「送ってくれてありがとう」 「いいや、俺が名前と少しでも長く居たいだけなんだ。こちらこそありがとう」 少し笑って神宮寺は握っていた私の手を名残惜しそうにゆっくり離した。 その手をぎゅっと握って、神宮寺はふと悲しそうな顔をする。 「離れるのが寂しいな」 「何言ってんの、明日学校で会えるでしょ」 「うん、そうだね」 頷きながらも眉は下がったままで、垂れ目の神宮寺にはその表情は酷く情けないものだった。 それすら愛しいと思うのだから私は彼に大分ハマってしまったのだと思う。 「おやすみの電話していいかい?」 「いつもしてるじゃん」 「うん。君の声で眠りたいな」 「はいはい。もう遅いんだから帰りな」 「うん。………名前、」 「なに?」 「…なんでもない」 またね、彼はそう言って踵を返す。 少しずつ小さくなっていく背中を、見えなくなるまで見送る。 途中何度も振り返る度、私は手を振った。 そうすると神宮寺は少し嬉しそうにするから、廊下の角を曲がって見えなくなるまで私はいつまでも部屋に入らずそこで見送るのだ。 (ふぅ) 壁に付いているタッチ式のスイッチで暗い部屋に光を灯す。 昼前に出掛けたため、開きっぱなしだったカーテンを閉めた。 同室の友人はまだ帰ってないらしい。 (なんか、なぁ) ソファに身体を預け瞼を閉じる。 脳裏に浮かぶのは先程までの神宮寺との遊園地デート。 楽しかった、すごく。 私も彼もたくさん笑った。 ジェットコースターで涙目になる彼も、私をメリーゴーランドに乗せて喜ぶ彼も、パレードに目を輝かせる彼も、観覧車で「好きだよ」と言ってくれる彼も、どれも素敵な想い出だ。 ただ、どうしてか心に燻る想いがあるのは確かだった。 シャワーを浴びて部屋に戻ると、マナーモードに設定してあるケータイがバイブレーションで震えている。 慌ててケータイを見ればディスプレイには「神宮寺レン」と表示されていた。 「もしもしっ」 『出るの遅かったね』 「シャワー浴びてたから、ごめん」 『謝らないで。君を待つドキドキも恋のスパイスさ』 「ふぅん?」 『名前はまだ寝ないの?』 「うん、もう少し起きてる」 『そっか。あんまり遅くまで起きてちゃダメだよ、せっかくの綺麗な肌が可哀相だ』 「はいはい。神宮寺も暑いからって裸で寝て風邪引かないでね」 『うん、気を付ける』 「じゃあおやすみ、神宮寺」 『…おやすみ。夢でも君に会いたいな』 なんてクサイ台詞を残して電話を切るのだろう。 (………うん) それでも私は心の中でほぼ無意識にそう返事をしていた。 愛されている実感がある。 愛している自信がある。 それなのにどうして、私たちは“キス”をしたことがないのだろう。 「…で、それを俺に相談するか?」 「こんなこっぱずかしい話、他の人にできないし」 「……まあ、だろうな」 翔は頬杖をつきながら、興味なさげに窓の外の青い空をぼんやり眺めていた。 「お前はさ、」 「うん?」 「レンとキスがしてえの?」 視線だけこっちに向けられ、射竦められたように私はカチンと固まった。 「そ、そそそんなことないけど!」 「じゃあなんでそんなに拘わんだよ」 「なんでって、」 心がモヤモヤして…。 上手い言葉が見つからず俯いてモゴモゴさせていると、翔が椅子をこちらに寄せて内緒話をするように顔と顔を近付けた。 「嫉妬なんじゃねえの?」 「嫉妬?こーんなに神宮寺は私のことを好きなのに?」 「オイ。……だからさ、前にレンとつるんでた女子は、まあその、レンとキスしたことあるわけじゃん?だから、そいつらに嫉妬してんじゃねえの?」 翔の憶測は的確だった。 その通りだ。 神宮寺は私の彼氏なのに、私が見たことのない「神宮寺レン」を他の女子は見たことがあるというのがムカついて仕方ない。 (いつの間にこんなに好きになってたんだろ…) 神宮寺なんて、金持ちのチャラチャラしたクラスメイトってくらいの認識だったのに。 それがいつの間にやらこんなに大切な存在になっている。 「まあ、俺にウダウダ相談してても仕方ねえし直接本人に言ってみることだな」 「直接!?無茶な!」 「無茶でもやるしかねえだろ」 「なんの話をしてるんだい?」 突然の背後からの低音ボイスに私はびっくりして椅子から転げ落ちそうになった。 翔は翔で「うわ…」と端整な顔を酷く歪ませている。 恐る恐る振り返れば案の定そこには私の彼氏様である神宮寺がにっこり笑顔で立っていた。 「神宮寺…」 「二人で内緒話なんて、仲間外れはよくないよ」 「仲間外れにした覚えはねえけどな」 翔は机の横に掛かった鞄を引っ掴み、足早にこの場を立ち去ろうとする。 私と同様に翔も察しているらしい。 