終業式。ただ先生の長ったらしい話を聞いて数枚程のプリント貰ったら夏休みの始まり。
…なのだが3年生は受験生だから数日間ほど補講という形で学校に行かなければならない。
補講は成績不良者数人と希望者だけ。オレ自身は補講に引っかかることもなかった。それに、春の模試では目指していた高校の合格ラインに余裕で入っていたから、補講を受けずに悠々と夏休みに入れる。やっとこの重苦しい場所から解放されると思うと嬉しかった。
みょうじはプールの授業だと知ると相変わらず逃げるように学校を休んだ。露骨に休んでいれば流石に他のヤツらにもみょうじが泳げないということは知っていた。
クラスのホームルームも終わり、周りは一気に夏休みモードに気持ちを切り替えた。遊びの約束を取り付けるヤツも入れば夏期講習で今日から塾に行くヤツもいた。


「ねー、みょうじちゃんはどこかへ遊びに行くの?」


三谷の教室中に響く声に明らかに何人かが反応した。かくいうオレもだが。みょうじはカバンに教科書を入れながら、三谷の質問に答える。


「どこも行かないかなぁ。勉強しなきゃだし、補講もあるから」
「えー、みょうじちゃんってどこ目指すの?平均的な所はヨユーで行けそうだけど」
「まだ決まってないんだ。でも苦手な所克服したら進路先の幅が広がるから損は無いって」
「でも息抜きがてらどこか行かない?俺らと女子達何人かでさ!ほら、8月にこの街で大きな花火大会があるし」


一瞬だけ目を閉じる。濁りのない水に墨汁を垂らし、その雫が広がっていくように嫌悪感が心の中で溢れた。
オレは三谷をよく知っている。アレが起きるまではオレ達は小学生のときから毎年のようにその祭りに行っていた。屋台も多いし、よく馬鹿な話をして楽しんでいた。
もうあの頃の三谷はいねーし、そんなヤツが今あんなヤツらとつるんでみょうじを誘っている。
まるでオレの反応を見て嘲笑うように、ケラケラと笑いながら。


「…ありがとう。でも私の親って厳しいんだ。怒らせると大変だから」
「そっかぁー、ま、俺も親には逆らえねーわ」
「うん、誘ってくれてありがとうね」


一連の会話が終わると耳を傾けていたヤツは部活に行くか、帰ることになった。
…さっさと帰るか。オレはこの場に友達なんていやしねーし、帰って機械弄った方が何倍も楽しい。椅子を引いて立ち上がり、あいつらとみょうじ達の後ろを通り過ぎようとしたときだ。


「あっ、みょうじってさぁ…体育の補講に呼ばれてるんだろ?水泳出なかったんだから」


河西の声に立ち止まりそうになるも歩を進める。しかし、その歩を止めるような一言が一之瀬から吐き出された。


「体育の補講1人なんだろ?頑張れよ」
「1人…?」


みょうじの戸惑うような声に振り向くも河西の鋭い瞳と目が合ってしまい、仕方なく教室から出るしかなかった。
廊下をゆっくり歩くと女子の噂話が聞き取れる。その噂話はオレでも知っていた。
『体育の先生が男女関係なくセクハラをしてくる』と。モヤモヤとした感情が渦を巻いている。確かに体育でさえも休みすぎると補講はあると聞いたが補講の内容は未だに明かされていない。しかし、水泳となると実技…となるのか?いやいや、駄目だ。変な想像はしない方がいい。
…万が一の為にホームルームで貰った補講の日程を確認する。体育と被っているのは…あった。来週の水曜日。午前に数学、午後に体育と書かれている。
学校には行きたくねーけど…、あいつの困った声が妙に胸騒ぎがする。それに数学をやる教室からはプールを見ることが出来る。しかし、補講にみょうじが来なかったら完全に無駄足だ。でも来てくれたらみょうじの水着姿が見られる…そこまで考えて我に返ったときは、オレは自分を殴りたくなるほどの自己嫌悪が広がった。そんなつもりなんかじゃねーのに。





数学の補講は相変わらず人が多い。教室が埋まるほどの人の多さ、朝から早く来て正解だった。内容はもう分かりきっていて退屈だった。
長い授業を終え、貰ったプリントをしまう。他のヤツらは遊びに行くのだろうか。そそくさと荷物を持って教室から出ていく。

……気づけば教室にいるのはオレだけか。
1週間ほど期間が空いて分かったのは、オレの今の生活にみょうじが多くの部分に関わっていることだ。みょうじの全てを信用出来るものならしたかった。
怖かった。主犯のあいつらと関わっているみょうじが。学校では話せないね、とかいいつつもオレの聞こえない所であいつらと陰口を言っているのでは?
こんな考えは否定したくても出来なかった。過去がどうしても希望を持たせてくれなかった。

窓枠に肘を突きながら窓から見える景色を見渡す。濁りなんてない青空。けたたましい蝉の声。微風にも満たない真夏特有の熱風。グラウンドで走り込みをするサッカー部の連中。上から微かに聞こえてくる吹奏楽部の演奏。まさに夏休みの学校を体感している最中だ。
アイス食いてェな……。1人で考え事をしているとある場所に目線が釘づけになる。


