「………誰、ですか?」
「………………」


言葉も出なかった。何が起きたのか問い詰めることも出来ずにその場で固まってしまう。それどころかその場で足がガクガクと震え始めた。
警官の言っていたことが本当なのだと彼のキョトンとした表情で思い知らされた。


「……どうしました?」


彼の口ぶりから本当に私のことが分からないようだ。
聞きなれない左右田君の敬語がある意味私の胸をグサグサと刺してきた。


「いえ、…少しだけ席を外しますね」


深くお辞儀をして病室から出る。
左右田君が記憶喪失になってしまった。
あの後近くにいた警官に主治医に会いたいと伝えると数時間後ではあるが左右田君の主治医の先生に会うことが出来た。

やはり記憶喪失に陥ってるようで、自分がどうして事故に遭ってしまったのか、それ以前の出来事も忘れてしまったようだ。やはり私達が巻き込まれた轢き逃げにより頭を強く打ち、彼の脳にショックを与えてしまったようだ。

記憶喪失を治す方法はなく、ふと戻るかもしれないし、戻らないかもしれないと告げられた。医療に携わる人でも難しい病気だと思い知る。呆然としながらも主治医の先生にお礼を言った。


荷物を置いてきた為、また病室に入る。この一瞬で全て思い出した!ってなったらギャグみたいな展開になるのだが、


「…あ、どうもこんにちは」


変わらなかった。派手だったトサカへアーも今となっては髪を下ろし、彼の左側に結んであった三つ編みも解けていて最早目の前の彼は別人である。


「………」


何か言わないと彼が困惑してしまう。
何を言おう、どこから説明すればいいか分からずに戸惑っていると彼の方から口を開いてくれた。


「すいません、僕は名前すらも覚えてなくて…左右田和一っていうみたいなんですけど何も引っかからなくて」


言葉が一文字も出てこない。
声は。声は左右田君のものなのに。
結びつかないのだ、私の記憶の中の彼と今の彼と。


「貴女も僕と同じ事故に巻き込まれたみたいですね…轢き逃げだなんて嫌になりますよね」


苦笑いを浮かべ乾いた笑いをする彼に震えながらも言葉を紡ぐ。
振り絞った声は震えながら何とか伝えようと力んでしまう。


「でも…貴方が生きてるだけで、良かった」
「……!」


本音を零した途端にボロボロと涙が頬を伝う。
もしこれで彼が死んでいたら私は正気を保てていたのだろうか、いや無理だ。私を庇おうとして死んでしまったってことになったら一生罪悪感に苛まれて精神が保てていなかっただろう。
だが結果的に私の知る左右田和一は死んでしまったといってもいい。
お調子者らしく漫画みたいにパッと蘇生してくれたらどんなに気分が楽になるだろう。言葉をまともに発せずにずっと謝り続ける。


「ごめんなさい、うぅっ…」
「……泣かないでください」


ほら、現に私は貴方を困らせてしまった。私を見てオロオロと慌てる彼は近くにあったバスタオルを差し出してくる。


「大きいですけど…これで拭いてください」
「……すいません…本当に…」
「…えっと、僕も事故に遭ったことを覚えていなくて概要だけ警察の人から聞いたんです。貴女は何も悪くありません。悪いのは犯人なんですから謝る必要なんてありませんよ」


記憶を失った人に励まされ、自分はただバスタオルで顔を隠しながらコクコクと頷くしかなかった。
何で、何でこの人は優しいのだろう。自分がこんな目に遭ったというのに。根本的な彼の性格は底無しの優しさを持つ人だったのだろうか。
私がもっとしっかりしてればこんなことにならなかったのに。彼は私を責めようとも思わないのだろうか。
何も知らないままでいた方が幸せなこともあるのかもしれないと心中思い続けた。

粗方涙を流し続けた後、彼が問いかけてくる。
もしかして私が落ち着くまで待っててくれたのだろうか。何て申し訳ない気遣いをさせてしまったのだろう。


「名前…」
「はい…?」
「貴女の名前教えてください。話によると貴女は僕の恋人だって聞きました。僕が体を張って守りたくなるほど貴女のことをすごく好きだったみたいですから…」


しばらく間を置き、すぅと深呼吸をして彼は私を見つめる。


「貴女が良ければですが、僕ともう一度恋をしてくれませんか?」


若干頬を染めながら左右田君はニコリと微笑む。
見た瞬間に過呼吸に陥りかけそうになる程の息苦しさを覚える。

そんな、本当に、私で本当にいいのだろうか?
慣れない左右田君の姿、言動に無理矢理呼吸を落ち着かせた後にゆっくりと口を開く。


「本当に…」
「……?」
「私なんかでいいのですか?私は…」
「だから、そう気に病むことなんてないんですって。僕は純粋に貴女のことを知りたいですし。それに僕は一体どんな人だったかも貴女から教えて欲しいんです」


