季節外れの湿った空気 「恋人になってから、どれくらいで手を繋ぐもんかな?」 何気なく声を掛けたつもりだったのに、問い掛けられた翔ちゃんはというとガバッとすごい勢いでこちらを見てきた。 「………え、なんでそんなこと聞くんすか?」 構えていたバイオリンをゆるゆると下ろして、翔ちゃんはこちらの様子を慎重に伺っているようだった。 「んー世間一般の恋人たちはどうなのかなって思って」 「…え、え?あの、それって、まさか…」 「まさか?」 「……名前先輩、彼氏いるんすか?」 「うん」 「ええええええええ」 そんなに驚くことかな。 それともあれか、私に彼氏様ができたことがそんなに意外だったか、ああん? 「翔ちゃん、殴るよ」 「えっ!?」 私がバイオリンを机の上に置いたのを本気に捉えたのか、必死にガードを守ろうとしている。 可愛いなあ。 これだから翔ちゃんイジりはやめられない。 「あはは、冗談だよ」 「…先輩オレのこと嫌いなんすか」 「ぜーんぜん!むしろ好き」 そういうと複雑そうに顔を歪める翔ちゃん。 可愛く整った顔が台無しだ。 「…話、詳しく聞かせてもらってもいいっすか?」 「お、聞いてくれる?」 相談相手を探していた私にとっては大変嬉しいお誘いだ。 翔ちゃん可愛いしイケメンだしバイオリン上手いししっかりしてるし、恋愛経験が豊富に違いない。 きっと参考になるアドバイスをしてくれるはずだ。 「みんなー、15分のきゅうけーい!」 パンパンと手を叩いてバイオリンパートの皆に合図を送る。 パラパラと音が止んで、代わりに話声が聞こえ始めた。 「で、誰なんすか相手の男」 椅子に腰掛けた翔ちゃんは、手を組んで真顔で聞いてきた。 「知らないと思うよ?一ノ瀬トキヤって子。二年生」 「はあ!?二年!?」 ガタッと椅子を鳴らして立ち上がる翔ちゃん。 こらこら、一気に注目浴びちゃったじゃん。 「翔ちゃん、しー」 「あ、悪ぃ」 人差し指を口元に立てて咎めると、翔ちゃんはしゅんとして椅子に座り直した。 なんかいちいち可愛いなこの子は。 「先輩、年下ダメだったんじゃないすか?だからオレ諦めたのに…」 「んー?ダメなんて言ったっけ?」 「言ってましたよ!年上がいいーって!」 「あはは、そうだっけね」 年上、というか、しっかりしてる人が理想ってことなんだけどね。 まあその点トキヤは当てはまってると思う……たまに抜けてるとこあるけど。 「いつから付き合ってるんすか?」 「うーんと、一ヶ月前かな」 「はっ!?一ヶ月付き合ってて手ぇ繋いだことないんすか!?」 「うん」 「うわっ、あり得ねえ!」 「だよね!!」 共感を得たことにより私は本題に入ることにした。 簡潔に述べると、トキヤと一ヶ月も付き合っているというのにまだ手すら繋いだことがないのだ。 私の名前を呼ぶのでさえ躊躇ってたくらいだから、きっと奥手で恥ずかしがりなんだと思う。 というか実際そうだ。 そうなんだけど、流石にここまでくると私って愛されてないのかななんて思っちゃう。 自分が意外と乙女思考なことに驚くが、でもこれはそう疑ってしまっても仕方ないと思う。 「どうしたらいいかなぁ?」 「どうしたらって…」 翔ちゃんが腕を組んで真剣に考えようとしてる時だった。 ガラッと扉が開いて、バーン!と何かが飛び込んできた。 「ぎゅってしたらいいと思いますよお!」 と言いながらぎゅっとされた。 あれおかしいな、私彼氏いるんだけど…。 といってもこのハグは挨拶代わりなので大して気にはしないが。 「さあ離れようね、なっちゃん」 甘い香りを漂わせて私を包み込んでいた大きな大きななっちゃんは、はーいと素直に返事をしてパッと離れた。 手には楽譜の束が抱えられている。 「ボーイング確認しにきたの?」 「はい!でも、なんだか名前ちゃんと翔ちゃんが深刻そうにお話をしていたので様子を伺っていたら、名前ちゃんが悩んでいるみたいなので解決するために来ちゃいました!」 ふわっふわの髪を揺らしてにこにこ微笑むなっちゃん。 同じ学年で弦パート仲間のなっちゃんは仲良しのお友達だ。 「なっちゃん解決できる?」 「できますよお。名前ちゃんは手を繋ぎたいんですよね?そうしたら名前ちゃんからぎゅって握れば大丈夫です!」 「それ解決になってねぇよ。そういうのって男からするもんだろ?」 と、男らしく言ってのける翔ちゃん。 「名前ちゃん可愛いからしてくれますよお」 「いや、だから一ヶ月も何もないんだってよ」 「ええ?どうしてですか?」 