手元のノートに黒板の文字を正しく書き写す。 重要だと言われたところには赤いペンでチェック、四角の囲いは15センチ定規を駆使して丁寧に。 『一ノ瀬くんのノート綺麗だね』 以前苗字さんにノートを覗き込まれて以来、私は馬鹿みたいに必死になっていかにノートを美しく取るかに懸けていた。 口下手でコミュニケーション能力が乏しい私にとって、クラスの中心人物である苗字さんは手の届かない眩しい存在。 そんな彼女が何気なく言った一言がこんなにも私の心に焼き付いて離れない、を通り越して私は彼女に恋をしてしまった。 この私が? 自問自答を繰り返し、この邪な気持ちを振り払おうともした。 それでも、彼女の笑顔を見ると胸が熱くなり、レンや翔と楽しげに話しているところに出会せば自然と眉間に皺が寄る。 これを恋と言わずになんと呼ぶのだろうか。 「なんですか、こんなところに呼び出して」 「うん?ちょっと聞かれちゃまずい話があってね」 早乙女学園校舎の端に位置している書庫。 そこには歴代の卒業オーディションで使用された楽譜や入学時に提出した譜面が保管されている。 こんなところ一般の生徒はなかなか立ち入らない場所であり、レンの言う“聞かれちゃまずい話"をするには確かに打って付けと言えるだろう。 しかし、何故私はそんな場所に呼び出されなくてはいけないのか。 ヘラヘラと相変わらず食えない顔をしたレンと、ニヤニヤと明らかに何かを企んでいる顔の翔がそこら辺に置いてある脚立に腰掛ける。 私はいつでもこの場から立ち去れるように勧められた脚立に腰を下ろすことはしない。 「まあまあトキヤ、そんな警戒した顔すんなって。な?」 「そうそう。俺たちは楽しく恋バナでもしようと思ってイッチーを呼んだんだからさ」 「恋バナ?」 ギクリと背筋が凍るのは持ち前の演技力でカバーして、さも呆れましたという風に装う。 「何馬鹿なことを言っているんですか。仮にもアイドルの卵が恋バナなんて」 「そうとぼけるなって。その無駄な演技力、彼女の前ではやめた方がいいぜ?」 「…なんのことですか」 「トキヤ、苗字のこと好きだろ?」 翔の丸い瞳が細められて、まるで心の奥底まで覗かれているような錯覚に陥った。 私が咄嗟に反応できなかったのを肯定と受け取ったのか、レンはクスクスと笑い声を漏らす。 (なんで、それを…) 「俺らは付き合い長いしな。お前のそのツンデレな態度なんてバレバレだっつーの」 翔がニヤニヤしながら脚立の上で足をバタつかせる。 「…私は別に」 「別に、彼女のことなんて好きじゃありません?」 「そ、そうです。私はアイドルになる男ですよ、恋愛なんて興味ありません」 「ふぅん?じゃあ、レディは俺が貰ってもいいってこと?」 「!」 レンは唇で弧を描く。 しかし彼の特徴的な垂れ目は笑ってはいなかった。 「レディがね、イッチーに嫌われてるんじゃないかって落ち込んでるんだ。あの健気な姿が可哀想でさ、慰めてあげたいって思うのが男じゃない?」 「レン、お前が手ぇ出すなんて聞いてねえぞ」 「おチビはレディと仲が良いから心配?」 「トキヤならまだしもお前は心配」 「ははっ、手厳しいなぁ」 私を置いてレンと翔の二人で話が進んでいく。 (私もレンだけは許せません…!) 苗字さんが悲しむことになるのは目に見えている。 自分が彼女を悲しませたという事実は棚に上げて、私はひと息で捲し立てるように言った。 「レンはもちろん翔にも苗字さんを奪られるのを黙って見過ごすわけにはいきませんしその前に私が彼女に告白するので余計な茶々入れや詮索はやめて欲しいですね!」 「えっ?」 (……………えっ?) レンの声でも翔の声でもない女性の声が書庫にずらりと並んでいる背の高い棚の奥から聞こえた。 聞き紛うことなどありえない。 「だってさ。やんなっちゃうよね。"余計な詮索はやめて?“俺たちのおかげで晴れて二人は恋人同士だっていうのに」 「ほら、苗字も出てこいよ」 翔が奥の棚に向かって声を掛ければ、恐る恐るといったように苗字さんが顔を出した。 髪を弄る仕草が可愛いと思うと同時に、今までの会話をすべて聞かれていたことへの絶望。 そしてレンの台詞の一筋の希望。 「俺ら先行くな。じゃあな、苗字。頑張れよ」 「俺はイッチーに頑張って欲しいけどね」 「ははっ、確かに」 レンと翔が部屋から立ち去ったことにより書庫には元のような静けさが広がる。 布の擦れる音ももしかしたらこの煩く高鳴る心臓の鼓動も聞こえているかもしれない。 苗字さんは居心地が悪そうに目を泳がせて、指は髪の毛先を弄んだ。 落ち着かない時の癖なのだとすぐに分かった。 (言え、一ノ瀬トキヤ……) 吸って吐いてを三回繰り返したら口火を切ろう。 そう心に決めて息を、吸う。 吐く。 吸う。 吐く。 吸う。 「あのね、私ずっと嫌われてるんだと思っ」 「わあ!ちょっと待ってください!」 不意の苗字さんからの発言に思わず彼女の口に手を当てて塞いでしまう。 驚きを隠せない丸い瞳が長い睫毛を何度か瞬かせる。 「あ、すみません、つい…」 慌てて手を退けて謝れば、苗字さんは気まずそうに俯いてしまう。 髪に隠れた頬が赤く染まるのを見逃さなかった私は得意のポーカーフェイスも忘れて生唾を飲み込んだ。 「ううん、平気」 手に残った柔らかな唇の感触に、もっともっとと思ってしまうこの気持ちは抑えようもない。 (言え、一ノ瀬トキヤ……) 今度は吸って吐いてを繰り返すことなく、一度だけ深く息を吸い込み、胸のドキドキと刻むリズムと共に言の葉に乗せた。 「貴方が好きです」 「貴方の、何事にも一生懸命で、思いやりのあるところが好きなんです」 「名前」 「っん」 奪うように唇に噛み付けば柔らかな唇は驚いてキュッと真一文字に結ばれてしまう。 それを舌先でねっとりとなぞると段々と力が抜けていき、互いの舌先がぬるりとぶつかり、絡め、唾液を啜り合う。 「っトキヤ、」 「はい?」 「どうしたの、いきなり…」 肩を上下して呼吸をする名前の髪をふわりと撫ぜて私は悪戯っぽい顔を作って見せる。 「いきなりではありませんよ。いつも貴方のその唇に触れていたいと思っています」 「………トキヤ最近デレ多すぎ。クーデレのクーはどこに行ったの?」 「そもそもクールというのが間違っていますよ」 名前と会話をしたその瞬間から、私は貴方にデレデレでしたから。 |