気まずい、かなり気まずい。 この空気がものすごく不快で大嫌いだ。 何とか平常心を保ちながら練習に励んでいるがそれでも空気は凄まじいものなのか知り合いの演奏者はみんな離れていった。 「大丈夫?気分悪いみたいだけど」 貴方のせいだよなんて直球で言える性格だったら良かったのにと思いつつ、なんてことのない返事を返した。 「明日は遂にショーの演奏会だからね。曲はもう完璧だ。後は明日のコンディション次第だから頑張ろう」 流石に気づかってくれたのか分からないが今日は早く終えることが出来た。 だが一難過ぎ去ってまた一難なのだ。 「あらー、なまえちゃん早かったじゃない!」 「はい、お疲れ様です」 「お疲れ、みょうじ」 「……うん、左右田君もお疲れ様」 マスターと左右田君に出迎えられ笑顔を作る。 あんなことがあってからまともに左右田君の顔を見れなくなってしまった。 息苦しくて辛い。いっそのこと問い詰められたら楽なんだろうけど… 「和一ちゃん、ちょっと倉庫に行って在庫数えてくれる?」 マスターが左右田君を呼び、在庫表らしき紙を渡す。 「りょーかい」 数えるものが多かったのだろう。左右田君は紙を見た途端に気だるげな声を出しながら倉庫へと向かった。 その後ろ姿を見送るとマスターは誰もいないカウンターテーブルにオレンジジュースを置いた。 「なまえちゃん。ちょっとお話しよっか」 「ま、マスター」 「最近嫌なことあったんでしょ?それも和一ちゃんのことで」 「……!」 「大丈夫よ、しばらく和一ちゃんは離れてるから思い切り話しちゃいなさい!」 「…すいません、マスター」 やはりマスターには見破られていたようだ。私はオレンジジュースが置かれたところに座り、今まであったことを話した。 マスターはうんうんと話に頷き、私が話し終えるとマスターは感情を顔に出して言葉を私に浴びせる。 「そんなの、なまえちゃんを手に入れたい為の口実よ!」 「でもあの書類をでっち上げたとは思えないんですよね」 「ん、そうねぇ…大手の探偵事務所を騙るリスクはないわ。こっちが調べちゃえば嘘がバレる。だとすると本物かもしれないんだけど、正直今の和一ちゃんにそんな過去があったとも思えないわ」 「そうなんですよね〜……はぁ」 マスターの言葉に賛同しつつ大きな溜息をつく。 「というか2人付き合ってなかったのね」 「…え、そりゃそうですよ!言わせてもらいますとマスターの早とちりです!」 「ええ…でも澪田さんとか他の演奏者は貴女が和一ちゃんと付き合ってると思ってるらしいわよ。そのくらい仲良く見えたのよ!」 「澪田さんまで…あっ!」 「どうしたの?なまえちゃん」 「澪田さん、左右田君と同じ学園出身です。もしかしたら何か分かるかも…」 「あら、そうだったの!?今いるんじゃないかしら!」 マスターは行ってきなさい、と私の肩をポンポンと叩いて私を見送る。 澪田さんは話しやすいからいいのだけれど、内容が内容だけにすごく言いにくい。 目立つ髪型をした澪田さんに声を掛けるといつもの笑顔とテンションで出迎えてくれた。 「おっなまえちゃんっすー!今日もカワイイっすねー!」 「お疲れ様、澪田さん。あの、左右田君のことで少し話したいことがあるんです」 声が吃りながらも話すと澪田さんは一瞬真顔になるもののそれを取り繕うかのように笑顔を見せた。 「…ふーむ、なるほどなるほどぉ」 「ん?」 「いいっすよ!ただこれは唯吹達だけで話したいことっすねー!女子の恋バナってやつっす!」 「それなら私の車の中でいいかな?」 「オッケーっす!早速なまえちゃんと2人きりになるっす!」 澪田さんに腕を組まれつつ、バーの駐車場に向かう。 あ、と息を飲む。店の外へ繋がる扉を開けるときに視線を感じて振り向いたときには左右田君がカウンターに向かう姿を見つけ、一瞬目があったような気がしたものの今は澪田さんの話を聞くべきだと自分の車に目線を写した。 「ごめんね、私の車の中で」 「何言ってるんすか!なまえちゃんと2人きりになれるなんて胸がドキドキっす!……ただなまえちゃんは唯吹ではなく和一ちゃんのことで話したいんすよね……」 「ほ、本当にごめんね。来週あたり一緒にご飯食べに行こっか!」 「いいんすか!言質取っちゃいますよ!?」 「うん、いつもお世話になってるからね」 「キャッホー!なまえちゃんにすこぶる甘えられる日が出来たっす!それなら唯吹の知ってることなら話しますよ!」 表情をコロコロと変えるなんて疲れないのかなぁなんて思いつつも澪田さんらしいなって微笑ましい。