「いや、オレは知らねぇから」 寮が同室である翔ちゃんとなっちゃんは真剣に、微妙に話がズレながら、当事者である私を置いて討論に熱を込めていた。 けれど解決策は見つからなかったらしい。 あーあ。 「おまたせ!」 校門の前に見知った背中を見つけて声を掛ける。 彼、トキヤは読んでいたらしい文庫本をパタンと閉じて薄く微笑んだ。 「お疲れ様です。今日もバイオリンの美しい音が聴こえてきましたよ」 「ほんと?でもそれ翔ちゃんだろうなぁ」 あの子上手いから、と合わせて言うと、トキヤは少し向きになったようで眉間に皺を寄せた。 「私は名前の音を聴いたことがあります。貴方の音は優しくて暖かくて感情がうまく音に乗っているんです。ああいった音を紡げる人はなかなかいません。もっと自信を持ってください」 「あ、ああありがと……」 そんな風に褒められたことなんて初めてで、恥ずかしくってつい下を向いた。 「お、せんぱーい!」 さっきまで一緒にいた聞き慣れた声で呼ばれてパッと振り返る。 予想通り翔ちゃんだ。 隣にはなっちゃんもいる。 「あれ、二人とももう帰ったんじゃなかったの?」 「那月が教室に忘れ物したっつーから取りに戻ったんすよ。………その人が彼氏ですか」 翔ちゃんがクリクリの大きな瞳を上へ持ち上げぶっきらぼうな態度で尋ねてきた。 そうだよ、と頷くとふーんとあまり楽しくなさそうな返事が返ってくる。 翔ちゃん、今更反抗期? 「貴方がですかあ!はじめまして、四ノ宮那月っていいます。名前ちゃんのお友達です」 「…はじめまして、一ノ瀬です」 なっちゃんは相変わらずのテンションだけど、なんだか嫌な予感がしてならない。 私の野生の勘が言っている、気がする。 とにかく早くここから離れるのがベストな気が、 「一ノ瀬くんはどうして名前ちゃんと手を繋がないんですか?」 ほら、出た。 「え?」 「名前ちゃんのこと嫌いなんですか?名前ちゃんこんなに可愛いのにぎゅってしないなんて勿体ないです!名前ちゃんをぎゅってすると柔らかくて甘い匂いがして幸せな気持ちになれるんです」 なっちゃああああああああん!!! 流石にそれ本人に言っちゃう!? あと最後のは明らかに浮気宣言だからね!? 爆弾をを落としまくったなっちゃんの横で、先程まで不機嫌そうにしていた常識人翔ちゃんはにがーい顔をして深い溜め息を吐き出した。 「すみません先輩。オレら帰りますんで…」 「え!?」 ちょ、このタイミングで!? 待って待って、せめてなっちゃんだけでも置いてって! いたらその場が和みそうだからさ、事件の主犯といっても過言ではないけれども!! 「仲良しでいてくださいね、名前ちゃん!」 なっちゃんのせいで仲悪くなりそうだわ!!! という心の中のツッコミは心の中だけに響き渡り、残された私とトキヤには気まずい沈黙が訪れた。 「……」 「……」 「……あの」 トキヤが小さく声を掛けたため、私はなるべく明るく笑顔で元気に返事をしようと心がけた。 「何かな?トキヤくん!」 「……あの方、その、名前を抱き締めたんですか?」 そこ気になっちゃいますよね。 私も逆の立場ならそこ一番に聞きたいです、はい。 「あー…っと、ハグが趣味っていうか、私だけじゃなくて誰にでもするんだよ。挨拶感覚でさ。あれ、確か外国育ちだったかなー?はははは!」 「……」 「ごめんトキヤ!私が悪かった!でも浮気とかじゃなくて、ほんとに!私トキヤが好きだから!」 もう申し訳なさすぎて平謝りをする私。 なっちゃんも謝ってよねまったく! 頭を下げて磨り減ったローファーの爪先を眺めた。 「もう、いいです」 頭上から声が降ってきた。 もう、ってそれ、どういう意味? 怖くて頭を上げられなくてそのままの体勢で固まっていたら、頭の上にポンと軽い衝撃があった。 恐る恐る顔を上げると、目を細めて嬉しそうにするトキヤと目が合った。 「トキヤ、」 「好きって聞けたからもういいです」 「え?」 …そう言えば、私、さっき勢いでトキヤが好きって…。 ボボボッと赤くなったであろう頬。 うわ! 言うつもりなかったのに! しかもこんな流れで! 柄にもなく照れて、トキヤの顔が見れない。 誤魔化すように大手を振って前を歩いた。 「さあっ、帰るよ!」 「待って下さい、」 大手を振った左手を掴まれて、そのまま手を握られた。 人差し指、中指、薬指、小指と順に指を絡めて、親指で互いの甲を撫でる。 トキヤの掌が想像したよりも熱くて、なんだか嬉しくなった。 「私も名前が好きです」 隣に並んで、歩幅を合わせて、掌を重ねて、トキヤの甘い囁きに私は緩む頬をそっと隠した。 |