レッスン帰りの暗い夜道にはもう慣れた。 最初の頃は、怖くて家までの道のり中ずっとトキヤに電話を掛けて話相手になってもらっていたっけ。 今ねポストの前通った!はいはい。もうちょっとで掲示板の前通るよ!はいはい。…はい、掲示板通過!洗い物をしたいので切っていいですか?ダメ! 懐かしい。 あんな下らないことにほぼ毎日付き合ってくれていたんだからトキヤってばああ見えて優しい。 ポストの前を通り選挙ポスターの貼ってある掲示板前を通過、次の交差点を右に曲がれば俺とトキヤの住んでいる上にデカい寮が見えてくる。 けれど俺は寮の手前、この辺で唯一煌々と光を放っているコンビニへと足を進めた。 「いらっしゃいませ!」 ちらり、と極めてさり気なくレジカウンターを盗み見る。 (…いない、か) 何でもなかったように雑誌コーナーに向かい、今週発売の少年漫画誌を開いた。 家にもあるし読んだこともあるそれはお飾りのようにページを捲ることで意味を成す。 読んでいるフリ、だ。 最近俺はこのコンビニに通うことが日課となっている。 きっといつもいるあのメガネの店員さんは俺のことを漫画を読みに来てる学生とでも捉えているのだろう。 それはあくまでフリ。 俺の本当の目的はそれではない。 (…よし、もうそろそろいいかな) 正直このコンビニに足を踏み入れて数秒で俺の目的が果たされるかどうかが決まる。 それでも目的が果たされなかったからといって入店した途端踵を返すのは明らかにおかしい。 そのため今日のように読む気もない漫画雑誌をペラペラと捲っているのだ。 「店長、倉庫見ましたけど在庫ないですよ」 ピクリと反応する。 いらっしゃいませ!ありがとうございました! あの声が思い出された。 間違いない、あの子だ。 俺はレジが正面に見えるお菓子コーナーへ回り、品物を物色しているフリをしてカウンターを覗いた。 「やっぱり昨日の人が品出し間違えたんじゃないですかねぇ」 困った顔も可愛い! 俺は当てずっぽうに手にとったスナック菓子を持ってメガネの店員さんの方ではなく苗字さんが近くにいるレジへと向かった。 俺に気付いた苗字さんはパッと営業スマイルを浮かべて「いらっしゃいませ」と言う。 「126円です」 「あ、はいっ」 財布から小銭を出そうとするが開けてびっくり。 13円しか入ってない。 恐る恐る財布の広いところを左右に開けばお札が一万円札1枚。 ごめんなさい。 「あ、あのー、一万円札しかなくって…」 「ああ、大丈夫ですよ」 「すいません…」 一万円札を申し訳なさげに差し出せば彼女は面白そうに笑って「一万円お預かり致しまーす」と元気な声で言った。 レジからジャラジャラとお金を扱っているその指をじっと見つめる。 指が細い、女の子の手だ。 そうして先程自分はその苗字さんと少しだけど会話をしてしまったことを思い出してカッと身体が熱くなった。 大丈夫ですよ、って。 「9000円のお返しと、」 「!」 「874円のお返しです」 「っあ」 「あっ、ごめんなさいっ」 指の間からするりとこぼれ落ちる小銭。 チャリン、と床にぶつかる音がしてそれはカウンターの下へと消えてしまった。 「うわ、すいません!」 「あ、いいんですいいんです!私こそすみません!」 床にしゃがみ込みカウンターと床との僅かな隙間に手を突っ込もうとした俺をカウンター越しに見下ろして、慌てて首を振った。 彼女は新たな小銭を小さな手いっぱいに抱え、874円あることを確認する。 「ごめんなさい、慌ててしまい…」 「いや、俺こそちゃんと受け取れなくて…」 「今度こそ、ゆっくり」 俺の広げた掌にそうっと小銭を下ろす。 もう片方の手は落とさないようにと俺の掌に添えられた。 その手はとても温かかった。 「…はい」 「ありがとうございます」 「こちらこそ、ありがとうございます」 えへへ、と照れたように笑う彼女はいつも見てきた営業スマイルとは違っていた。 目元を細めてくしゃりと笑い、ピンクの頬には控えめにえくぼができた。 (か、かわい…) 「またお越しくださいね」 「は、はい!」 接客マニュアルに書いてあるだろう定型文を間に受けて馬鹿みたいに大きな声で返事をしてしまうくらいには俺は浮かれていた。 ここのコンビニで夜シフトで働いている苗字さん(ネームプレートを見て知った)に俺は恋をしている。 これといった理由もなく、ほとんど一目惚れ。 