと表現するほどのそれではないけれど、水泳で鍛えたのであろう程よい筋肉の付き方が美しく、思わず目を奪われるものだった。 「…早くお前も脱げ」 頬を赤く染めた凛は、照れているのかいつもの威勢はどこへやら小さな声で投げ掛けるだけだった。 浮輪に空気を入れる作業に戻る凛を横目に、私はバックンバックン煩い心臓に手を焼きながら着ていたTシャツとショーパンをゆっくりゆっくり脱いだ。 「……アンタのあと、ほんと嫌」 様子を伺うように凛を見やれば、いつの間にかこちらを見ていた凛とバッチリ目が合って、私はつい可愛くないことを口にしてしまった。 「……」 凛は瞬きも忘れてこちらをじっと凝視している。 今年のトレンドのピンクのビビッドカラーに大花柄のビキニ。 可愛らしい、というよりは元気な印象を与えてくれるデザインだ。 店員さんのオススメでこれを買ってみたけれど、凛は可愛いと思ってくてるだろうか? もっとフリフリした女の子らしいデザインの方が好き? 「…ねえ、なんかアクションしてよ」 あまりにもだんまりで見つめられるものだから羞恥心と恐怖心に耐え切れず声を掛けた。 凛は瞳を泳がせて、それから口元を手で覆って外方を見ながら呟いた。 「えろい」 「はあっ!?」 ちょっと、えろいとはどういうことだ。 可愛いねとか似合ってるねとかもっと褒める言葉があっただろうになんだその言葉のチョイスは。 喜んでいいのかなんなのか、一体私はどんな反応をしてあげればいいんだ。 「なんか他にあるでしょ、えろいって何よ!」 「や、胸デカくなったなーと思って」 「それまさか小学生の頃と比較してるの?バカか!そりゃおっきくもなるわ!」 「うっせーな!胸寄せんな!」 白熱し過ぎて凛に詰め寄っていた私は凛のその言葉でふと我に返り凛から一歩引いた。 凛は顔を真っ赤にしながらチッと舌打ちをしてまた浮輪を膨らませる作業に戻る。 (コイツ、可愛いな) オーストラリアで胸の大きなお姉さんの水着姿なんて見慣れてるはずなのに。 こんな日本人の平均的な胸にドギマギするなんて、マセたように見えて中身はあの頃と変わらない松岡凛のままだ。 凛に怒られるからにやける頬はそっと隠して鞄の中に仕舞っておいた日焼け止めクリームを取り出し手の甲に出す。 ケチらずなるべくたっぷり掬って頬や鼻、額にまんべんなく伸ばす。 それから首周りや腕、必要ないかもしれないけど気になって脚にもその白いクリームを垂らし伸ばしていった。 紫外線を甘く見ちゃあいけない、これが私の夏の教訓である。 「ん」 ふと、凛が手をこちらに指し伸ばしてきた。 訳もわからず反射的にその手を握ると、ちげーよ!と怒鳴られてしまった。 「日焼け止め、貸せ!」 「え?ああ、はい」 凛も日焼け止めクリームを塗りたかったのね、なるほど。 納得して手渡すと、凛は蓋を外して「あっち向け」と私に指図をしてきた。 「塗ってるとこ見られたくないの?え、一体どこ塗る気なの?」 「はあ?」 会話が噛み合っていないことにイラついたのか、私と言葉のキャッチボールをすることを放棄した凛は少々乱暴に私の肩を掴んでくるりと回転させた。 そうして冷やりと背中に冷たい感覚。 「……なんだ、最初から背中に塗ってあげるよって言ってくれればいいのに」 「察しろよ、そんくらい」 凛の大きな手が肩から背中にかけてゆっくりとマッサージをするみたいにクリームを伸ばす感覚に気分がよくて瞳を閉じた。 なんだかんだ凛って優しいもんね、気付かなくてごめんね。 塗り終えると「ほらよ」と背中をパチンと叩かれて少し恨めしくもなったけれど。 「わ、冷たいっ」 「当たり前だろ」 「うるさいなぁ。感動に浸らせてよ」 浜辺の熱さとは打って変わって波音を立てる塩水は気持ちいいほどに冷たい。 ザブザブと押し寄せる波に抗って沖の方に進んでいく。 凛が一生懸命に膨らましてくれた浮輪は水が私の胸辺りに到達した時に身体をくぐらせ、引っ張ってとお願いすれば凛は仕方ねーなと言って浮輪に繋がっている紐を引っ張ってくれた。 快適な浮輪の旅をしていれば、案内人の凛は黙々と沖に向かって歩を進め、気付けば他の海水浴客は遠くに見える。 「結構深いところまで来たね。凛、水どれくらいの高さまで来てる?」 「さあ?足着けたら頭の先まで浸かるんじゃねえ」 「え!?そんな深いのここ!」 どうやら凛は途中から地面を蹴って進むのではなく泳いでここまで連れてきたらしい。 どうりで周りに人がいないわけだ。 「ふぅ、疲れた」 腕を浮輪に乗せて体重を掛ける凛。 そりゃあ立ち泳ぎでいたんだから疲れるわけだ。 労いの意を込めて「お疲れ様です」と頭を撫でてみたら凛は目をカッと見開いて次の瞬間にはジャボンと海の中に潜ってしまった。 「え!?ちょ、凛!?」 この広い大海原の上に一人は例え浮輪を持っていたとしても心細すぎる。 水底を見つめていると、人影が見えて勢いよく凛が水面に浮上してきた。 「ぷはっ」 「ちょっと、何してんの。置いてかないでよ」 赤髪からポタポタと滴を垂らして、凛はその濡れた前髪を後ろに掻き上げた。 その仕草に不覚にもドキッとする至極単純な私。 「……お前が変なことするから頭冷やしてきた」 「はい?」 変なこと、とは頭を撫でるという行為のことを指しているのだろうか。 訝しげに凛を見つめても視線が交わることはなく、凛は黙って水面を見ていた。 しかし髪の隙間から覗く耳が赤いのを目にして、ああこの人は照れているんだとようやく理解した。 「凛、ねえ」 「あ?」 「なんでこんな人がいないところまで連れてきたの?」 なんとなく、答えは分かっていた。 ロマンチスト、それなのに照れ屋で、カップルばかりの海に行きたいとは言っても周りのカップルみたいにはなり切れなくて。 唇をギュッと噤む凛に、私は瞳を閉じて顔を寄せた。 そうすれば優しく唇にキスが降ってくる。 「ふふっ」 素直な凛がおかしくて、思わず零してしまえば凛はムッとしたようで今度は噛み付かれるようにキスをされた。 「ちょ、りん、」 「黙ってろ」 凛の鋭い歯が舌にぶつかってピリッと痛む。 それでも、労るようにそこを甘く吸われるのだから文句は言えまい。 遠くに聞こえるはしゃぎ声は波の音にかき消され、この広大な海にまるで二人きりのようだ。 空高く昇る太陽は水面をキラキラと輝かせ、人々の肌を突き刺すようだけれど、私の肩には凛の大きな手があってその下には凛が塗ってくれた日焼け止めクリームが広がっている。 |