石丸先輩にマイクロチップを渡した。 先輩の手はマイクロチップを握りしめ、僅かに笑みを浮かべていた。 「ありがとう。僕を信じてくれて」 「…いえ。先輩ならきっと素晴らしい論文が書けますから」 「ああ。しかし、僕だけじゃなく君の力も必要だ。これからも頑張ろうではないか」 「はい」 こうして、石丸先輩との共同論文は無事に完成した。 無事に学園へと戻れたはいいものの出来上がった論文を手に、提出箱の前に立ち尽くしていた。自信のある内容ではあるのに提出するのさえ戸惑いを覚える。そんな中でも背中を押してくれたのが石丸先輩だった。 「大丈夫だ。僕達は真実を伝えるだけだ」 先輩の声に後押しされ、コトンと提出先の箱へ論文を入れた。何故だか分からないけど、これでいいとそう思わせられる。ふうと一息ついていると先輩が声をかけてきた。 「寄宿舎に戻るのだろう?少しだけ僕と話をしてもいいだろうか?」 その言葉に小さく頷くと寄宿舎までなんてことのない会話をした。先輩の友人達は個性的な人が多くて楽しそうだなぁ。 寄宿舎の近くまで歩いてきた所で、突然名前を呼ばれて顔を上げる。 先輩の見つめる眼差しに目が離せなかった。どこか雰囲気の違う先輩に変に胸が高鳴る。 「僕は君と出会えて光栄に思うよ」 「あ、ありがとうございます」 「それと君が良ければだが…どうか僕と友達になってくれないだろうか?」 「え?」 一瞬言葉が出なくなってしまう。どうして?とそう問いかけようとしたが、まだ続きがあるようで口を閉じた。 「恥ずかしながら僕は昔から話が合わない故に友達が少なくてな、希望ヶ峰学園に入ってから多くの友達が出来たんだ。僕は君と友達になりたいと思っている。……いや正直に言おう。僕はそれ以上の関係にもなりたいと思っているのだ」 「そ!それは…!」 驚きを隠せずに大きな声を上げてしまい、思わず口元を覆う。石丸先輩はそんな私を見て驚いたものの、目元を緩ませて微笑んだ。 「だが僕は友達以上の感情を抱くこと自体初めてだからどうすればいいかも分からない。それに学生は本来学業を優先すべきだ。……だから最初は友達になってくれないだろうか?僕は君と気兼ねなく接していけるような関係になりたいのだ」 真面目な告白だった。少し遠回しな表現だと感じながらも嬉しかった。 「……はい。喜んで」 「ほ、本当か!?」 「勿論です。これからもよろしくお願いします!」 「ああ!こちらこそだ!」 突然両手を取られて握手をされるものの、先輩の温もりが感じられて幸せになれる。 私もいつの間にか先輩を好きになっていたんだとそう思えたんだ。寄宿舎で自分の個室に戻ると、また先輩に会いたくなってくる。ああ、恋しちゃったんだって自覚する程に先輩への想いは止まらなかった。 フィールドワークから2週間後のこと。 担任の先生から呼び出しを受けた。理事室へ1人で行けというものだった。 一瞬だけ気分が悪くなった。何だか嫌な予感がしたものの、行くしかなかった。呼び出しを無視したらまた更に悪いことになりそうで。先輩に一言だけ声をかけようとしたが運悪くその日は78期生の授業が長引いてしまっていて声をかけられなかった。仕方ないからそのまま理事室へ向かうことにした。 理事室……学園長よりも偉い存在にいると言われている人達がいる。 その場に立ち尽くしていると秘書らしき人が扉を開け、中に入るように促された。 「失礼します」 「……みょうじくん、何故呼ばれたか分かるだろう?」 勿論あの論文のことだ。分かってはいたものの、わざわざ口に出すほどでもない。沈黙を貫いていると理事長は顔色ひとつ変えずに大きく呼吸をした。 