名前さんの学校で文化祭があるというのをついうっかり音也に漏らせば、行きたい行きたいと駄々を捏ねるので渋々連れていくことになった。 「名前ちゃんのクラスどこ?」 「ええと…多分この階の一番奥の教室かと」 入口で貰ったパンフレットに目を遣りながら答える。 名前さんが言うにはクラス毎の出し物をそれぞれの教室を使用して行っているらしい。 ガヤガヤと混み合っている狭い廊下には「2-3 お化け屋敷」や「ケンちゃんのドーナツ屋さん」などといった手作り感満載の看板が置かれている。 金に物を言わせた早乙女学園の学園祭とは違い、こういった普通の文化祭というのもなかなか興味深いものがある。 「あっ、カレー屋さんもあるじゃん!俺買ってもいい?」 「いいですけど、後で入らなくなっても知りませんよ」 「平気だよ、カレーは別腹って言うしね」 「そんなの聞いたことありません」 音也が人混みの中に消えていくのを見送り、私は賑やかな廊下の隅の壁に背中をつけて休憩。 正直人混みは苦手である。 前に音也やレンたちと某有名テーマパークに行った時は人混みに酔ってしまいあまり楽しめなかった。 長蛇の列に並ぶのも人の波にもみくちゃにされるのも得意ではない。 (……ああ、でも) 名前さんは好きそうだ。 きっと人混みの中で私の手を引いて「早く早く!パレード始まっちゃうよ!」と急かしたり、いつものマシンガントークで並んでる時も楽しそうに笑っているのだろう。 (……それは、楽しそうですね) 考えて、ふっと笑みが溢れる。 結局のところ名前さんが居ればそれでいいらしい。 ふと視界にふんわりとしたスカートが揺れた。 (あ、) その女性は頭にヘッドドレスをつけ、黒地のワンピースにエプロンドレス姿で混沌とした廊下を掻き分けている。 名前さんのクラスの人だろう。 最初に名前さんからメイド喫茶をやると聞いた時、大喜びした音也とは反対に私はハラハラした。 私が一番に思い浮かべたメイド喫茶のメイドといえば、秋葉原で流行っているようなフリフリのエプロンドレスをつけた所謂「萌え系」のメイドだ。 まさかロングドレスを着用するヴィクトリアンメイドをこのご時世の文化祭で再現することはないだろう。 『名前ちゃんもメイド服着てオーダーとか取るの?俺たち行ったら担当してくれる?』 『うーん、混んでなかったらね』 楽しそうに笑う音也の頭をぽかんと無言で叩いた。 それくらいは許して欲しい。 「あっ」 人混みの中、小さな手が伸びひらひらと揺れる。 「トキヤくん!」 その聞き慣れた声に思わず頬が緩む。 「名前さん」 人と人との間を縫ってひょこりと顔を出した名前さんの名前を呼ぶと、名前さんも笑ってトキヤくんともう一度私の名前を呼んだ。 「背高いから遠くからでもすぐに気付いたよ」 「そうですか」 「迷わず来れた?」 「はい」 「音也くんは?」 「今カレーを買いに行ってます」 「ああ、4組のね!あれ美味しいらしいから正解だね」 「名前さんは何をしているんですか?」 「客引き!だけど、もうホールの時間だから教室戻るよ。一緒に行く?」 ええ、と頷く。 それから、ずっと気になっていた名前さんの後ろでこちらを興味津々に見ている女性を見遣る。 バチリと目が合い、その人はワッと声を上げてそうして名前さんの肩を揺すぶった。 「名前、この人彼氏でしょ?写真よりかっこいいのね!」 「まあね」 得意気に笑う名前さんに、なんだか私の知らない一面を見れた気がして嬉しくなった。 「あっ皆揃ってる」 暫くしてカレー皿を持ってやって来た音也を目敏く見つけた名前の友人さんは「イケメンの友達はイケメンって本当なのね!」と興奮気味に叫ぶものだから私も名前も声を出して笑った。 音也だけカレーに舌鼓を打ちながら、「ちゃんとケーキセットも食べるよ?」と名前さんに伝えていて名前さんはまた可笑しそうに笑うのだった。 「お客様いらっしゃいましたぁ」 メイドの可愛らしい声に出迎えられ、空いていた奥の席に通してもらう。 「ご注文は何になさいますか?」 メモを片手に尋ねてくる名前さんに思わず笑うと、彼女は不思議そうに首を捻る。 「いえ、あのお惣菜屋さんに久しく行ってないものですから、名前さんの接客が懐かしくて」 「あっ、そうだね」 「いいな〜俺も一度名前ちゃんが働いてる時に行きたいな」 「250グラム買ってきてくださいね」 「俺そういうのよく分かんないからトキヤも一緒に行こうよ」 「名前さんが教えてくれますよ」 ねえ?と目配せすれば名前さんはこくんと頷く。 「音也くんがお店に来たらバイト仲間たちの中でまた話題になるよ」 「話題?」 「私たちくらいの、ましてや男の子のお客さんなんて滅多に来ないから」 ね?と私の方を見るから知らん振りを決め込む。 名前さんと音也が笑っているのを無視してテーブルに置いてあるメニュー本を開いた。 手作りのメニュー本には様々なお茶の種類といくつかのケーキの名前。 セットにすると安いのだと事前に名前さんから聞いていた。 「俺は、チョコレートケーキとミルクティーのセットね」 「甘い物同士で大丈夫ですか?」 