窓際の一番後ろ。
天井の四隅に備え付けてあるエアコンの真下で肌寒いという難はあるけれども、それ以外は比較的に快適な席だ。
定年間近のおじいちゃん先生の現代文の授業はゆっくりとしたペースで進み、私は上瞼がとろんと落ちてくるのを感じた。
昼休みを終えての5限。
腹の皮が膨らむと目の皮が弛む、というがまさにその通りだ。
この摂理に抗わず頬杖をついて眠ってしまおうか。
そう決意して開いていた電子辞書をパタンと閉じた時、窓の外の賑やかな声にふとその先のグラウンドを見下ろした。
どうやらどこかのクラスがサッカーをやっているらしい。
授業というよりも昼休みのように何やら楽しそうな声が上がっている。
微笑ましく眺めていると、元気に走り回っている男子たちの中に真琴がいることに気付いた。

(ま・こ・とー!)

なんとなく心の中で呼んでみる。
すると、真琴はピタリと足を止め、思案してからふと上を見上げた。
窓越しにパチリと目が合う。

(わっ)

ふんわり笑って手を振る彼に、まさか自分のテレパシーが届いたのかこれが愛の力なのかと緩む頬を抑えて小さく手を振り返した。

しかし、真琴が踵を返そうと私から視線を外したその瞬間に予期せぬ事態が起きた。
勢いのあるシュートボールが真琴の顔面目掛けて飛んできたのだ。

「まこっ」

私が思わず席から立ち上がると同時にサッカーボールは顔面にクリーンヒットし、そうして真琴はバタリと倒れてしまった。







授業終わりのチャイムと同時に保健室へと駆けていく。
廊下に貼ってある【廊下は走るな!】はこの際守ってなんていられない。
授業が終わり廊下に溢れてくる人を掻き分けながらなんとか一階の保健室までたどり着いた。

「失礼します!」

保健の先生の定位置である部屋の中央のデスクにはいない。
見回すと、カーテンが閉まり使用中を示しているベッドは一つだけで、私はそのカーテンをゆっくりと開けた。

「あ、名前」
「真琴…と遙くん」

案の定ベッドに上半身を持ち上げながら座る真琴と、そしてベッド脇の丸椅子に腰掛ける真琴の幼馴染みの遙くんがいた。

「大丈夫?頭打ったよね?」
「うん、軽い脳震盪だって。でももう大丈夫」

いつものほんわかした顔で微笑むものだから私はほっと胸をなで下ろした。
倒れた時は本当にびっくりしたのだから、大事がなくて良かった。

「真琴、帰れる?私送っていくよ」
「いや、俺が送っていく」

遙くんが立ち上がって傍に置いていた真琴のリュックを持ち上げてみせた。

「でも、」
「真琴に当たったボール、俺が蹴ったんだ。だから…」

私が知ってる遙くんはいつも凛としていて、こんな風に眉を下げてボソボソと話す彼は初めて見た。
きっと酷く罪悪感を感じているのだろうと感じた。
でも。

「…私も、心配だから、送っていきたいな」

遠慮がちにそう発言すると、遙くんは私をパチクリとした丸い青い目で見つめ今度は真琴に視線を向けた。
私も釣られて真琴を見遣れば、真琴はこくんと頷いて「じゃあ名前に送ってもらうね」と言ってくれた。

真琴のリュックを背負おうとすれば真琴に自分で持てるよと止められたがこれは譲れない。
けが人にこんな大きな荷物を持たせることなんてできない。

「私が持つからいーの」

そう言えば、真琴と遙くんは二人して顔を見合わせてクスッと笑った。

「なに?」
「ううん、ありがとね。ハルもありがとう」
「…悪い」
「それ、もう何回も聞いたよ。大丈夫だから」

真琴はふんわり笑って「帰ろっか」と手を差し出してくれた。
私はその差し出された大きな手を握って、そしてぐっと力を入れる。

「今日は真琴を引っ張るのは私だからね。真琴は後ろを歩いてね」
「はいはい」

また真琴と遙くんはクスクスと笑うものだから私は訝しげに首を捻った。








「暑いね、大丈夫?頭クラクラしない?」

少しでもマシであればと石畳の続く細い道は木陰で日の当たらない部分を選んで通った。
万が一倒れても支えられるように階段は必ず下を歩く。

「大丈夫だよ。そんなに重症じゃないから」
「倒れたのに油断はできないでしょ」
「んー、名前にあのシーン見られてたんだよなぁ。俺かっこ悪いね」
「かっこいいかっこ悪いじゃないよ。本当にびっくりしたんだから」
「あはは、ごめんね」
「びっくりと言えば、アレもびっくりした…」
「アレ?」

小首を傾げる真琴に、ちょっと恥ずかしくてぽそりと呟く。

「…目が、合ったじゃん」

火照った肌に指先を触れさせるとじんわりと熱い。
真琴を家まで送って自分の家に着いたらシャワーを浴びよう。
ぬるいくらいが丁度いい。
この熱い肌もベタベタする汗もきっとさっぱりするはずだ。

