※ヒロインはトキヤのマネージャー。 7時30分。 時間通りに某所にある高層マンションの前の路肩に車を止めれば、タイミングよく帽子を深めに被った男が小走りでやって来た。 助手席の扉を開けてシートに背を預ける。 帽子をとると、ふうっと息を吐いた端整な顔が現れる。 「おはよう、一ノ瀬くん」 「おはようございます」 「今日の予定をザックリ言うね。まずは雑誌のインタビュー、そのあとボイスレッスンで、バラエティが2本」 「キツキツですね」 「ごめんね、どうしても動かせなくて」 構いません。 そう一言述べると、瞼をふっと閉じて腕組をしたまま眠るかのような体勢をとった。 私はエンジンを掛け直し、最初の現場へと車を走らせる。 「一ノ瀬くん、音也くんたちが一ノ瀬くんの20歳の誕生日会を開きたいって言ってたよ」 「‥‥あの人たちも暇ですね」 「まさか。スケジュール開けるのに必死になってたよ、マネージャーさんたち」 話し掛ければ返答は必ずある。 眠るのではなく、寝て体力を温存しようとしているのは知っていた。 「‥‥音也といえば、苗字さんに彼氏がいるのかって気にしてましたよ」 「私?なんで?」 「さあ。‥‥で、いるのですか?」 「ははっ、まさか!できないよ、忙しくて。出会いもないし」 「レンのマネージャーさん、貴方に気があるみたいですが」 「えっ、山中さん?やだ、あの人彼女いるよ」 そうですか、とさして興味も無さそうに一ノ瀬くんは目を閉じたまま。 「‥‥さて、そろそろ着くよ」 その先の信号を越えて左折すれば目的の場所だ。 「わ、赤だ」 しかし、もうすぐというところで黄色信号から赤に変わってしまう。 最後の最後にこういうことがあるとちょっぴり気分が悪い。 「‥‥‥‥苗字さんの幸せって、どこにあるんですかね」 「‥‥‥‥‥‥‥‥えっ!?どういう意味!?」 それ悪口!? 赤信号なのをいいことに隣の助手席を睨みつけたら、一ノ瀬くんは変わらず瞼を閉ざしたまま穏やかな顔でそこに佇んでいた。 調子が狂って私も黙り込む。 「‥‥じゃあ、私一度事務所行くから。終わった頃にまた迎えに来るね」 「はい、お願いします」 助手席のドアをバタンと閉めて降車した彼に手を振ると、会釈を返してそのまま踵を返して地下から中へと通ずる扉に消えていった。 (私の幸せ、ねぇ‥‥) 「お疲れー」 「お疲れ様です」 「さすがの一ノ瀬トキヤでも今日一日はハードだったのね」 バラエティ番組の収録を終えてテレビ局から一ノ瀬くんの自宅マンションに着いたのが深夜1時。 仕事にストイックな彼でもさすがにその顔には疲労の色が浮かんでいる。 「とりあえず事務所行って来週のスケジュール調整してきたから言うね。月曜が雑誌の撮影とドラマの番宣、火曜がドラマの番宣とCM撮影とバラエティの収録。水曜がオフで木曜が、」 「あの、水曜って」 黙って聞いていた一ノ瀬くんが驚いたように言葉を遮る。 私はニヤニヤと笑って彼の肩をポンポンと叩いた。 「一ノ瀬くんの誕生日だからね。オフにしといたよ」 「‥‥」 「その代わり前後が忙しくなっちゃうけど、まあ頑張りましょ!」 「‥‥」 「‥‥一ノ瀬くん?どうしたの?」 折角誕生日をオフにしたというのに全然嬉しそうな顔じゃない。 むしろ不服とでも言いたげだ。 19歳という年の割に落ち着いていて大人っぽい顔をする彼には珍しく子供らしい顔だった。 「‥‥誕生日の日には仕事を入れてください」 「え?」 「その代わりにその次の日をオフに」 「ええ!?もうスケジュール確定って言っちゃったよ」 「そこをなんとかして下さい。苗字さんならできるでしょう?」 さっきのむくれた顔はどこへやら、挑発的な笑みを浮かばて私の顔を見やった。 そうまで言われたら仕方ない。 私の誕生日じゃない一ノ瀬くんの誕生日だ、本人が仕事をしたいと言うのならそうさせてあげないと。 「しょうがないなぁ」 「ありがとうございます。流石私の敏腕マネージャーです」 ぽん、と頭の上に一ノ瀬くんの大きな掌が乗っかってぽんぽんと撫でられた。 びっくりする私を余所に颯爽と車から降りる彼は律儀に会釈を残して地下駐車場の暗闇の中に消えていった。 なんとか一ノ瀬くんの誕生日に仕事をずらすことが出来た私は、いつもの通り早朝に高層マンションの下で車を停車させていた。 いつもと違うのは後部座席にある綺麗にラッピングされた紙袋だけ。 「おはようございます」 暫くして予定時間通りに現れた彼は助手席のドアを開けてシートに腰掛けた。 「おはよう。今日もハードだよ。最初にダンス練習、そのあとにドラマ撮影、それから新曲のジャケット撮影」 「はい」 「あと、はいこれ」 後部座席に腕を目一杯伸ばして紙袋を掴む。 目の前に突き出すと、一ノ瀬くんは受け取りながら心底驚いたような顔をして私を見た。 「これは‥‥」 「誕生日プレゼント。とうとう20歳だね、おめでとう」 「‥‥ありが、とうごうざいます」 「さあ、開けてみて」 緊張した面持ちで紙袋を丁寧に開ける一ノ瀬くん。 「‥‥これ、」 「グラス。