「まず……君のリーダーであった、石丸君についてだ」 「え?」 「彼についてどう思う?」 石丸先輩?どうして彼の名前が?そもそも呼び出されたのは論文の話ではない? 「気にしないでいい。フィールドワークでどうだったかの感想をこうして無作為の人に聞いているだけだ」 「石丸先輩は優秀なリーダーでした。私達メンバーをまとめてくれ、フィールドワークで有意義な時間を過ごしました」 「ほうほう。そうだったのか。では君のことだ。君の夢は?」 「夢?」 「ああ。抽象的な夢でも具体的な職業でもいい。将来の予定についてでもいいさ」 「……鳥のようになりたいですね」 「鳥?」 ふと出てきた自分の言葉に理事長は聞き返してくる。 「はい。学園を卒業したら私は広い空へ羽ばたく鳥のように自分の為に自由に生きていきたいと思っています」 「それがどんな道でもか?」 「はい。挫折することもあると思いますが諦めず、希望を持っていきます」 自分でも信じられない言葉が出てきた。今までなんて漠然とネガティブな声をあげていたのに。(さっき言った言葉は物凄い抽象的ではあるけれど)明るい言葉が出てくるなんて思わなかった。 「そうか。君のような生徒を持てて誇りに思うよ」 理事長は私の言葉を聞いて口元を上げる。その口元の笑みは怪しいものだった。 「じゃあ次だ。……First Reportはどこだ?」 不意に息が詰まりそうになる。そしてあのレポートは重要な物なのだと確信した。 「何なんですか、それは?」 「とぼけるつもりか?」 「……いえ、本当に知らないです」 「君は学園の生徒だ。理事長に逆らうつもりか?」 「学園の生徒だから言うことを聞くわけではありません」 「ふざけろ」 そのときだった。後頭部に衝撃を受け、明らかに様子がおかしくなった理事長の姿を最後に視界が暗くなっていった。 ふと目を開くと目の前は晴天だった。 青い空が広がるばかり、景色は良いのに背中の寝心地が最悪だ。体のあちこちが痛くて、じゃり、と石の音が後ろから聞こえる。 体を動かそうとしても体が動かない。何とか頭だけ起こして周りを見渡す。周りは何も無かった。地面は錆びたレールと砂利だけ。両手足には拘束具がレールと繋がってる。 私は線路の上に寝かされ、拘束具のせいでそこから動けない。一気に冷や汗が噴き出る。きっと今の自分の顔は青空と同じように青ざめているだろう。 これが希望ヶ峰学園に歯向かった生徒の末路だというのか。ここに列車が来たら私は間違いなくバラバラになって死ぬ。 どうして私は今目覚めてしまったのだろう?列車が来るまで眠っていたらそのまま苦しみを味わうことなく死ねたのかもしれない。 どうしようもない絶望の海にそこまで沈んでいく。まだ、死にたくない。 何も聞こえない世界からふと声が聞こえてくる。その声は切羽詰まった、焦った声でどんどん近づいてくる。聞き慣れた男子の声だった。 「みょうじくん!」 「い、石丸先輩!?駄目です!逃げてください!」 「君のことを、放って置けるわけがないッ!」 息を切らしながら先輩は制服から数十本はあるだろう鍵の束を取り出し、私の拘束具を外そうとする。焦りからか手が震えながらも私の左手の南京錠に鍵のひとつを差し込んだ。 … 「本当にみょうじなまえは学園の恥だ」 「だからああして消そうとするんですね、貴方も趣味が悪い」 「くく、私達上の立場は非情であるべきだ。……しかし、石丸君には失望したよ。みょうじがいなくなると分かった途端ここまで来てこの私を問いただすとはな」 「石丸清多夏、ですか」 … 「な、何故鍵が合わない…ッ!?」 左手、左足の拘束が解けたが右手と右足の南京錠が上手く外れない。