なんで、左右田君はこんなにも…。
涙腺がまた緩みだしてくる。うぅと鼻をすすりながらも返事をする。
ごめんなさい、貴方の優しさに甘えさせてください。


「…喜んで。私はみょうじなまえです。左右田君…貴方からみょうじと呼ばれてました」
「みょうじさん、みょうじさん…………あぁごめんなさい、心当たりがなくて」
「いえ!大丈夫です!仕方ないですって!無理に思い出さなくていいので」


わたわたと手を横に振ると左右田君は顎に手を当ててひたすら私の名前を呼ぶ。何だか少し恥ずかしい。


「えっと何だかごめんなさい、私が恋人で……」
「えっ!?とんでもない。そこまで卑下しなくたっていいじゃないですか。どうか、よろしくお願いします」


快い返事と小さいお辞儀に何だか凍りついた心が溶けていくのを感じた。左右田君がどこまでも優しすぎる。その優しさに溺れ続けてしまいそうなくらいに。
その後も話はしたものの、沢山話すぎると彼の頭の中がパニックになりそうだから一緒に暮らしてるときの話を中心に話を進める。
左右田君はうんうんと頷きながら話を真剣に聞いてくれた。たまに私から目線を逸らして顔を赤くしている。前の左右田君そっくりな仕草が何とも愛おしく感じてしまう。
…話し込んでいるといつの間にか夕方になっていたようで窓に差し込む西日が当たって目の前が眩しい。


「ではもうそろそろお暇しますね」
「はい、楽しい話をありがとうございます。あの、みょうじさん」
「な、何ですか?」
「また…来て欲しいです。もっとみょうじさんからお話聞きたいです」


ニコリと満面の笑みを浮かべる彼は左右田君であって左右田君ではない満面の笑顔だった。複雑でもどかしかったものの、目の前の彼は左右田君なのだから…そう思うと心が暖かくなるのを実感した。


「はい、明日もまた来ますよ」
「あはは、すごく嬉しいです。おやすみなさい」
「ええ、おやすみなさい」


左右田君と別れを告げてマンションに戻る。
そして7階の自分の部屋に戻る。その頃にはもう日も沈んで夜になっていた。ただいま、と呟きながら電気をつけると、本来1人部屋だったはずの部屋がやけに広く感じていた。
彼の着ていた私服や彼がいつも使っていた食器が視界に入り喪失感がぐっと押し寄せてくる。


「…駄目駄目。彼は生きているんだから」


話を聞きたいと言ってくれた彼に応えてどんな話を用意しようか考えていた。それだけで何時間も時間が過ぎ去っていっていつの間にか寝てしまっていた。


「えぇっ!?僕こんな髪型してました!?」
「うん、左右田君のチャームポイントだよ。トサカみたいな髪型に三つ編みしてたんだ」
「えぇ…僕すごいことしてましたね…少しだけ自分にドン引きです」
「ふふ、それ本人が言うの?ちょっと笑っちゃうな」


病院内の談話室で座っている彼の背後に立って彼の髪を触る。桃色の髪を梳きながら左側の髪を小さい三つ編みにしていく。左右田君のことについての会話をすると時々「嘘言ってないよね?」と疑われたが本当のこと、と言っておいた。
不服そうにしていた左右田君が私からしたら少しだけ可笑しくて笑ってしまう。真面目な性格は根っからなのかもしれない。


それからは仕事について、私の楽器について、左右田君がメカニックの才能を持っていたこと、そんな彼は乗り物酔いしやすいこと。
これらから話題を1つだけ選び、1日で話せるような量にまとめて話を進める。彼は興味津々に聞いてくれた。結果、どのキーワードも記憶に関しては引っかからなかった。
時折、記憶の入れすぎでパニックを起こしてしまうことがある。主に頭痛だ。発作のように突然襲いかかる頭痛に悩まされることが多い。その度に彼を横に寝かせて、手をいつも握っていた。


「う、うぅ……」
「……左右田君、」
「う、はぁっ…大丈夫です。みょうじさんがいてくれるからなんとか…」
「ありがとう…、私なんかでいいのかな」
「いいんです、みょうじさんが僕の手を握ってくれるだけで頭痛が和らぎます。面会出来ない夜に頭痛来たときなんて大変で…」
「夜…か。大変だよね」


