秋の台風到来


生真面目なトキヤは階段を一段ずつ慎重にゆっくりゆっくり上る性格だ。
それは勉強面でもそうだし、恋愛面でも明確に表れていた。
名前呼び、その後は手を繋ぐこと。
そう来たらその次は…。

「で、なんで香水なんか欲しいんだい?」

授業と授業の間の休み時間、隣の席のレンに体を向けてお願いしますと頭を下げたのが始まり。

「え?ほら、いい匂いを纏いたいからだよ」
「いい匂いねぇ…」

顎に手を掛けて少し上を仰いだレンは何か思考しているようだ。
こんなキザっぽいポーズも様になるんだからレンはやっぱり格好いい。
噂ではレンのファンクラブなんかもあるらしいし、学年問わず告白されてるし、モテモテなんだと実感する。

なんて物思いに耽っていたら、ふとレンの手が私の顔の方に伸びてきた。
驚いて思わず目を瞑る。

「すん、」
「!」

伸びた手は私の髪を一房掬い、レンはその綺麗な顔をその髪に近付けた。

「ちょ、え、何っ」

その行動の恥ずかしさに私が狼狽えると、レンはクスクス笑いながら定位置に戻った。
そしてウインクをひとつ。

「十分いい香りがするよ?」
「ば、馬鹿かアンタは!!!」

汗かいてたらどうするの!
体育の授業午後からでほんとよかった!

「俺はそのままの香りがいいと思うけどね。どうしても彼氏に香水の香りを覚えてもらいたいの?」
「いいの!とにかく買うの!ついてきてねレン!」
「はいはい、仰せのままに」

そこで次の授業のチャイムが鳴り、詳しい日時はまた次の休み時間で打ち合わせた。







「やあレディ、今日も可愛いね」
「そういうレンは…なんというか、大人っぽいね」
「おや、レディは俺に何かをねだりたいのかな?」
「いやいやお世辞じゃなくて!…ほんとに」
「はは、君に褒められると照れるな」

本当に照れたような顔で笑ったレンは、なんだか学校にいるいつものレンとは違うように感じた。
私服なんてなかなか見る機会がないから、レンの首元がざっくり開いたロンTとかジャケットとか、細身のレンだから穿けるタイトジーンズとかブーツとか、レンの大人っぽい雰囲気に少し当てられそうだ。
いや、別にレンに恋しそうとかそういうことじゃないのよ?
トキヤが一番よ?
なんて誰にでもなく弁解してみる。

「それじゃあ行こうか。俺がよく行く香水の店に連れていくよ」
「うん!お願いします師匠!」

うん、レンを選んでよかった。
ナイス自分、ナイス人選。
香水をつけているって条件で思い付く人がレンと翔ちゃんだったけど、翔ちゃんはなんだかトキヤに突っ掛かってるみたいだし、やっぱりレンを選んで正解だ。

「どんな香りがいい?」
「どんな?んー、いい匂いならなんでも」
「それ選ぶ気あるの?」
「あるある!超ある!」
「もっと具体的じゃないと選べないよ」
「でも私、何がいいとかオススメだとか分からないからさあ」

そういうの興味ゼロだったので。
そう付け加えると、レンは仕方ないなあと笑って言った。

「俺が君に似合う香りを探してあげるよ」
「ほんと?やった!」

そうこうしてる内にレンの行きつけの香水ショップに着いたようで、でっかいシャンデリアがぶら下がった広い店内に足を踏み入れた。
その時私は自分の間違いにようやく気付いたのだった。
金持ちレンの金銭感覚と庶民の私の金銭感覚は天と地ほどの差があると。

翔ちゃんカムバーック!!







「これなんかどうだい?」
「すん…うーん、さっきの方が好きかも」
「じゃあこれかこれかな?」

香水専門店だけあり品数は無限にあった。
その中で、女性向け、若い人向け、と絞っていき、長時間悩んでようやく二つに絞りきれたところだ。

「うん。どっちがいいかなあ」
「俺はどちらも君に似合うと思うよ」
「んー…」

バニラとハチミツ風味を混ぜ合わせた香水と、ローズやジャスミンの香りを合わせた香水。
トキヤはどっちが好きかなあ…?