拘束具に付いていた南京錠と先輩の持ってきた鍵束全ての鍵が合わないと知ると先輩は一瞬にして青ざめた。 ガチャガチャともう一度全ての鍵を右足の南京錠に入れる、やはり結果は変わらない。 「これは罠です!早く逃げてください!」 「君を助けられるかもしれないんだ、まだ列車が来るまで数十分ある!」 … 「しかし豪華なランチですなあ理事長。秘書の私にもいいのですか?」 「構わない。君もよくやってるからな」 「恐縮です。話を戻しますが、石丸清多夏に鍵束を渡して良かったのです?」 「あれはダミーだ。1つだけ絶対に外れないようにしているのだ」 「なんて趣味が悪い…」 「それに石丸君には現実を見てもらう」 「はあ」 「彼は熱い友情だか何だか知らないがあまりにも純粋すぎる」 「それもまた彼の個性でしょう、素晴らしいと思いますが」 「しかし彼は将来総理大臣となれる逸材だ。その為には少し手厳しくいく」 「それが…あれですか」 「時には"人を切り捨てる"ことも、政治では必要だ。仲良しこよしで政治をやるわけにいかない」 … 「どうしてなんだあああッッ!!」 先輩の叫びは空に虚しく響くのみ。全ての鍵を照らし合わせると右足の南京錠が外れた。どうやら右足の方は鍵穴の奥が錆びついて回らなかっただけのようだった。しかし無情にも時間は過ぎる。僅かに体の下の線路が震えている。列車が、私の死がもう近づいている。先輩は私の傍から離れない。何回も鍵を解こうとして残りの右手の南京錠に鍵を差し込む。 私を置いて逃げてください。 何回この言葉を口にしただろう。死ぬのは怖い。死にたくない。生きたい。今にも声が、体が震えて、心臓がずっとバクバクと音を鳴らしている。 死にたくないけど、石丸先輩を巻き込みたくない。一体、どうすればいいのだろう。 「みょうじくんは大切な仲間だ。理事会は君のことをダメ人間と言っていたが決してダメ人間ではない!君は将来必要な人材だ!ここで終わらせてはいけないんだ…ッ」 先輩の頬にはボロボロと大粒の涙が流れて、線路下の砂利の色を濃く、濡らしていく。その涙につられて泣きそうになってしまうものの泣く姿を見せたくなかった。無駄な意地だった。私が泣いたらまた迷惑をかけてしまうと思ったからだ。ぐっと堪えて石丸先輩の方を振り向く。どこか様子がおかしい先輩は私の隣に座り込んでは荒い呼吸を数回した。 その顔は何故か優しかった。この状況には似つかわしくない程に。 嫌な予感がした。 「せ、先輩?」 「正しい鍵を理事長に確認もせずにここに持ってこれなかった僕にも責任はある…のだろうな」 「……え………」 「……君を見捨てる訳にはいかない。僕も君と最期までいよう」 どうして、そんなことを言い出すの? 嫌な予感が的中してしまった。 … 「彼の性格を考えると、これは賭けに近いですよ、理事長」 「ああ、君の言う通りだ。しかし、みょうじなまえにも意識を失う直前に吹き込んでおいた。"自分の運命に石丸清多夏を巻き込むな"とね。入学してからみょうじなまえには不当な対応し、最低評価を付け、自分がどれだね愚かな人間かを刷り込んでおいた。みょうじなまえは何とかして巻き込まないようにするだろう。なにせ相手は学園の中でも優秀な成績を持つ彼だ。未来の希望の1人であり、失ってはいけない存在だとダメ人間にだって理解している。 それでもなお、だ。石丸君が死んでしまえば石丸君もそれまでの人間、ただの凡人だったってことだ」 「もし生きて帰ってこれたら、彼は間違いなく素晴らしい政治家になれるでしょう。もしかしたら彼の祖父を超えるかもしれない」 「それに、初の希望ヶ峰学園出身の総理大臣になったらこちらの思う通りに国を動かせる」 … 「みょうじくん。