「みょうじ?」


そう認識すると途端に心臓の鼓動が速く脈を打つ。プールにいるのは簡素な服を着た先生とスク水姿のみょうじがいた。
最初は水泳キャップとゴーグルをしていたから分からなかったものの、補講の対象者はみょうじだけだ。ならあいつはみょうじに間違いないだろう。

…あのスク水姿のヤツがみょうじだとすると目線が離せない。他の女子達には失礼だが、まるでどこかのお嬢様みてーな気品が教室のところからでも分かる。……あいつの住んでる所からしてお嬢様だと思うが。
水泳をサボっていたからか、みょうじの肌はスゲー白くて太陽に照らされ眩しく感じる。何よりもスタイルが良いんだよな。
…1人でこう思っていると、あいつに気持ち悪がられそうだからこれ以上の感想はやめよう。

みょうじは先生の近くで泳ぎ始めるがすぐに足を底につける。足と手の動きがめちゃくちゃな状態だ。まるでみょうじに操作されたゲームキャラクターのように。ありゃ相当苦手だな。
深い溜息をついていると、先生がプールの中に入り込み、みょうじの手を取る行為に不思議と嫌な予感がした。気のせいだろうか。

みょうじの手を引いてバタ足の練習をさせ、先生は後ろに後退りする。小学生なら分かるが、中学生相手にそんなことするだろうか。
汗が額から流れ落ちる。暑さからか冷や汗か分からないまま、オレはその瞬間を見逃さなかった。


「なっ、あの野郎……っ!」


プールから上がり、プールサイドを歩くみょうじの後ろから突然男が抱擁を始めた。
みょうじは腕を引き剥がそうと、声を出そうとしても男の手によって塞がれている。

体の中から怒りは激しい大津波のように広がっていき、プールまで走り出す動力にもなった。
嫌な予感が当たった。獣のように釈変した男はもうオレからしたら先生と呼べなかった。
息を継ぐ間もなかったかのようにいつの間にかオレはプール場の入り口まで来た。


「……はぁっ!?」


古びたステンレス製のフラッシュドアを開けようとしてもノブが回らない。あの野郎、鍵をかけやがった!ドアに耳を近づけて聞き耳を立てる。中から大きな物音は聞こえない。ドアにつけられた窓は曇りガラスで上手く中が見えない。どうすればいい?パニックになる頭を落ち着かせようとふと下を向く。
…ふと、あることに気がついてズボンのポケットを漁るとオレの愛用している小型の収納型マルチツールが出てきた。このマルチツールはドライバーが入ってる。これでドアノブを取って鍵を外せば。

やるしかない。考える間もなくドライバーでドアノブについたネジを取る。焦るな、でも速く。ノブがするりと外れ、今度は内部の部品を弄る。手応えは充分だった。カチャリと鍵が外れる音がして、少しの達成感を感じる。へっ、オレの敵ではなかったな。そう口角を上げつつもドアを開け、中へ入る。


「……あっ!?」


塩素の匂いがする脱衣所、蛍光灯の電気も点いていない薄暗い場所で人影が2つ、オレの姿を見ては驚きの表情を浮かべている。
同時に声を上げてしまった。ヤツはみょうじを壁に追いやっては逃げられないようにみょうじの両手を片手で掴みもう片方はみょうじの脇腹辺りを掴んでいた。


「そ、左右田…君」
「…何でここまで来てるんだ!戻りなさい!」


ヤツのキツイ命令口調にギリっと頭が痛くなるほど歯軋りをする。
みょうじが、とかそんなの関係なく生徒相手に手を出す目の前の大人が許せなかった。血が逆上していくかのような感覚に陥り、気づいたときには人の背中を思い切り殴っていた。


「ウッッ」


情けない呻き声を上げた男は一瞬だけ手の力が抜けたようだ。その隙にみょうじは男の手から解放され、オレの近くまで回り込む。


「左右田……ッッ!お前が何をしたのか」
「オメーに言われる筋合いなんかねーよッッ!!」


脱衣所に響くオレの叫び声で隣にいたみょうじが肩を震わせる。怯えた表情でオレとヤツを交互に見渡す。ヤツに聞こえないように小声でみょうじに話しかける。


「……着替えてこいよ」
「そうしたいんだけど…」


戸惑うみょうじを横目にヤツの方を見て察した。…"あっち"のロッカーか。
なら、引きつけるしかない。


「へっ、生徒に殴られてよろめきやがって。それでも体育の先公かよ」
「左右田ッ!」


下手な言葉遣いで挑発したが上手くいったようだ。ヤツはオレの方へ猪のように走り出してきた。あまりに間隔が長すぎるとみょうじに手を出してしまうかもしれない。捕まるギリギリまで引きつけて逃げ出した。
……のだが、オレは頭の中テンパってしまった。プールの方へ逃げるという間違いを犯してしまった。