「……俺はロー「あ!」

付き合って間もない頃、トキヤがダイエットをしてるって聞いた時に話していた台詞を思い出す。

『私、甘い物が好きなのですが、どうにも太りやすい体質らしくて、食べるのを控えているんです』

「レン、私バニラの方にするね!」

キラキラ輝く小瓶を手に取りそれをレンに掲げた。
悩んだ末ようやく決断できたことが嬉しくて顔を綻ばせていたら、その反対にレンはちょっと悲しそうな顔をして眉を下げたまま微笑んだ。

「無意識とは時に残酷だ」
「?」
「いや、なんでもないよ」

レンは私にもう一度微笑みかけたあと、私の手の中にあったその小瓶をひょいと奪った。
そのままレジに足を進める。

「ちょ、レンっ」
「せめて君にプレゼントさせて欲しいな」
「え、いいよ、高いし!」
「最初で最後、俺に名前を美しくさせる役目を頂戴」

パチンとウインクをひとつ残し、レンはそのままレジへと向かってしまった。
引き留めることも可能だったけれど、レンの瞳がそうさせてくれなかった。
すごく、悲しい色をしていたから…。







「今日はほんとにありがとう」
「こちらこそ、レディとデートができて楽しかったよ」
「デ、デートって…」
「おや、そうじゃないのかい?」

自信満々にそう言ったレンはいつもみたいに笑った。
香水ショップでのレンは気掛かりだったけれど、その後のカフェやアクセサリー店では相変わらずのレンだったから私は少しほっとした。

「じゃあね、レン」
「ああ、気を付けて。…こら、唇が乾燥しているじゃないか」

手を上げて踵を返そうとしたら、レンに呼び止められてしまった。

「唇?」
「ほら、ちゃんとリップクリーム塗ってる?カサカサしてるよ」

レンの長くて細い指が伸びてきて、唇にちょんと触れた。
確かにこの寒くなり始めた時期になってもあまりケアをしていなかったように思う。

「あはは、あんまり…」
「こら、ダメだろ?彼氏くんのためにも、潤いのある唇にしてなさい」

レンが困ったように笑った時だった。

「名前っ」

聞き慣れた声で名前を呼ばれたと思ったら、後ろから肩をグイッと引き寄せられた。

「ト、キヤ?」

振り返り、見えたトキヤは心底怖い顔をしていた。

「行きますよ」

いつもより低い声でそう言い放ち、彼は私の手をきつく握ってそのまま引いて歩いた。

「え、ちょ、」
「じゃあね、レディ」

ひらひらと手を振るレンを横目に、私はトキヤの横顔を見上げた。
いつもクールで澄ました顔をしてはいるけど、ここまで眉に皺を寄せて怒った顔をしているトキヤを見るのは初めてだった。

握られた手が痛いくらい。
普段なら歩幅を合わせて歩いてくれるのだけど、今はトキヤの長い足に小走りでついていくのがやっとだ。
人混みを抜けて段々と裏道に進む。
何も言ってくれないトキヤに、私は少し恐怖を感じた。

細い路地を曲がったところで、トキヤは足をぴたりと止めた。
トキヤの背中に額をとんとぶつける。

「トキヤ…」

掌はぎゅっと握り締められたまま、トキヤは私を見下ろした。
怒っているような、泣きそうな、辛そうな顔をしていた。

「…あの人、どなたですか?」

発された言葉は弱々しく、震えていた。

「…クラスの友達だよ」
「随分と親しそうでしたね」
「そう、かな…?」
「ええ」

彼の空いた左手が私の唇に触れた。

「や、」

私は思わずその手を払い除けてしまった。
レンから唇が乾燥していると指摘を受けたことを思い出し、恥ずかしくなっての行動だった。

「っ」

しかしトキヤには、それを拒絶と受け取らせてしまった。
切れ長の目が大きく見開かれる。

「ごめ、…っん」

謝ろうと口を開いた瞬間。
私の唇は謝罪の言葉を紡ぐことができなくなった。
彼の、トキヤの唇が私の唇に重ねられた。

「ん、んん」

一瞬だったかもしれない。
けれど、私にとっては長い時間だった。

唇が離れた瞬間、私はその場から駆け出していた。
どうしてか、瞳から涙が溢れていた。

トキヤと、キスしちゃった…。