僕は君を助けられなかった罪を償って君の元へ会いにいく。そして来世こそ、君と共に夢を叶えるんだ……。この私欲と権力に塗れた世界よりも素晴らしい世界を作るんだと……」 先輩の目には光が無かった。私の右手を両手で握っては弱々しい声で叶わない夢を語る。その姿を見たくなかった。見ていられなかった…けど、私には見つめ返すしか無かった。 「しかし…どうして鍵が…。これで全部外れると聞いていたのに」 鍵束を線路の上に置きながら先輩は呟く。その落ち込んだ声と言葉を聞き逃さなかった。 ……見つけた。先輩を救う方法が。 それは先輩の為にはならない。この方法は先輩の将来の輝かしい光を私の手で潰してしまうかもしれない。けどこの状況で思い惑っている必要はない。 友達になってくれた先輩を、助けたい。 「石丸先輩」 「…どうしたのかね?」 「私のお願い、聞いてくれますか?」 「……ああ、もちろんだ!君の願いなら何でも聞こう!何でも言ってくれ!」 私の言葉に先輩は僅かにぎこちない満面の笑みを見せる。 待ってくれている先輩の赤い瞳を見つめながら口を開いた。 … 「ははあ、それが狙いですか。国の実権はこちらが握り彼は傀儡になると」 「傀儡とは変な呼び方だねぇ、君。私達は彼のパトロンになると言えば響きが良いだろう?」 「しかし、それは彼が生存していればの話ですが」 「私はそれに賭ける。こういうときの勘は当たるんだ」 理事長が大きく両端の口角を上げると扉がノックされる。 「ああ。"結果"が来たようだ」 理事長が合図を送ると扉は静かに開けられる。学園の上層部である理事会のメンバーの1人だ。 「どうだったんだ?」 「はい。みょうじなまえの死亡が確認され、石丸清多夏をこちらで保護しました」 「ああ、良かった」 「しかし、彼の方は精神が酷く不安定な状態でありますが」 「構わない!その方が私にとって好都合だ」 秘書は食事の手を止め、喜ぶ理事長と僅かに口角を上げ喜びを抑えきれないメンバーの1人を交互に見た。 … 時間というのは惨いことに長い。彼女がいなくなって翌日、理事会の人に呼び出され力無くその人の後ろをついていく。 …………みょうじくん。 どうして、あんな願いを…。 「君が無事で良かったよ、石丸君」 「_____何故、」 「んん?」 「何故みょうじくんは死ななければならないのですか?」 「学生に相応しく無かったから、それだけだよ」 「なら…停学や退学という措置も取れたはずですが」 「彼女は校則違反を犯した。しかも重大だ。重要未確認生物の殺害に、教員や私への反逆。希望ヶ峰の学生としてあるまじきことだ」 「………重大未確認生物の殺害は"嘘"だと僕は思っています」 「何を言うんだ君は?」 「新しい学舎、そのような場所の暗い地下……そんな場所に連れてこられたみょうじくんの不安と恐怖を利用して、重大未確認生物がいると思い込ませた、が正しいでしょう。今の希望ヶ峰の技術なら」 「石丸君。君も今やっていることは理事会へ歯向かっている重大な反逆行為だ。本来ならば罰を与えるところだが、君は非常に優秀な生徒だ。初めての校則違反だから数日間の自室での自粛で処分するからね」 「…………」 「二度とそのようなことを口にしてはいけない。私達は名誉ある希望ヶ峰の人間なのだから」 言い返そうと口を開くと秘書の男が僕に何かを差し出した。何も書かれていないお守りのようなものだった。中を開けろとの指示により、袋を開けると白い鳥を模した小さい置物が入っている。目は赤く、まるでハトのようだ。1センチしかないだろう置物を見つめていると理事長は呟く。 