前にトキヤに小言を言われるのを覚悟で相談を持ちかけたら予想外に親身になって答えてくれるから驚いたものだ。 そんなわけで俺は苗字さんを思い続けてはコンビニに通い、姿を見れれば喜び、会えない時は重たい足取りで帰宅するという我ながら健気な日々を続けている。 その日は特別レッスンで外部からの有名講師がやって来たため授業が普段より大分長引いてしまった。 日頃から人気のなかった道が更に閑散としている。 早足でポストの前を通り掲示板を通過、次の交差点を右に曲がればコンビニだ。 何も考えずに角を右折した時だった。 暗闇に人影が浮かび、ヤバイと思った時にはドンと真正面から思い切りぶつかってしまった。 俺が足早だったのと相手が女の子だったためその子は派手に尻餅をついた。 「わ、ごめんなさい!」 慌てて手を差し出せば、その子はぱっと顔を上げそして俺と目を合わせて酷く驚いたような顔をした。 そして俺も同じ顔をしたと思う。 「え、苗字さん?なんで泣いて、」 「お願い、助けてください!」 差し出した掌をすごい力で握られて俺は咄嗟に悟った。 苗字さんを背中に隠し、駆け足で向かってくる足音の主がこの角を曲がったところで俺は見事な一本背負いを決めた。 「うぉらぁああ!」 「っぎゃあああ!」 真夜中の住宅街に俺の叫声と相手の悲鳴が木霊した。 アイドルになるための授業で必要性を感じていなかった柔道が初めて役に立った瞬間である。 「ストーカー…」 「はい、最近バイト帰りに後をつけられてて…」 すぐさま110番をすればそのストーカー男は現行犯で逮捕されることになった。 交番で事情聴取を受けて解放された頃にはもうすっかり日を跨いでいて、苗字さんは申し訳なさそうに俺に頭を下げた。 「すみませんでした、貴方も巻き込んでしまって…」 「いや、大丈夫!ほんと無事でよかったよ、うん!」 にっと笑って見せれば彼女は眉をハの字にしたまま力なく微笑む。 その笑顔が見たいんじゃないのに。 「家どっち?近くまで送るよ」 「そんな、大丈夫です……って言いたいところなんですけど、お言葉に甘えてもいいですか…?」 「うん、もちろん」 小刻みに震えている肩を慰めるようにポンポンと叩くと、苗字さんはほんの少しだけ安心したように張り詰めていた息を吐いた。 夜道が苦手な俺だけど、隣に苗字さんが居ることで俺が守らなきゃ!という使命感が勝って不思議と暗闇に恐怖心を抱かなかった。 むしろ隣を苗字さんが歩いていることが不謹慎にも嬉しくて、もっともっといつまでも着かなければいいのにと思ってしまう。 「…バイト、変えようかなって思うんです」 少し歩いたところで苗字さんはぽつりと呟いた。 「え?」 「やっぱり昼の方が安心かなって。近所に新しくファミレスができたからそこで働こうかなと」 「あ、うん、そうだね」 素直に頷けない俺がいた。 だって、あのコンビニで働かないということはつまり俺はもう苗字さんに会う機会がなくなるってこと。 「あ、もうすぐそこなので大丈夫です」 「…」 「ここまで送ってくれてありがとうございました。貴方は恩人です」 「ううん、無事で、よかったよ」 営業スマイルみたいな綺麗な笑顔。 本当はあのくしゃっと笑った顔が見たい。 可愛くて好きなんだ、すごく。 「…あの、これもまた私の我が儘なのでスルーしてくれて構わないんですけど」 「?」 「名前とメアド、教えてくれませんか?」 「うぇ!?」 「うぇ?」 「あ、えと、あの、うん!」 苗字さんはカバンからケータイを取り出し、少し操作をしたあとそれを俺に差し出してきた。 画面は新規アドレス帳のページだ。 俺は人様の慣れないケータイを覚束無い手つきで、でも間違えないように慎重に名前とメールアドレスと電話番号を打ち込み苗字さんに返した。 「…一十木、音也くん?」 「あ、はい!」 「あははっ、ありがとう」 「!」 笑った。 くしゃりと目を細めて、頬にえくぼを作って。 「メールするね、音也くん」 手を振って闇の中に消えていく苗字さんをずっと見送った。 動けなかった、と言っても過言ではない。 歓喜に打ち震え、喉の奥から今にも叫び声が出てきそうだ。 ブルルッとケータイが震える。 まさか、と思い届いた新着メールを開く。 そこには苗字名前ですという文と彼女らしい可愛い顔文字が添えてあった。 「っ名前ちゃん…!」 出かけた叫び声を奥歯で噛み締めて俺は取り敢えずトキヤに報告するために自宅までの道のりを猛ダッシュで帰るのだった。 |