「じゃ、俺は那月と用事あっからもう行くな。ま、頑張れよ」 ひらひらと手を振って一度もこちらを振り返ることなく教室をあとにした薄情者の翔。 言えるものなら戻ってこいと言ってしまいたい。 「さあ、俺たちも帰ろうか。待たせてごめんね?」 「ううん」 神宮寺の嘘臭い笑顔が楽しい状況ではないことを物語っていた。 翔と二人きりという状況に鉢合わせた神宮寺はきっといい思いはしなかっただろう。 しかし、それを私から掘り返すのはいかがなものか。 むしろ彼から「他の男と二人きりにならないで」とでも分かりやすく文句を言ってくれれば弁解することも謝ることもできたというのに。 「今度の日曜は空いてる?」 「えーと、うん、空いてる」 チラチラと神宮寺の顔色を伺ってもその張り付いた笑顔はそのままだ。 どうしよう、いやどうにかすべきなのか。 触らぬ神に祟なし? 「そう。そしたらショッピングに行かない?」 「いいね、ショッピング。神宮寺は欲しい物あるの?」 「うーん、欲しいというか名前に似合う服をプレゼントしたくてね」 「ええ?いいよ、そんな」 「遠慮しなくていいんだよ。俺がしたいだけなんだから」 「でも悪いって」 「いいからいいから」 「や、ほんと、気持ちだけで」 「俺のためだと思って貰ってよ」 「いやいや」 「お願いだから!」 突然荒げられた声に驚きを通り越して恐怖した。 神宮寺はハッとして綺麗にセットしてあったその長い髪をグシャっと握る。 「…ごめんね、大きな声出して。ごめんね名前」 「…ううん」 「ダメだね、余裕のない男は。君に好かれていようと必死になり過ぎてる」 「そんな…」 神宮寺はニコリと笑って歩を進める。 「名前とおチビちゃんは元から仲が良いからそこは割り切ろうと思ってたんだけどね」 「…」 「でも、ああして二人が並んでいるのを見るとお似合いだなって思っちゃうんだ」 「神宮寺、」 「気が合うのも俺よりおチビちゃんの方だろ?趣味とかも共通してるもんね。俺はケン王とか詳しくないから」 「神宮寺、」 「ああごめん。こんなことを言っても君を困らせるだけなのに」 「神宮寺、」 「本当に自分が嫌になる。名前と居れば俺も変われると思ったんだけど、」 「レンってば!」 ピタリ。 ようやく神宮寺は足を止めた。 彼と私の間には数メートルの差が出ていた。 私はそれを走って詰める。 「名前…」 「屈んで」 「え?」 「いいから屈んで」 よく分からないという顔でゆっくり腰を落とした神宮寺の胸倉を掴み、私は彼の唇にキスをした。 「…」 「…」 「…」 「…なんか言いなさいよ」 「…」 「神宮寺、」 「っうぇ」 「え?」 「っうぅ、っひ」 「えええ!?ちょ、え!?」 突然ボロボロと涙を零す神宮寺に、さっきまでの威勢はどこへやら私は下手に回って彼の背中を必死に摩った。 「ごめん、泣かないでよ。ごめんって。神宮寺、」 「レン…」 「はい?」 「レンが、っうぇ、いい」 「…ああ。レン、ごめんね」 「っひぐ、名前は何も、悪くない」 「でも、泣いてるし…」 ほとほと困った私はポケットに入れていたハンカチを渡してこれで拭きなよと言ったら、神宮寺…ではなくレンはまた眉と口をへの字にして涙を流すのだった。 「もうなんなのよぉ」 「…うれし、なみだなんだ」 「え?」 「名前がキスをしてくれたのが、うれしくて」 「そんな……いつだって神ぐ…レンからすればいいのに」 「怖いんだ。…君を、好きすぎて」 私のハンカチで目元をぐいっと拭ったレンは、自嘲気味に笑った。 「情けない話、君と居るとすごく幸せなのに同じくらい不安になる。いつか嫌われたら、いつか別れなきゃいけなくなったらって」 「そんなこと…」 「君に触れるのも怖い。失いたくない。だから、動けない。臆病な話だろう?」 そのレンの酷く傷ついたような顔を見て私は彼を守りたいと強く思った。 同時に笑顔に変えたい、彼を幸せにしたいと。 男前だ、と我ながら思う。 「レン」 「!」 首に手を回し、抱き寄せる。 まるで身体の大きな赤ん坊みたい。 「怖がらないで。私はレンのこと大好きだよ」 「…名前…」 「嫌いになんてならないから。だから、もっと、私にも触れて欲しい」 「ほん、と?」 ゆっくりとぶらりと下がっていた手が持ち上がり、レンの熱くなった指先が壊れ物を扱うかのように私の頬に触れた。 さらりと撫でられて、反射的に瞼が落ちる。 「キス、していい…?」 「…わざわざ聞かないでよ」 「うん、ありがとう」 「ごめんね」じゃないんだね。 自然と緩んだ頬と唇。 覆われた唇は火傷をするくらい熱くて、そうしてとてもしょっぱかった。 ファーストキスはレンの嬉し涙の味。 |