このような日々が2週間は続いた。左右田君の記憶は一切戻らないものの、面会の為に病院に足を運んできた。

ただ頭痛の発作の際に気になることを言い出すのが気になった。


「……ッッ」


いつものように話をしていると左右田君は急に頭を抱え始めた。左右田君の手を握り、静かに私の方へ寄せ、彼の背中に手を回す。軽く抱き締めてしまってるけど嫌じゃないかな。


「大丈夫?苦しくなってない?」
「大丈夫です。寧ろ優しくて心地いいです」
「そ、そうかな?」


案外嬉しいこと言ってくれるなぁ。それとも気遣いされてるのかな。
苦しそうに声を上げる左右田君に反応してつい強く抱きしめる。


「……怖い、」
「え?」


思わぬ言葉に彼の頭を撫でる。左右田君は苦しみに締めつけられ、苦しみから逃げるように私の体を強く掴む。


「夢、見るんです…海外のような知らない場所にいる夢。記憶の一部なのかなって思いました。けど僕が、脳が、思い出したくないって拒否するかのように頭痛が更に酷くなる…きっと思い出しちゃいけないことなんだって。それを思い出したらどうなるのだろうって怖いんです」


グッと爪を立てられ背中に痛みが走るも優しく彼の頭や背中を撫でる。


「海外のような知らない街…かぁ。左右田君からそんな話は聞いたことないよ」
「……なら僕の夢の中ってだけ、ですかね?」
「うん、きっとそうだよ。安心して」
「…はい。ありがとう、ございます」


痛かったですよね、と慌てて私から手を離す彼にううん、と返す。左右田君の頭痛はいつの間にか治まっていた。
左右田君の言葉が気になるもののきっと夢だろうなと思っていた。


日を重ねていくごとに私のサックスの仕事も順調で音楽仲間から仕事の誘いが来た。前にやった遊園地にて今度はジャズライブをするらしい。日にちは左右田君が一時的に退院する日だった。
病院でサックスを吹くわけにいかなかったし、前々から左右田君は私の奏でる音を聞いてみたいと言っていたからチャンスだと思って了承した。
左右田君は喜んでくれるかなと思って面会に来て早々打ち明けてみた所左右田君は満面の笑みを浮かべてくれた。


「本当ですか?是非聴きに行きたい!」
「うん、そのライブの日までサックスの練習を頑張るからね。左右田君を始め、みんなに満足してもらえるような音楽を届けたいんだ」


まだまだ未熟者だけど、なんて笑いながら言うと彼の口がゆっくりと開いた。


「みょうじさんが僕の恋人で良かった」


一瞬だけ自分の動きが止まる。
左右田君に急にそんなことを言われて大変驚いたからだ。


「な、何で?」
「だって優しくて可愛らしくて…みょうじさんが来てくれただけで幸せになりますから」
「…え、えっとその」


ありがとう、と笑顔を彼に向けたものの内心ドキドキとする。
左右田君の髪を下ろした長い髪はしゃらんと綺麗な音をたてながら揺れ、柔らかい笑顔を私に返してくる。
…どうやら冗談で言っているわけではないと察し、思わぬ告白に左右田君から視線が離れなかった。

目の前の左右田君は優しく、触ってしまえばすぐに消えて崩れそうなほどに儚げな笑みを浮かべながら、


「…だからこそ少し心配だったんです。みょうじさんは前の僕を知っていて、前の僕のことを好きになった。…話を聞いている内に記憶を失った僕と全く違う性格だったことに驚きましたし。
正直に言って欲しいんですけど、今の僕は嫌、ですか?」


前の僕の方が良かったですか?
彼の声はそう物悲しげに病室に響いた。嫌いになる理由が全くない。首を大きく横に振る。


「私は好き、昔も今もこれからもずっと左右田君が大好きだよ」


言い終えた瞬間、病院にふさわしくない大きな音が響く。

ドタドタと乱暴な足音はこちらまでやってきて遂には扉をガラッと壊れるんじゃないかというくらいガタンッと引いてきた。
そこには黒服の大柄な男が数人いた。後ろで医者と警官が何人かの黒服と揉めている。


「貴方は左右田和一でお間違いないですか?」


行動とは合わない言葉遣いに私達は目を見合わせるも左右田君は頷きながら話を進める。


「はい、僕は左右田というみたいですが…」
「…記憶喪失なようですが、貴方にある犯罪容疑がかかっています。私達についてきてください」
「…え?」


犯罪容疑…?左右田君と出会ってからそのような容疑をかけられる心当たりが全く無かった。
後ろに従えた部下のような人達が左右田君のベッドの周りを取り囲もうとする。
意味が分からない。突然なんなんだ。


