台風のあとの晴れ模様 後悔というものは、後悔してからようやく後悔したと気付くもので、つまり今の私には成す術がない。 昨日、名前に無理矢理キスをしてしまった。 街を歩いていた時、偶然名前が他の男と一緒にいるのを見かけた。 嫉妬心が沸いたのは確かだが、彼女のプライベートな交友関係にまで口を出すのは例え彼氏である私でも許されることではない。 それは理解していたから、少しだけ彼女を見つめてからその場を去ろうと思っていた。 しかし、私が次に見た光景は黙って見ていられるものではなかった。 男が、名前の唇に触れたのだ。 私だって触れたことのない、あの柔らかそうな唇に、なんの躊躇いもなく、易々と。 私は一気に頭に血が上り、冷静になった時には彼女を人気の少ない細い路地へと連れ出した後だった。 不安そうにする彼女に申し訳なく思った。 私の醜い感情を、愛する彼女に曝け出してしまった。 嫉妬心と愛情と悲しみと…。 ふと、名前の震える唇に目が止まった。 あの男が、ここに、触れた。 私も無意識に彼女の唇に指を重ねた。 「や、」 そして、払い除けられた。 その事実が私にはあまりにもショックで、 (あの男はいいのに、私はダメなんですかっ!?) 私は無理矢理彼女にキスをした。 勢いよく重ねた唇は、歯までもカチリとぶつかり少し痛かった。 涙を流して走り出す名前。 心はもっと痛かった…。 「トーキヤー、具合大丈夫ー?」 ドタバタと騒音を鳴らして、同室の男が学校から帰ってきた。 「……大丈夫です」 「ほんとに?ご飯ちゃんと食べた?薬飲んだ?」 「…大丈夫ですから放っといて下さい」 別に私は風邪を引いたわけではない。 言うなれば恋の病とでも言おうか。 毎日名前とは登下校を一緒にしていて、それが気まずくて学校を休むなどなんて卑怯者なのだろうと我ながら思う。 今日は学校を休みます、とだけ名前にメールを送り、私はベッドから抜け出す気力もなく、日中はそのままベッドの上で過ごしてしまった。 まあ、その事実を音也は知る由もなく、体調不良で学校を休んでいるのだと思っているのだろう。 「ほんとにほんとに大丈夫?無理してない?」 「大丈夫ですよ、しつこいですね」 まるで大型犬のように私の周りをくるくる回り、様子を窺う音也。 ここまで人の心配をできるのは彼の長所ではあるが、今の私にとっては煩わしい短所でしかない。 「じゃあ、お見舞いの人部屋に入れても平気?」 「見舞い ?どなたで、」 私の問い掛けに答えもせず、勝手に部屋に招き入れたかと思ったら、私は何よりその見舞いの人物にびっくりした。 「お邪魔しまーす」 「……名前」 トキヤから学校を休むとメールが来た。 健康第一、な彼がこのタイミングで病気にでもかかるだろうか。 否、これは私に会いたくないというサインだろう。 付き合って以来彼とこういった揉め事を起こしたことがなく、私にはどういった解決策をとればいいのか分からない。 時間が解決してくれるものなのか、彼が私に会いたいと思うまで待つべきなのか。 でも私はいてもたってもいられず、学校帰りにそのままトキヤの部屋に寄ることにした。 念のためにフルーツゼリーや風邪薬を持参して。 「あれ、ここの部屋に用?」 トキヤの部屋の前で心の準備をしていたら、赤髪の男の子がひょいとやって来た。 「あ、はい」 こくんと頷くと、その男の子はへえーと私の頭の先から爪先まで無遠慮に見た後、にっこり笑った。 「そっかあ、君がね」 「?」 お見舞いでしょ?とレジ袋を指差すので、そうだと答えるとその子は嬉しそうにしてぺらぺらとお話をしてくれた。 あのトキヤがずっとベッドから出てこないこと、毎朝欠かさずやっているストレッチをやらなかったこと、朝御飯を作ってくれなかったこと、いってらっしゃいは言ってくれたこと。 その男の子が語るトキヤは、私が知っているトキヤとは少し違っていて、それを知れるのが嬉しくもあり、何故だか悔しかった。 一通り話し終えた彼は、じゃあ入ろっかと私の心の準備なく扉を開け、中にずかずかと入っていった。 立ち尽くす私。 暫くして、手招きをして部屋に招かれ、お邪魔しまーすと恐る恐る声を掛けて足を踏み入れた。 ベッドの上で布団にくるまれながらこっちをびっくりした様子で見つめるトキヤとばっちり目が合った。 「具合、大丈夫?