澪田さんが好かれる理由はここにあると私は確信している。 「さて…和一ちゃんっすね…。正直今の和一ちゃんに違和感なんすよ」 「えっ」 車の窓から見える景色を眺めながら澪田さんはポツリと呟く。 「いやぁ…そのぉ…言っちゃっていいんすか?」 「左右田君には恋人がいる」 そう言い切ると澪田さんはすごく驚いていて私から目線を逸らしてしまった。 「……知ってたんすね」 「うん、ちょっとね」 「申し訳ないっす…ソニアちゃんと和一ちゃんは本当に幸せそうで、だからこそ今何でなまえちゃんの所にいるのか本当に不思議なんすよ」 「ううん、澪田さんもそう思ってたんだね」 「なまえちゃん、勘違いしないで欲しいんすけど…和一ちゃんは決して浮気するような人間じゃないっす。これだけは言わせてください」 「分かってるよ。だから何か知ってたら教えて欲しいなって」 「……………んー、これは唯吹の勘になっちゃうんすけどぉ…」 澪田さんは考え込むポーズを取っては溜息、また同じポーズを取っては溜息を繰り返していたが言う決心がついたようでゆっくりと言葉を紡いだ。 「唯吹、和一ちゃんと再会して色々話していたんすけど…話が噛み合わないんすよ」 「噛み合わない?」 「和一ちゃんはソニアちゃんを追いかける形で国外へ飛び出しちゃったんすけど…それを"卒業旅行に連れて行ってもらった"と言ってるんすよねぇ」 「卒業旅行……」 まただ、左右田君は私にも澪田さんにも卒業旅行と言っているのだ。しかも澪田さんは左右田君の同級生だからそんな嘘ついてもすぐにバレちゃうのに。 「まぁ…和一ちゃんに合わせて話を聞いていたんすよ。きっと青春していた和一ちゃんにも心の傷が出来ちゃったと思って。そしたら今はソニアちゃんのことを一切話さないんすよ。学園にいたときはソニアちゃんのことばっかり話していたのに。 卒業した後のことを勇気を出して聞いても教えてくれない…というよりはまるで知らないというような…その期間だけの記憶を失っているような感じっす」 「……卒業後…記憶……」 きっと何かが起きたというのは間違いなかった。しばらく黙り込んでいると澪田さんが私を見つめて静かに口を開く。 「…まぁ、これは唯吹の勘違いかもしれないんで忘れてください」 「うん、ありがとう」 「……なまえちゃん」 「わっ、何々!?」 突然運転席へ乗り出した澪田さんは私の膝の上へ跨った。段々と上がっていく体中の体温をどうすることも出来ず、太ももに感じる女の子の柔らかい感触と温もりにパクパクと魚のように口を開けるしかなかった。 「どんなことがあっても唯吹はなまえちゃんの味方っす。なまえちゃんを傷つけるならいくら和一ちゃんでも許さないっすよ」 「あ、あの澪田、さん…?」 すると私の背中に澪田さんの手が入り込み、抱きしめられる。 「…!え?」 ただ彼女の名前を呼ぶと私の首元でふふっと笑う声が聞こえてくる。彼女の声は元気な声ではなくどこか艶めいて聞こえた。 こ、これはどうすればいいの…。とりあえず、抱きしめ返せばいいのかな? 彼女の細い体に両腕を回そうとしたときだ、急に澪田さんは私の上から助手席へ移動し、豪快に笑い出した。 「……キャハーッ!なまえちゃんってピュアっすね!」 「えっ」 「ジョーダンってやつっす!顔赤くしてカワイイっすねー!これは他の男子に見せたくないっす!」 「か、からかってたの!?びっくりしちゃったよ!」 「てへりーん!これで元気出たっすか?」 「う、うん、ありがとう」 「困ったらちゃんと言うっすよ!」 澪田さんにおもちゃのように翻弄されてるなと思いつつも、私は心の底では左右田君のことを考え続けていた。 やはり私から直接聞き出さなければならないみたいだ。もっとストレートに伝えるべきだと。 その後は澪田さんとの来週のデートのプランを考えて楽しい時間を過ごし、車から一旦出ようかとなったときだ。 「お、唯吹のライバル登場ってやつっすか?」 「澪田さんのライバル…?…あっ!」 そこには私服姿に戻った左右田君の姿がいた。明らかな不満顔を私や澪田さんに向けている。 「ライバルっつーのは何だ?澪田」 「和一ちゃんだって分かってるんじゃないっすかー?」 「オレには分かんねーって」 「そうっすか?ならなまえちゃんは貰っちゃいますよー?ウハウハでムラムラなことしちゃいますよ?」 「はっ!?澪田さん何を言って…!?」 澪田さんの挑発するような言葉に耳を疑った私は思わず澪田さんを見つめたものの、おぞましい視線を背後から感じる。 「女であるオメーが、どうやってみょうじにそんなことするんだよ?」 