「だいじょーぶ」 「では私はモンブランとアイスコーヒーのセットを」 メニュー本をパタリと閉じると、名前さんはそのメニュー本を受け取りながら無理してない?と心配そうに尋ねた。 「無理とは?」 「ほら、前に映画見たときキャラメルポップコーン食べるの躊躇ってたでしょう?甘い物嫌いじゃないみたいだけど…」 「ああ、」 「カロリー気にしてるんだよね、トキヤは」 私の言葉を遮ってにひっと笑う音也。 「トキヤこう見えて太りやすいんだよ」 無神経に暴露した音也を軽く睨むと、あれ、言っちゃまずかった?と苦笑い。 「そうなの?」 名前さんは目を丸くしてキョトンとしている。 彼女に嘘はつけないので、曖昧に肯定を示すと「そうなんだ!」と嬉しそうにするから私は分からなくて首を傾げた。 「だって、私も太りやすいから、おそろい」 そう微笑んだ名前さんに目を奪われていると、隣の音也がコホンとわざとらしい咳をした。 「…俺もいるからね」 それを聞いた名前さんはハッとして「ごめんなさい!」と勢いよく謝り、パタパタ走ってオーダーを厨房と思わしき一角に持っていった。 「かわいいよね、名前ちゃん」 頬杖を付きながらうっとりとその後ろ姿を見送る音也の肘を小突く。 ずりっと頭を落とした音也はなんだよ〜と文句をひとつ。 「あげませんよ」 「取らないよ。俺好きな子いるもん」 そう言って笑った。 ケーキセットを食べてから、暫く音也と校内を回り名前さんのシフトが終わるのを待った。 時間になる頃に空気を読んだらしい音也は二人でごゆっくり〜とニヤニヤしながら帰っていった。 あの顔は多少癪に障るけれど、ここは音也に感謝しなくてはいけない。 「トキヤくん、おまたせ!」 「いいえ、…もう着替えてしまったんですね」 「うん?私もう上がりだから……ダメだった?」 「もう少し見ていたかったです」 素直にそう告げると、名前さんはそっと頬を赤らめて微笑んだ。 「最初に会った時、なんにも言ってくれなかったから」 「音也が居たでしょう?」 「あははっ照れ屋さんだね」 「……そう、ですね」 名前さんの細い腕を掴む。 「ですから、少し、人のいないところに行きませんか?」 出し物が行われている校舎から渡り廊下で繋がっている別棟。 こちらには実験室や音楽室など普段授業を行う教室以外の部屋が並んでいるらしい。 「こっちは本当に人がいないんですね」 「うん。文化祭で使ってるのはホームルーム教室と体育館くらいだから」 繋がる指先から伝わる名前さんの緊張。 トクトクと刻む鼓動と、汗ばむ掌。 「名前さん」 後ろから抱き締めればビクリと跳ねる肩に額を乗せると、名前さんは狼狽えて「トキヤくん」と私の名前を呟く。 はい、と返事をしてもそれより先に言葉はない。 彼女が何か意味があって名前を呼んだわけではないことは分かっていた。 すん、と鼻を鳴らすと首筋にかかる髪から香る優しいシャンプーの香り。 擽ったいのか緩く頭を振って逃れようとするその仕草が愛らしくて、なんとなく、その首筋に唇を押し付けた。 「トキヤくん」 何度目か分からない、紡がれた私の名前。 「“トキヤ”」 「え?」 「トキヤ、ですよ名前?」 耳元でなるべく甘く。 髪から覗く赤く色付いた小さな耳が甘い果実のように美味しそうで、ほんの少しの躊躇いもすぐにどこかへ消え失せて、パクリと口に含んだ。 「ひっ」 息を飲み込んだような悲鳴に何故だか心が満たされていく。 私はこんなにも意地の悪い性格だっただろうかと自分自身が不思議だった。 「トキヤ、くん」 「違うでしょう?」 「……いじわるだ」 そう呟いた名前にふっと笑う。 その通り、だと思う。 「貴方が、可愛いのがいけない」 腰に回す腕に力を込めて、手繰り寄せるように名前の腕を伝って掌を握った。 弱々しくはあるが握り返してくれるそのことに、嫌ではないことが分かる。 「……ト、キヤ」 「…はい」 「…トキヤ」 「はい」 「…なんだか恥ずかしいね」 塞がった両の手は使わず、名前は頬を私の頬に擦り寄せる。 温かく、柔らかい。 何度か触れたことのあるその感触を思い出し、もっともっとと求めてしまう。 「ねえ、トキヤ、」 「はい?」 「キスしたいな」 視界に入るピンクの唇。 メイド仕様の化粧はそのままのため、グロスを塗った柔らかそうな唇は耳よりも頬よりもひどく美味しそうに見えた。 「名前の方が恥ずかしいですよ」 後ろから、首を傾ける名前の唇に柔く噛み付く。 下唇を含めば彼女の唇は緩く開き、その隙間にゆっくり舌を侵入させた。 すぐにぶつかった彼女の舌を舌先でつつけばそれは段々と深いものになっていき、舌を絡め、溢れる唾液は飲み込んだ。 薄らぼやける視界に名前の蕩けた表情が写って、不覚にも胸がキュンとする。 あまり続けても可哀想だと名残惜しく思いながら唇を離せば、はあっと名前の熱い吐息が頬に当たり懲りもせずもう一度噛み付きたくなった。 「はじめてだね」 「?」 身体をこちらに向き直した名前が私を見上げて笑う。 「トキヤがこういうキス、してくれるの」 (………ああ、もう、) 「恥ずかしいから言わなくていいです」 私はもう一度その唇を食した。 |