ワインとかシャンパン飲むのに使ってね」 そうして私は後部座席からもう一つ細長い紙袋を手繰り寄せた。 「あと、これも」 「ワインですか?」 「そう!一ノ瀬くんが生まれた年にできたワインなんだよ」 ちょっと大人びたプレゼントかもしれないと心配したけれど、きっとそうじゃないものは音也くんたちから貰えると思ってのことだ。 少しだけ人生の先輩の私からはそれっぽいものを。 「苗字さん、ありがとうございます」 「いえいえ。では、今日も頑張りましょう!」 エンジン音が唸る。 カーステレオからは朝のニュースが流れていた。 いつも瞼を下ろす一ノ瀬くんは、今日だけは目を開いてじっと紙袋を見つめていた。 22時15分。 スムーズに仕事が終わり、予定より早い帰宅となった。 「あと2時間弱だね。少しだけどゆっくりして誕生日を過ごしてね」 いつもならそのまま車を降りる一ノ瀬くんだけど、シートベルトを外してそのままシートから動かなくなった。 「一ノ瀬くん?」 「‥‥‥‥あの、苗字さん、」 「ん?」 「‥‥部屋、寄って行きませんか」 「えっ?なんで?」 「貰ったワイン、早く飲みたいんです。一人だと味気ないでしょう」 確かに誕生日に一人でワインを飲むのは居た堪れないけれど。 「苗字さん、お願いします」 「!」 耳元で、甘く低い声で囁かれて、私はびくりと体を怖ばらせた。 これが世に言う“トキヤのセクシーボイス”というやつだろうか。 「わわわわ分かった」 動揺した私はそのまま車をマンションの地下駐車場に駐車し、一ノ瀬くんのあとを黙ってついていくのだった。 「どうぞ」 「お邪魔します‥‥」 前に一度だけ音也くんたちに連れられて一緒に来たことがあるが、二人きりで一ノ瀬くんの家に訪れたのは初めてだ。 柄にもなく緊張する私に、そこに座って待っていて下さいとソファに座るように指示され、大人しくそうすることにした。 一ノ瀬くんはというとダイニングで私がプレゼントしたグラスとワインを用意し、2つのグラスが赤黒く光るワインに満たされたところでこちらに戻ってきた。 「どうぞ」 「ありがとう」 受け取り、鼻を近付ける。 そこまで高価なものではないが、うんいい香りだ。 「それでは、乾杯」 チン、と軽い音がグラスとグラスから響く。 私はグラスに口を付けて、ちらりと一ノ瀬くんを盗み見た。 (ルールを守っていれば)お酒初体験であろう彼を心配してのことだった。 「‥‥ん、美味しいです」 「赤ワインを美味しく飲めるなんて大人だねぇ」 私なんてつい最近飲めるようになったんだよ。 その言葉は喉元で呻き声に変わった。 唇に、一ノ瀬くんの柔らかい唇が押し付けられていた。 「、」 「‥‥そうです、私ももう大人なんです」 長い睫毛はピンと上を向き、その下の瞳は真っ直ぐに私を見つめていた。 咄嗟に反らした視線に彼の赤い唇が映るとそれにも体温が上昇するのが分かる。 「貴方の幸せを、私に預けてくれませんか?」 無意識に握り締めていたグラスはひょいと一ノ瀬くんに奪われて、代わりに彼の細い指が絡まった。 男の人の手、だと思った。 「や、」 「嫌?」 「嫌‥‥じゃないけど、一ノ瀬くん、本気‥‥?」 「どうしたら本気だと分かってくれます?ベッドにでも行きましょうか?」 そう手を引かれそうになって、慌てて首をぶるんぶるん横に振る。 一ノ瀬くんはふっと笑って、冗談ですよと軽い口調で言った。 「じょ、冗談って‥‥」 「ああ、告白したのは本気ですよ。貴方を抱きたいっていうのも割りと本気です」 「!」 目を細めて妖艶に微笑む一ノ瀬くん。 大人のお姉さん向けの雑誌にだって載ったことのないような顔だった。 「でも、貴方が泊まっていかないといけないことに代わりはありません」 「え?」 「お酒」 細く長い指でちょん、とワインボトルに触れる。 私はようやくはっと気付いた。 「まさか、」 「飲酒運転はダメですよ、苗字さん?」 ああ、やってしまった。 車で来てることなんて常なのに、一ノ瀬くんからお酒を誘われることなんてもちろん今までになくて気が回らずにひとつ返事でアルコールを摂取してしまった。 「明日はオフですし、ゆっくりしましょう」 「!一ノ瀬くん、こうなるのを想定してオフを‥‥」 「今更気付いたんですか?」 「‥‥狡賢いのね」 「賢しいと言ってください」 時計を見れば23時40分。 もう少しで一ノ瀬くんの誕生日が終わる。 私の視線を追った一ノ瀬くんは時間に気付いたようで、自然に握ったままでいた私の手を持ち上げて手の甲にキスをした。 「ちょ、」 「今日を貴方と過ごせて幸せでした。‥‥来年も、再来年も、貴方と過ごしたいです」 「‥‥」 「返事は気長に待ってます」 一ノ瀬くんは微笑んで、ワイングラスを一気に煽った。 晒された白い喉元がごくりと上下する。 自分の気持ちなんてほとんど決まっているようなものだった。 ただ、ほんの少しの勇気が足りない。 私も彼と同じようにもう片一方の手でグラスを引っ掴み、赤ワインを空にした。 ああ、このまま酔ってしまえればいいのに。 |