カーテンから射しこむ朝日で目を覚まして起き上がる。 「……ん」 とはいえ眠気が取れない。おかしいなと昨日のことを思い出すと体全体の体温が上がっていく。何だかいつにも増して求めてきたなって。…あぁもう。 照れ臭さと恥ずかしさでいっぱいで考えるのをやめようとしたとき、テーブルの上に白い紙切れが置かれているのに気づいた。 あんなの置いていた覚えはない。テーブルに近づいて見てみると、急いで書かれたような書き置きみたいな感じだった。 「……っ」 文の途中から心臓が飛び出てしまうほどの驚きと悲しみを浴びる。 周りを見渡すとやけに部屋の中が綺麗になっていた。まるで一人暮らしのときに戻ったような…。 自分が眉をひそめ、唇を噛み締めたというのがよく分かった。 私は急いで支度を済ませ、朝だから開いているはずのないバーの方へと向かった。 「マスターっ!」 「なまえちゃん!」 バーの裏口の扉は開いていた。そこには困ったような慌てた様子のマスターと澪田さんがそこにいた。理由なんてすぐに分かった。 そして2人が慌てている様子から、彼がそこにいないと瞬時に理解してしまう。 「…ああ」 「やっぱりなまえちゃんも和一ちゃんを探しているのね、朝から電話来たと思ったら如何にも蒸発しそうな言葉を言って勝手に切られたのよ」 「唯吹もっす。モーニングコールかと思いきや、『みょうじを頼む』この一言だけっすよ」 何よ、それ。 まるで本当にどこかへ行っちゃったかのような言い方。 どうしようもなくて手に持った皺くちゃの紙切れを握りしめると澪田さんが私の手から紙切れを離す。 「どれどれ… みょうじへ 急にこんなことして申し訳ないと思うがオレには時間がない。 ここからすごく遠い所へ行くことになった。 ただ1つ言わせて欲しい。オレは今もこれから先もみょうじのこと大好きだし、みょうじのことをずっと思ってる。 またどこかで会えたらいいな。それまでじゃあな。 左右田 和一 ……うげげっ!和一ちゃんはガチのマジで消失ってことっすか!?な、何で…」 「…分からない、どうしてなんだろう」 左右田君が消えた? 俯いていた顔を何とかあげるとマスターの顔を見るとやけに深刻そうな顔をしている。 「記憶が戻ったのかしら…」 「記憶?」 「その記憶が和一ちゃんに重要なことを思い出させたとか」 「ま、マスター。でしたら私に一言くらい…」 そのときコンコンとノックの音が聞こえ全員がそっちを振り向いた。まさかと思い、マスターが扉を開けたものの意外な人物がそこにはいた。 「……ここが例のバーですわね」 高そうなコートにサングラスで正体を隠していても気品を感じられるその姿はソニア王女だった。 「そ、ソニアちゃん!おひさーっす…!」 「…まあ。みょうじさんがいてくれて助かりましたわ。…左右田さんがいないんですよね?」 「えっ、どうしてソニア王女…いえソニアちゃんが?」 「…わたくしにも連絡が来ました。左右田さんは恐らくですがノヴォセリック王国へ行ったのでしょう」 悲しそうな表情を浮かべる彼女に言葉が出なかった。カタカタと震える口元から質問を沢山したかった。そんな私の近くから聞こえた声はマスターのものだった。 「…何やら和一ちゃんが消えた理由を知ってるみたいね。お話してくれるかしら?」 「……ええ、ここにいる皆様に是非聞いて欲しいのです」 サングラスを取った彼女は一刻を争うかのような緊迫した瞳でザワザワと心が嫌な胸騒ぎを起こす。 カウンターに一列に並んで座り、マスターが飲み物を注いでくれた。大好きなオレンジジュースを受け取って一口だけ飲む。 開店していないバーは朝日を取り込むも私にとっては気持ちのいいものではなかった。 「お話する前に、澪田さんやマスターの方に事前にお伝えします。どうか私の話を聞いてもみょうじさんのことを悪く思わないで欲しいのです」 最初のソニア王女の言葉に先ほど飲んだ飲み物を噴き出しそうになる。 どうして…私がそこで出てくる? 「なまえちゃんのこと信じてるから大丈夫よ、王女様」 「唯吹もっす!ソニアちゃん、続けてください」 2人の言葉を聞いたソニア王女ははい、と小さく頷き話を続けた。 「…みょうじさん。数年前に海外の音楽祭というものに行かれましたか?