「俺さ、なんとなく呼ばれてる気がしたんだよね。真琴ーって」
「えっ」
「呼んだ?」
「えっと、呼ん…だ……かな?」
「なにそれ、曖昧」

おかしそうに笑う真琴に、私は誤魔化すように真琴を支えるため大きな掌をぎゅっと握り締めた。

「そこ、段差気をつけてね!」
「はぁい」

わざとらしかっただろうか。
真琴は気付いているのかいないのか、変わらずニコニコしながら私の後ろをゆっくりとしたペースで付いてきた。

「…あ、そういえばさっきも遙くんと一緒に私の顔見て笑ってたよね。どうして?」
「え、そうだった?」
「うん、絶対そう」
「…あー、名前が来るまでさ、名前の話してたんだよね二人で」
「私の?」
「そう。俺がよそ見した理由を名前と目が合ったからってハルに言ったら呆れられちゃって。それに俺が、名前なら血相変えて飛んできそうって言ったら本当にそうなるし」
「だ、だって心配だったから」
「うん。だから嬉しかったよ」

元来のたれ目の目尻を更に下げて真琴は春のお日様のように柔らかく微笑んだ。
その表情に滅法弱くて、私は照れて真一文字になる唇を隠して少し俯いた。

「…遙くんと二人でいる時も、私の話をしてくれてるんだね」
「?そりゃあ、俺の彼女だし…」
「…真琴と遙くんは幼馴染みで仲いいし、水泳の話もできるし、…今日だって私じゃなくて遙くんに送ってもらった方が…」

ふと漏らした本音を思わずつらつらとここまで話してしまった。
面倒臭いことが口をついて出してしまい、ああ言わなければよかったと自己嫌悪に陥る。
こんな、遙くんを僻んでるようなことを言ったって真琴を困らせてしまうだけだと分かっているのに。

ふと、頭の上にぽんと掌が乗っかった。
ぽんぽんと何度か軽く叩いたそれは、次第に「よしよし」と真琴の宥める声と共に頭を撫でる行為に変わった。

「ちょ、まこ、」
「名前はハルに嫉妬してるんだね」
「え!」
「あはは、可愛いなぁ。今日だって、俺が名前と一緒に帰りたかったんだよ。ハルじゃなくてね」

ぎゅうっと掌に込められた温かさに、私は素直に頷いた。

「…ごめんね、変なこと言って」
「謝らないでよ。名前に嫉妬してもらえて嬉しいよ、俺」

真っ直ぐな言葉を真琴は照れることもなくあっけからんと言うものだから、代わりに私が恥ずかしくなった。
きっと頬は赤いと思うけど、これはこの暑さのせい、きっとね。

「ここまででいいよ。ここ曲がればすぐそこだから」

背負っていたリュックを下ろして手渡せばありがとうと返事があった。
それからバイバイを言って元来た道を戻るだけだ。
しかしなんとなくその場から動きたくなかった。
180は優にある真琴を黙って見上げれば、真琴は困ったように笑って、そうして腰を少し折って私を抱き締めた。

「帰りたくないの?」
「か、帰る、…けど」
「けど?」

耳元で囁かれる穏やかな低音に、心臓の激しい鼓動が真琴にまで伝わるんじゃないかと少し恥ずかしかった。
それでも伝わったっていいかなとも思う大胆な自分もいる。

「…さよならの、キス」

蚊の鳴くような小さな声だったけれど真琴の耳にはしっかりと届いていたようで、そろりと二人して距離をとった時に見上げた真琴の頬は少し赤らんでいた。

「俺、ほんと名前に弱いなって思う」
「ええ?」
「心臓止まるかと思った」

そう苦笑混じりに言った真琴は、私に背伸びをする時間も与えずにちゅっと唇にキスをした。
その柔らかい感触を深く味わうこともなくすぐに離れた唇と絡み合う視線。

「……」
「……」
「……じゃ、じゃあ帰るね」
「あ、うん。送ってあげられなくてごめんね」
「ううん。真琴は安静にしててね。あんまり妹さんたちとはしゃいじゃダメだよ」
「俺ははしゃがないよ」
「あははっ、そう?」

名残惜しげに後ろ髪を引かれる思いでなんとか踵を返す。

「また明日ね」
「また明日。ありがとうね」

私が見えなくなるまでその角を曲がらずにずっと見送ってくれた真琴。
見られている緊張感を細い路地に入ったところでようやく解放する。

(暑い…)

見上げれば太陽は大分高いところでカンカンに照りつけている。
首筋や額の汗をハンカチで拭って、私はまた暑いと心の中で愚痴った。
もういっそ水風呂に入りたい。
その方がもっと気持ちいい。
お風呂から上がったら昨日買ったシャーベットアイスを食べよう。
レモン味の頭がキンと痛くなるやつ。

けれど、あと少しの間だけは、真琴がくれたこの熱の余韻に浸っていたい。




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