「ま、待って…!それはどういうことですか!?」


私は左右田君の隣につき、庇うように彼の前で腕を広げる。
目の前の男達は服装や風貌からして日本人では無いようだ。


「ノヴォセリック王国の皇室関係者への不敬罪だ。すぐに王国へ行き、裁判を行う必要がある」
「お言葉ですが彼は記憶を失ってるのです!そんな状態で裁判なんて受けられません!」
「ただそこに立つだけでいい。証拠が出揃ったのだから」
「それでも急すぎます!そのような国際問題に発展するのなら日本政府や警察から話を通すべきなのでは!?」


きっと睨みつける。そう、あまりにも急過ぎるのだ。どうやら話を聞いた感じだとノヴォセリック王国の外交官のようだが話が飛躍しすぎている。


「私達の話が聞けないと言うのなら法的な手段を取ります。公務執行妨害としてね…」


ギロッと鋭い瞳が一斉に私の方へ向けてくる。今更妨害なんて知らない。今は左右田君の存在が私のほとんどを埋め尽くしているのだ。あの轢き逃げ事故での絶望から立ち直らせてくれたのも彼の存在あってだ。
私にとっての希望を失う訳には…



「…分かりました」


黒服の男に言い返そうとしたとき、隣から聞こえた静かな声の主に振り向いた。


「そ、左右田君…?」
「只ならぬ様子なので行きましょう。…本当に立っているだけでいいのですね?」
「もちろんだ、ただ立っているだけでいい」
「左右田君っ!?不利な状況だって分かるはずだよ!どうして…どうしてそんなことを言って…」


左右田君の両肩を掴み問いただすと左右田君は表情を変えずに私の方へ顔を向ける。


「今ここで言い合っても何もなりません。最悪みょうじさんが僕を庇った為に捕まってしまいます。それなら僕が自ら行くしかない。
……仮に僕が罪を犯してしまったら大変なことになります。そうなったら僕を庇ったみょうじさんだって無事では…」


何でそんな私のことを考えて言ってるの…?自分が崖っぷちな状況にまで追い込まれているのに…。記憶もないのに、不敬罪だなんて訳の分からない罪を被せられているのに。
左右田君の考えてることがよく分からなかった。


「私知ってるよ…!?ずっと左右田君と一緒にいたし、左右田君がそんな罪を犯す人ではないと!」
「……みょうじさんに出会う前は僕はノヴォセリック王国にいた……そうですよね?
その時期に罪を犯していたら、貴女に大きな迷惑をかけてしまう。僕はそれを1番恐れている」


左右田君は俯くも私の方へ顔を向ける。それはいつになく真剣な表情だった。


「だって僕は貴女を愛しているから」


ドクンと心臓が大きな音を立てる。でも心が温かくなるものではなく、ただ不安と今まで感じてきた喪失感が再び襲いかかってくるだけだ。
その後に彼は申し訳なさそうに笑った。


「…好きだからこそ、行かなきゃいけないんです。…もし僕が犯罪者だったなら僕のことを忘れてください。貴女には立派な表舞台に立てる仕事があります。その仕事を僕のせいで汚して欲しくない」

「え…な、何を言って…」

「みょうじさん、楽しかったです」


ありがとう、と彼は好意に満ちた微笑みを浮かべて私の手を握りしめた。
あまりにも強い力で握りしめてくる。まるでどこか痛みを我慢しているかのような彼の握り方にこちらも強く握り返した。
どうして自分のことよりも私のことを優先してしまうの?
どうしてもう会えない前提で話してくるの?
ただ何も抗えずに虚しく涙が溢れるばかりだった。
嫌だ、この手を離したくない。

左右田君の大きい手が私の手からすり抜けていくように離れていく。ぎゅっと反射的に彼の手を引き止めるも「駄目だよ」と諭される。
いつになく優しいその声に指先ですら動こうとしなかった。


「今から出発する。立ったり歩くのが無理ならこっちの担架で運ぶが」
「…大丈夫です、僕1人で歩けますから」


病院着を着た彼はベッドから降り、外交官と話をして呆然と椅子に座り込む私に背を向けて行ってしまった。
遠ざかる彼の姿が小さくなっていく。
どうして、その言葉を問いかけても答えが出る筈がない。
病室の外で誰かの揉める声が聞こえてくるが内容なんて聞いちゃいなかった。





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