薬とゼリー持ってきたよ」 レジ袋を掲げて見せると、トキヤはもぞもぞと布団から頭を出した。 紺色の細い髪がひどく外はねをしていて、私は少し笑った。 そうしたら、トキヤは顔を赤くして、寝癖がつきやすいんですと小さく答えた。 彼の知らなかった部分を知れて、私は無償に嬉しかった。 もっと知りたいと思った。 「俺、友達の部屋行ってくるね。どうぞごゆっくり!俺暫く帰って来ないから!」 空気を呼んだつもりなのか、にやにやと笑った同室の男の子はギターとポータブルゲームを持って早々に立ち去ってしまった。 なんとなく気まずい空気になるこの空間。 「熱とか、あるの?」 「あ、いえ、…大丈夫です」 「…」 「…」 うーん、気まずい。 時折トキヤも首筋をかいてみたり、指先を弄んだり、気まずいこの場に耐えられなさそうなのが見て分かった。 よし、私から口火を切ろう。 そう決意して口を開こうとした時だった。 「昨日はすみませんでした」 トキヤの突然の謝罪に私は思わず彼を見つめた。 ぱっちり合った視線に、トキヤの方が私より先に視線を逸らした。 「…あの、貴方の、嫌がることを、してしまいまして…」 「嫌がること?」 「その、…唇に、触れたり……」 キスをしたり。 続きの言葉は聞かなくても分かった。 パジャマ姿で髪を撥ねさせ、うなだれるように俯いたトキヤは私の知っているトキヤと随分違って正直驚いた。 けれど、昨日も今日も、私が彼の知らない一面を見つける度私はひどく嬉しいのだ。 だってね、昨日、トキヤに腕を引かれてレンの元から連れられた時、怒ったトキヤが怖くもあり、私はそれ程に愛されてることを実感して嬉しかったんだよ? 「嫌じゃないよ」 彼の絡まった指と指を解くように、私も自らの指を絡めた。 「トキヤに、唇触られるのも、キスされるのも」 「、でも、あの時私の手を払って、それに、…泣いていたじゃないですか」 「それは、唇カッサカサで恥ずかしかったから!泣いたのは、ちょっとびっくりしただけ…」 だって、あのトキヤがまさかあのタイミングでキスをしてくるなんて全く予想してなかったんだもん。 「…では、貴方は私を嫌いになったり、していませんか…?」 「ないない!好きだよ!」 項垂れた頭を少し持ち上げて、不安げに聞いてくるもんだから、私の姉御肌気質が働いたのか、すんごい大きな声でトキヤへの愛を語ってしまった。 思わず握り締めていた拳に気づいて、はっとしてぷらぷらと手を振った。 そんな私に、トキヤはふっと笑って、ふわりと私を抱き締めた。 (わっ) 初めて、抱き締められた。 トキヤの胸は広くて固くて温かかった。 そして、なんだかいい匂いがした。 「私も、名前が大好きです」 耳元で甘く囁かれたセリフに、胸がぎゅうっと締め付けられる。 (何この少女漫画展開…!) 今まで味わったことのないこの空気に私の心臓はバックンバックン煩い。 あああ口から内蔵出そう。 「あの、」 「えっ?うん、何かな?」 「……キス、してもいいですか?」 「えっ、な、なんで!?」 「なんでって……貴方としたいからですよ」 「そ、そうだよねっははは、」 ダメ私死ぬかも!! 元からトキヤの歌声に弱いのに、耳元でそうやって囁かれたら…。 両頬に掌を当てられ、彼を見上げるように顔を持ち上げられた。 恥ずかしいのに目を逸らせなくて、長いまつ毛に覆われた瞳を見つめる他ない。 すごく恥ずかしいのに、トキヤの瞳に映っているのは私だけで、それがすごく嬉しかった。 「目を、閉じてください」 言われるままに瞼をぎゅっとつむる。 なんとなく近付いてくる気配がして、無意識に握り締めた拳は汗でべたべた。 緊張しすぎて息がうまくできない。 鼻息荒くなってるかも。 というか、いつもどうやって息してる? 頭の中がグルグルしてきたら、唇にゆっくりと柔らかい感触があった。 数秒触れ合って、それはすぐに離れる。 「大丈夫、ですか?」 「だ、いじょぶ」 実際あんまり大丈夫じゃないけど、キスひとつでこんなにドキドキしてるなんて年上として恥ずかしいから黙っておこう。 なんて余裕ぶってみても、トキヤにはお見通しだったようで。 「段々慣れますよ」 名前を呼ぶところから手を繋ぐこと、最初はあんなにウブだったのに、いつの間にか立場は逆転。 ちょっと癪だけど、うん、それもまあいいかもね。 頬を撫でる彼の手に全てを委ねて、私はゆっくり目をつむるのだった。 |