「みょうじなまえは"鳥"のように自由になりたいと言っていたそうだよ、石丸君」 意地悪い笑みを浮かべた理事長の視線は僕に突き刺さる。かつての会話、そしてこの状況で言い出したことに喉がぎゅっと締め付けられる。声が出せない僕にお構いなく理事長は言葉を続ける。 「みょうじなまえ…彼女は石丸君のような生徒に憧れていると言っていたな?」 相手が何を言いたいのか分からないし、言葉が本当に出てこない。だが相手の下品な笑みが危険を知らせるように体中が警戒心でいっぱいになる。 「だから、その願いを同時に叶えてやったんだよ。 かつて白い制服を纏い、赤い瞳を輝かせて入学してきた君のように…………白く、赤い瞳を持った鳥の姿に。 "材料"は簡単だった。何せあんな凄惨な死を遂げたからね」 ……遠回しにいやらしく笑う理事長の言葉をやっと理解する。けど、理解したくもない。言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡り、手先が震えだす。空気しか通らなかった喉が震えながらも声を絞り出す。その声は生まれて初めて出す憎悪に塗れたものだった。 「理事長…ッ、貴方は、貴方って人は……ッ!!」 「君は利口な生徒だ。ここで騒動を起こしたらどうなるかな?……彼女の死を無駄にしちゃいけないよ、石丸君」 「……う、うああああっっっ!!!」 気がつけば、僕は理事長の机に身を乗り出し、拳を理事長の顔の前に突き出していた。だがそれは当たることなく秘書が僕の腕を押さえつけ、そのまま部屋から追い出した。厳かに閉まられたドアを見つめ続けているといつの間にか夕方になっていた。 …酷く混乱すると自室に戻った記憶すらも失くしてしまう。見慣れた部屋のはずなのにどこか何かが足りないと感じてくる。 そっとお守りから中を取り出す。白い鳥の置物は手の上に虚しく転がるだけだった。 「……うっ、うぅ…こんなこと……みょうじくん」 彼女の血液と遺骨から出来た置物を両手で包みながら部屋の中で蹲る。首を絞められたかのような息苦しさ、精一杯息を吸おうにも上手く吸えず、荒い呼吸は酷くなり、過呼吸になりかける。理事会の人達に反論しているときがまだマシだったと思える程に、何も考えていないと常にあの出来事がフラッシュバックしてしまう。 彼女との会話、そして最期の瞬間。 … 「許せない?」 「はい、許せないんです。希望ヶ峰学園のこと。だから石丸先輩に『復讐』してほしいんです」 「しかし…ッ」 「先輩も思いません?ダミーの鍵を渡されて…。私を助けられるという仮初の希望を渡されたんですよ?」 「……それはそうだが。実際解けたんだ。鍵を違う束に入れ違えたとは」 「ありえません。わざわざ右手の南京錠の鍵だけ別の鍵束に分けるなんて。助けられると思ったら後一歩で助けられない。そんなむず痒い感情を植えつけようとしているんですよ」 「……馬鹿な」 「……無理を承知です。私はここで死ぬしかないんです。ですが先輩は生きる道もあるんです。どうか、お願いです。 無念の死を遂げた後輩の仇を取る為に生きてください」 みょうじくんは頭を深く下げる。その姿に一気に目から鼻から水分が出てくる。鼻を啜る音と嗚咽の音が君にも聞こえてしまっているだろう。 「……分かった。君の願いが、叶えられるか…分からないが」 「……ありがとうございます。先輩なら私の願いを叶えてくれます」 線路がガタガタと大きく鳴り始める。もうすぐ列車が来る。みょうじくんを見ると彼女は無理矢理笑顔を作りながら自由に動かせる左手で僕の体を線路の外へ押し出した。拍子に体のバランスが崩れかけるも持ち直す。僕と彼女の距離は遠のいてしまった。 「みょうじくんっ…!」 