あまりハイヒールに良い思い出はない。まず足の甲が広いから履くのに苦労するし、何よりも爪先だけで歩くような感覚が好きではない。それで何度転んでしまっただろうか。

それでも履かなければならない日は私の日常ではよくある。もちろん仕事がほぼ100%占める。

今日もカツカツとハイヒールのカカトを鳴らしながら歩く。今夜はよく冷え込むようだ。雲1つない夜空を見上げる。あ、オリオン座が見える。

私の部屋があるマンションが見え、そこに進むとエントランス横の花壇に座り込む人が見える。よく見ると男性のようだ。髪色を派手な色に染めて何か携帯でもいじっている。待ち合わせかな?なんだか柄が悪いなぁ…。

あまりジロジロ見ないようにしながら、エントランスに入りそのままエレベーターに乗る。ここはオートロックだ。自分の部屋の鍵をエントランスに挿すだけでエントランスの扉が開く。

7階に降りてみょうじと書かれた角の部屋に入る。やっと家に着いたという安心感からため息が溢れる。
まずは通路の邪魔にならない所に背負っていたケースを置き、開く。
中にはサックスが入っている。私はまだ新人のサックス奏者というやつだ。
友人の誘いでジャズバンドというものに参加してから何軒かのジャズバーからお誘いがきている。

明日はどこで演奏するかをスケジュール帳で確認し、明日に備えてシャワーを浴びすぐ眠りにつくことにした。


そして翌日、何もトラブルは起きず無事に演奏会が終わった。
今日は遠い場所での演奏会だったから車を使って帰ることにする。夜道は気をつけて運転しなければならないが、ハイヒールじゃなくてスニーカーで帰れるのが疲労した足にとって助かるのである。

今は彼氏とかそういうのはいない。いや、以前までお付き合いというのは何回かあったがどうもお互い一緒にいれる時間が少なくて…という仕事上のすれ違いから上手くいかなかった。確かに場所にもよるが大体バーなので仕事時間は夜なのである。だけど、昼だけ仕事となるとサックスを吹く時間がかなり短くなってしまう。私はまだ演奏していたいのだ。だから仕事を減らすというのはどうも私には無理だ。

マンションの駐車場に車を停め後部座席からサックスが入ったケースを取る。そしていつものようにエントランスを通るのだがまた人影が見える。

あ、昨日もいた人だ。と派手な髪色を見て察した。この人は夜中に1人で何をしているのだろうか。あまりジロジロと見ないで帰ろうと少し早足でエントランスの中へ行こうとする。

そのときだ。誰かに腕を掴まれたような気がした。こんな夜中だ。何が起きるか分からない。すぐに振り向けば髪色がピンク色と派手なあの人だった。昨日も今日もマンション近くにいた人に腕を掴まれたと知り、慌てて振りほどく。


「ま、待ってください…」


男性は見た目にそぐわない弱々しい声で私に話しかける。だが、だからって力を弱めるわけにはいかない。何が起こるか分かったもんじゃないから。


「や、やめてください!離してください!」
「あの!助けてほしいんです!」


……………。
助けてほしい…?その言葉に振りほどく手をやめる。手を止めた私に男性は話しかける。


「オレ、昨日から何も食べていなくて…一晩だけでいいんで泊めてもらってもいいですか?」


な、なんなんだ、この人は。新手のナンパというやつだろうか?
しかし、その割には男性の顔はナンパしようという意思が見られない。というかよくよく見れば少し痩せこけているのが分かる。一晩だけと言っているが…。


「…一晩だけなら構いませんが…何か私の身に危害加えたらそれなりの対処はしますよ?」
「…いいんですか!?ありがとうございます!」


男性はぱあっと目を輝かせて深いお辞儀をする。…よく見れば顔立ちもそんなに悪くない。必死にお礼を言っている様はまるで子犬だ。
…駄目だ。相手は赤の他人でしかも男性だ。少しでも気を緩めたら襲われるかもしれない。金品やサックス、自分の身は守らなければならない。


とりあえず部屋まで案内する。7階に着くまでが今日はとてつもなく長い。というのもこの人が原因である。なんとも気まずいし、名前すら分からないのだ。恐怖である。
やっと7階のアナウンスが鳴り、我先にとエレベーターから降りて部屋に向かう。男性はもちろんだがついてくる。自分の部屋の鍵を開けて先に入る。スニーカーを脱いだ後、ドアが閉まらないよう手を伸ばして押さえつつ「どうぞ」と伝えた。男性は「お邪魔します」と軽く頭を下げて入った。無礼講という訳ではないみたいだ。


「…何も食べていないんですよね?レトルトカレーで良ければすぐに出来ますよ?」
「大丈夫です!ありがとうございます!」


男性をソファに座らせてキッチンで1人分の食事を用意する。とはいうもののレトルトカレーだからお湯で温めればすぐに出来る。幸い保温しておいたご飯もあるし。
…冷静になって男性を見る。見た目は派手でヤンキーなのかな?その割には大人しそうだけど何かあったのだろうか?年齢は私と近いかもしれない。


「…えーと、昨日今日もいましたよね?貴方はどうしてあの場所にいたんですか?」
「え、えと、それはですね…喧嘩したんすよ」
「あー、家出ってやつ?」
「そうそう!それで暫く帰れなくて」
「もー、仲良くしないと駄目ですよ?…はい、簡単すぎるものでごめんなさいね」


そう言いご飯にかかったレトルトカレーを置いた。男性はいただきますと言い、食べ始める。


「食べ終わったら台所に置いてくださいね。私軽くシャワー浴びていきますので」


男性はビクッとしたもののこくんと頭を縦に頷く。少し頬を染めている。確かに見知らぬ人がいる部屋で服を脱ぐんだからありえない行動なのだが…いかんせん眠気がすごいし早く済ませるものは済ませて眠りたかった。
それは5分もかからなかった。タオルで急いで拭き寝巻きに袖を通す。男性は既に食べ終わっており、しかも食器を洗っていた。


「あら、そこまでしなくてもいいのに…」
「いや、これくらいはしないとなって」
「…私眠いから先に寝ちゃいますね。お風呂は自由に使ってください。寝る所…ソファでも大丈夫?毛布置いとくので」
「充分すぎますって!ありがとうございます!」


そう言いながら男性はギザギザした歯を見せてニカッと笑う。その笑顔に安心感を覚える。同じくらいの年なのに若いなぁなんて思ってしまう。それでもまだ名前を知らない関係。一応ベッド下にサックスを入れたケースを隠し、財布を枕の下に置いてそのまま男性が風呂場に入る所で眠りについた。





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