冷たく、機械的なその声はいつも明るい左右田君から出たものとは思えなかったがどこか語尾が震えている。言い慣れない言葉だったのだろうか、そこが少しだけ左右田君らしい。 「ふふふ…和一ちゃん本性が出てきたっすね!なまえちゃんのこと気になってるのが丸わかりっす!」 「はぁっ!?な、何でそんなこと言えるんだよ!」 「その動揺ぶりが証拠っすね、さては唯吹となまえちゃんの百合百合っぷりを想像したんすかねー?ねー、なまえちゃん!」 「えっ!?待ってよ、そんなこと私に振られても…!」 これは最悪喧嘩になってしまう流れだ。ここは私が止めるしかない。 「あ、あの2人共落ち着いて!ね?」 「……いーんだよ、みょうじ。これも澪田の冗談ってやつだろ?」 「ムッハー!バレちゃったか!」 「そりゃそーだろうよ、オメーのノリなんて昔思い知らされたからな」 「さ、流石っすね!…っとここでメンバーに呼ばれている気がするのでお暇させてもらうっす!じゃあねーなまえちゃん!明日のショーは観に行くっすよ!」 「うん、バイバイ!」 明るい天真爛漫な笑顔を見せながら澪田さんはその場から離れた。姿が消えるまで手を振った後、左右田君の様子を伺う。 澪田さんと話した後は疲れがドッと出たような疲労感に満ちた表情を浮かべている。 「お疲れ様、左右田君。帰ろっか」 「…ん。おう」 車はいつも通りの帰り道を走っていく。夜中の帰り道は僅かな街灯だけで他に通っている車なんてどこにもなかった。 「なぁ、」 「ん?」 「…オメーはまだ大丈夫か?」 「…大丈夫とはどういうこと?」 「その、少し話がしたくてよォ…けど明日ショーが夜にあるから準備とかいるのかと」 話…、それがどんな内容か分からなかったけど左右田君から話してくれる話は何でも聞きたかった。 「いいよ、まだ眠れないからね」 「オメーの家でも車の中でも話しにくいんだ、海とか見ながら話したいんだけど大丈夫か?」 「海……か、いいよ、停められる所まで行こっか」 「悪いな」 車の窓を見つめながら彼は呟く。静かに海へ向かうウインカーを鳴らしながら車を海まで走らせた。 誰もいない駐車場に車を停め、2人で少しだけ歩くと潮風の匂いがしてくる。 夜空のように黒い海から現れる黒い波は静かに押し寄せてはゆっくりと水平線へ引かれていく。 ザクザクと砂の踏む音を2人で鳴らしながら歩いていた。 ふと目の前に立っていた彼が立ち止まり自分も足を止める。 暗くて顔がよく見えなかったものの、彼は近くの石の階段に腰を下ろした。 彼が座ったことで彼の表情がよく見えた。私を見上げては不審そうな顔を浮かべる。 「何ボーッとしてんだ?座らないのか?」 「ん、ごめんね、」 ずっと見ていたなんて言えなくて自分も左右田君の隣に座る。 座った先は白い砂浜と黒い海、水平線の奥には漁をしているのか船がチラホラとわずかな光を伴っていて、斜め先に遊園地のアトラクションであるライトアップされていない観覧車がシルエットとして浮かぶ。 他に誰も通る気配がしない。外なのに2人きりの空間に入ったかのような感覚だ。暫く波の音を聞いていると彼の声が聞こえてくる。 「オレのこと、怖いか?」 「え?」 「いや、オメーも女だからさ…知らない男に泊まらせてくれって言われて怖かったんじゃねーの?」 「そりゃ、怖かったよ。けど、結果的に放って置けないというか…優しかったから良かった」 「…じゃあ、今は?」 「今?」 「オレが何者かも知らなかっただろ?オレは何も自分のこと言ってねーから」 「…それは…」 ここまで来て喉の奥が震える。 この話の切り出し方からすると今夜彼の過去が分かるんだ。 もしモノクマの言うことが本当なら、左右田君と離れなければならないと思っているから。 それが何よりも怖かった。今ではすっかり彼の存在が私の中で大部分を占めていたから。彼が消えてしまったらどんな悲しみが襲ってくるのだろうか。 恋なんてしなければ…好きだって思わなければ…酷く後悔している。 「…それは気になっていたことだよ。だって何にも話してくれないから、私じゃ話せないようなことなのかなって」 「……」 「いつか話してくれると思って、信じて待っていたんだ」 「………」 「…話してほしいな、左右田君」 やはり気になってしまう。左右田君に何があったのか。それがどんなに彼に恋している私が苦しむことになっても、話して欲しかったのだ。 「…分かった、オレの知ってる限りで話す」 「ありがとう」 冬の潮風に体を震わせながらもこの後の左右田君の言葉を待ち続けた。 |