「先輩、ありがとうございます」 彼女は精一杯のお礼を告げ、頭を下げる。 どうしてあんなに笑えるのか僕には分からなかった。いや。無理して笑っているんだ。 遠くから列車が見えてくる。新幹線のような驚異的なスピードで線路の上を走っていく。 何か、僕は君に言わないと、 「……みょうじく、」 一瞬の出来事だった。全て見てしまった。 僕の目の前で何が起きたか、理解してもしきれない。 みょうじくんと激しくぶつかった列車は衝撃によってレールからタイヤが外れ、先頭車両は線路の向かい側に横転した。彼女がいた場所は2両目の車両の下に。車両下に出来た血溜まりが、彼女の千切れた左手首が、僕の方へ激しく飛び散った。タイヤには肉片と血が共にこびりついていた。彼女だったもの…がそこに存在していた。全てを理解した途端に頬に流れる涙の熱を、生臭い血の臭いを、何も出来なかった自分の弱さに唇を強く噛み締めて広がっていく血の味を、全身で何もかも受け止めてしまった僕は激しい頭痛と吐き気に襲われた。 … あの日から数年後。大きな事件が起きた。 希望ヶ峰学園内で行われていた非人道的な人体実験が書かれた告発文が新聞社やテレビ局に届けられたのだ。学園の不祥事は堂々と取り上げ、国民に一瞬にして知れ渡ることとなる。 綺麗な池に1滴の汚水を垂らしただけで池全てが汚水と化すように……名門校と名高く、世界中の憧れの存在である希望ヶ峰学園に不祥事が出たとなれば一気にそのレッテルは剥がれ批判の的となるのだ。 更に上層部と反社会組織の繋がりを示す証拠があったとなれば小さい不信は大きな失望へと変わる。言い逃れさえ出来ない状況にまで追い詰められ、希望ヶ峰学園…またの名を希望ヶ峰研究所は解体となった。 倫理に背くような内容ばかり報道され、誰が告発したかは伏せられていた。 僕の予想した通り、僕やみんなを希望ヶ峰学園出身というだけで批判する者もいた。しかし取り上げられたのは上層部の不祥事であることに加え、地下室で行われていた実験に許可されていない動物、それだけでなく学園の生徒までも使っていたという事実が国民の同情を買うことになり、思いの外僕達生徒への批判は少なかった。 お陰で希望ヶ峰に所属していた生徒達は全員が全員という訳ではないが就職、実家に帰り大学に通う、などそれぞれの道を歩み出せるようになった。 僕は進路を決める際、何も考えられなかった。ただ流されるままに僕の才能を見込んだ人に引き取られた。 周りからは魂が抜けたようだと言われてしまった。当然かもしれない。僕はもう復讐を果たしてしまい、生きる理由を失ってしまったのだから。 幸い、僕には仲間がいた。彼女の友人だった者と協力し、闇に葬られた忌まわしき過去を洗いざらい調べあげ、告発文を作った。あのときを思い返せば確かに僕は生きていたのかもしれない。今、その協力者はきっとどこかで上手くやっていっているのだろう。 僕を引き取り、秘書として雇ってくれた彼はまだ新米議員だった。だが情熱的、人情的で国を良くしていきたいと考えている人だった。僕もあのような輝いていた瞬間があっただろうか。あの学園に入学してきた頃の僕とどこか雰囲気が似ていたかもしれない。魂の抜け殻みたいな僕に声をかけてきた情熱的な姿もかつての僕と重なった気がする。だからだろうか、その人についていきたいとさえ思えた。 僕の傷は抉り取られているかのように深く、完全に癒えてなんかいない。きっと僕は彼女の死を乗り越えられずにずっとこうして引きずっていくのだろう。こんなにまで弱くなってしまった僕を見守ってくれるだろうか。 僕の生きる意味はこれからあるのかと上を向いて呟いた。 答えは返ってこなかった。 END |