例えばヨーロッパあたりの」 「…え、ええ。2年前ですかね。音楽の勉強で短期留学しました。3ヶ月くらいかな。その期間ヨーロッパで数多くの音楽祭が開催されていたのを覚えています」 「…ええ、その中にノヴォセリック王国の音楽祭もありました」 「あ、あれ。そうでしたっけ?」 ソニア王女を目の前にして大変申し訳ないが覚えていない。頭の中で思い出そうとしてもダメだった。 「みょうじさんが思い出せないのも無理はありませんわ」 彼女は顔を上げ私と向かい合わせになる。何を言われるのだろうか。何言われてもいいように心の準備をしようとしたときだ。 「だって…みょうじさんはそのときの記憶を消されているのですから」 一瞬にして準備やら何やら真っ白になってしまった。 か、彼女は何を言っているの? 「えぇっ!?」 「そ、ソニアちゃん!どどどどどういうことっすか!?」 「……祖国では一部分の記憶を消す技術を持っているのです。それは高度な医療技術として存在しています。ただ消すだけで記憶の捏造は一切出来ませんし、多数の人達による許可が必要になるもので頻繁に使われませんわ」 「そ、そんな滅多に使わない技術をなまえちゃんに!?」 マスターは息もつけないほどに驚いてしまっている。 無理もない、私も内心驚きすぎて何も言葉が出てこないのだから。 記憶を消す…そんな恐ろしいことを私にしていたなんてすぐに信じられるはずがない。 「実を言うと左右田さんもですわ」 「か、和一ちゃんにも!?…ってことは和一ちゃんが記憶喪失になったって…!」 「ええ、わたくし達が人為的にしたことですわ」 「あ、あのー唯吹はお馬鹿なんで、そうなった経緯を教えてもらいたいっす。音楽祭やら記憶やらごっちゃごちゃっす」 ソニア王女は息を吐きポツリポツリと話し始める。昔のことを思い出しているのだろうか。少しだけ優しい表情を浮かべていた。 「ノヴォセリック王国の音楽祭…あのときは絶対に忘れられません。 左右田さんとみょうじさんが初めて出会った日でもありますから」 … 雲ひとつない晴天の下でノヴォセリック王国の城下町を歩いているときでした。 「左右田さん、どうしてわたくしよりも一歩下がるのです?」 「い、いやー…人前でソニアさんの隣に立つなんて恐れ多くて」 あはは、と困ったように笑う左右田さんと音楽祭の場所へ向かう。 左右田さんとお付き合いしてて楽しいのですがもう少し言葉を崩して普通の恋人のように気軽に話しかけて欲しいものですわと心の中で思いつつ歩いているとふと後ろが気になりました。 「左右田さん…?」 振り向くと、可愛らしい方が左右田さんの後ろにいました。顔つきからすると日本人の方でしょうか。彼女はおどおどしながら左右田さんにハンドタオルを差し出しました。 「…えっと、」 女の子はぎこちない英語を左右田さんへと話しかけながら地面を指差す。ふむ、わたくしは謎が解けました! 左右田さんはついさっきハンドタオルを落としてしまい、この女の子が拾って届けてくれたのでしょう!完璧です! 左右田さんも何となく察したようで女の子からハンドタオルを受け取りました。 「お、おう…オレのだ。サンキュー」 「え、に、日本語?」 「……へっ?いやいやオレ日本人だぜ?」 「…ふふふっ」 思わず噴き出してしまいました。どうやら女の子は左右田さんのことを日本人だと思ってなかったみたいですわね。ハトが豆マシンガンを喰らった顔をしています。…おや、豆鉄砲、ですかね?まぁ意味は同じですわ! 「ふふ、微笑ましい光景ですわね」 「そ、ソニアさん!」 「えっ、ソニアさんって…お、王女様!?」 「あら、そんなに驚かなくても城下街を歩くのなんて日常茶飯事ですわよ?」 「ま、まさかこんな所で出会うなんて思いもしませんでした。し、失礼しました!」 あら、彼女はその場を離れてしまったみたいですわね。…キョロキョロと周りを見渡してます。それに彼女の持ってるパンフレットは音楽祭のパンフレットにこの国のパンフレットですわね。 「ソニアさん、どうしました?」 「…決めましたわ!」 「な、何をですか?」 「あの女の子に話しかけます!どうやらこの国は初めての様子!国のことならわたくしに何でもござれ!ですわ!」 「そ、ソニアさん!?貴女にはスピーチの準備とかあるはず…ま、待ってくださいよ!」 左右田さんの声を聞かず無我夢中で女の子の方へ行きました。わたくしが近づいてきたことに気づいた女の子は遠目からでも分かるくらいビクリと肩を震わせていましたわ。 「わ!お、王女様…!?」 「可愛らしい観光客の方に聞きますわ。お困りみたいですが何かあったのですか?」 「そ、その音楽祭ってどこでやるのかなって」 「音楽祭ですか!音楽が好きなのですか!?」 「日本の方で音楽を勉強しているんです。クラシックやジャズ中心ですけどサックスを吹くのが好きで」 照れ臭そうに話す彼女の目はキラキラとしていました。何だか懐かしい目をしています。かつて日本にいたときも左右田さん含め皆さんが希望に満ちた目をしていましたからでしょうか。 そこに親近感が湧いたのでしょう。後ろにいた左右田さんも彼女に話しかけます。 「ほー、っつーことは他の国にも行ってんのか?」 「は、はい!3ヶ月程ヨーロッパを回っていく予定です。ノヴォセリック王国は特殊で音楽祭が3日間も続くと聞いてどうなるのか楽しみなんです!」 「ええ、国中がお祭りになるのです、楽しんで欲しいです!…そうですわ!」 わたくしの大きな声に女の子と左右田さんは一斉にわたくしの方へ向きました。 「わたくしから直々に指名します、左右田さん!彼女をエスコートしてくださいまし!」 「へっ?オレがっすか?」 突然の言葉に左右田さんが大変驚いています。 「ええ、わたくしもサポートしますがやはりわたくしも公務というものがありますので…それに左右田さんこの王国で暮らし慣れていますし、同じ日本人視点として彼女の滞在の手助けになると思いますわ!」 「……ソニアさんがそういうならオレはやりますよ。手助けになるか分かりませんけど」 「決まりですわね。でしたら可愛らしい方の名前を教えてもらいましょうか」 わたくしは彼女の方に目を向けるとは、はい!と姿勢を直してわたくしと左右田さんに軽くお辞儀をする。 「私はみょうじなまえといいます。あの…ありがとうございます!」 「いいって。音楽祭は整備士の仕事もねーし、何よりソニアさんのご指名だしな。オレは左右田だ。短い間よろしくな!」 ふむ、ジャパニーズキズナってやつでしょうか!異国の地での一期一会…素晴らしいですわ。 … 「それから左右田さんから3日間のことを聞きましたわ。実に楽しかったみたいです。話を聞くたびに微笑ましいともさえ思ったのです」 「……それが本当なら、記憶を失くした和一ちゃんがなまえちゃんの所へ来たのって」 「……お互い記憶を失っている状態でしたから誠に信じられないですが、きっと左右田さんはみょうじさんに会いにきたと思うのです」 「………そ、そんな……」 「みょうじさんは左右田さんに頼まれたんですよね?泊まらせてほしいと。怖かったはずです、見ず知らずの男が一人暮らしの女性にそう言ってきているのですから」 一斉に視線が私の方へ集中する。 マンションの前で初めて会ったときの会話を思い出す。…厳密には初めてではないのだけれど。今思えば確かに衝撃的な出会い方だ。 「た、確かに怖かったです。急に腕掴まれましたし。…けど不思議とナンパするとか襲うとかそんなことはしなさそうだと思ってたんです」 「なまえちゃん、それ和一ちゃんだったから良かったもののっす…」 「そ、そうだけど!…今思えば不思議な人でした。柄悪そうなんて思ってましたけど初めて会って安心感を感じてたんです」 「…記憶は消せても潜在意識は消えないのでしょうか。2人は心の奥底で本当に絆を作っていたのかもしれません。だから記憶を失ってもこうして2人が出会っている。わたくしは日本へ来て実に喜ばしいことだと思っていました。…このまま幸せになって欲しかった」 ソニアさんは目を閉じ、わたくしがしっかりすればと一言だけ呟く。その言葉に重みを感じたのはきっと私だけではない。 「みょうじさん、…来日パーティでわたくしはあなたに嘘をついてしまいました」 「え、嘘ですか?」 「はい、わたくしはあなたに会いたくてここに来たと言いましたが…会いたかったのはみょうじさんじゃなかったのです」 |