照りつける太陽の下、隣は水面が煌めくプール。プールの周りをグルグル回れば時間稼ぎは出来るだろう。怒り叫ぶ背後から逃げ出す。ある程度距離を取れば大丈夫…

…だった筈だが、プールサイドに着いた途端何かを投げつけられた。


「っ!?」


ヤツが持っていたのは予備のコースロープだろうか。それを縄のように投げつけられ、運悪く当たってしまったオレはバランスが取れずにプールへ突き落とされてしまった。


オレが落ちた水音以外には何も聞こえない。落ちた勢いでメガネが外れて辺り一面がボヤけてしまう。
首元、足首の服の隙間から水が勢いよく流れ込んでくる。口や鼻から僅かな空気が泡となって水上へ浮遊する。
くそっ。重くなった制服に抗い、水面へ顔を出した。一気に暑苦しい空気が肺に入ってきた。
のも束の間だった。乱雑に背後からオレの髪が掴まれ、水の中に押し込められる。


「……ッッ」


ヤツが何かを叫んでいるようだが、水中は何も聞こえない。空気を十分に吸えていないせいでさっきよりも苦しくなってくる。オレの頭を掴んでいるこの手が憎い。ソイツの手を掴んで、足を後ろに蹴り上げて後ろにいるヤツから離れようとするも水中で力を出せず呆気なく避けられてしまう。
水中での抵抗は明らかに無駄だった。マズい。このままだと息が…。


体内に水が入り込む直前に、急に押さえつけられていた手の力が抜けるのを感じた。
今だと必死に顔を上げ、地上の空気を吸い込もうとしたが、いつもの呼吸が出来なくて咳き込むことしか出来ない。ヤツの姿を探すとそこには大きな人集りが出来ていることが分かった。


「左右田君っ!」


プールの真ん中で棒立ちになっているオレを心配する声が上から聞こえる。
メガネがなくて輪郭がボヤけているものの、間違いなくみょうじだった。色からして…制服に着替えたのだろう。
メガネを取る為にもう1回潜ってフレームの所をつまみ上げる。メガネをかけるといつもの鮮明な風景が映し出された。

目の前には首回りにタオルをかけているみょうじがプールサイドで座り込んでいて、プールの出口に先生達がオレらを見ながら話していた。ヤツの姿はどこにも無かった。


「大丈夫?」
「……おう」


小さく頷いてプールサイドから上がる。シャツやズボン、靴までもがベットリとオレの肌に纏わりついてくる。不快だ。物凄く気持ちが悪い。しかし、幸い今日は太陽がジリジリと照りつけてくる。少し日に当たればマシにはなりそうだ。
プールサイドで互いに座っていると先生達に呼ばれ、2人で出口の方へ向かう。ある1人の先生が申し訳なさそうに口を開いた。


「……左右田君、みょうじさん。このことは先生達だけで話し合って解決させるから他の生徒達には他言しないでね」


耳を疑った。大人だけで解決する…この言葉に違和感を覚えた。


「先生達だけ、とは…」


みょうじが恐る恐る口に出す。その様子なんて気にもせずに淡々と先生は話し始めた。


「その、ね、最初みょうじさんから聞いたときはビックリしたけど、あの先生も悪気はないと思うんだ。だから状況とか把握した上で君達にも話を聞くから待っててほしいんだ」


そうか、先生達がここにいるのは着替え終わったみょうじが助けを呼んだんだな。
…だが、オレ達を落ち着かせるように話す先生達のことが今この場で嫌いになった。
信じられねェ。オレは挑発したからまだしもみょうじは襲われたんだ。実際に教室から、脱衣所から目撃したんだ。先生に抱擁される補講なんて聞いたことがない。完全に悪気がある態度だ。あんなヤツの話を聞いた上でオレ達の話を真摯に聞いてくれそうになかった。
なあなあにされそうな状況に酷く腹が立つ。


「……そうですか。話は大体いつになったら聞いてくれますか?」
「え?」
「そうだね、明日になったら聞かせてよ。左右田君もね。今は冷静になってね」
「…本当ですね?」
「ああ」

「……左右田君、行こう」
「え、みょうじ!」


みょうじは目を伏せながら先生達の間をすり抜けて突っ切っていく。オレは戸惑いながらあいつの後を追うしか無かった。


「何でだよッ、オメーはあれでいいのか?」


周りは部活動に夢中でオレ達に目もくれない。周りに構わずみょうじに叫んでしまう。
明らかに先生達は怪しかった。その様子はみょうじにも分かってるはずだ。


「うん、良くないよ。だから納得するフリをしたの」
「は……?」


何がなんだか分からないオレにみょうじは首にかけていたタオルをオレの前で広げた。白い花柄のタオル…そこに似つかわしくない小さい何かが付いているのに気づいた。


「これ、何だと思う?」
「んー。さあ。ただの四角くて黒い物体にしか」
「そうだねぇ、答えは明日学校でだるーい話を先生にした後に教えてあげる!」


この場で教えてはくれないのか。はぁと溜息をつく。
すると、みょうじは突然オレの手を握ってくる。あまりにも急すぎる展開に頭の回転が追いつかない。


「はっっ!?」
「左右田君、ありがとう」
「え?」
「あのとき、怖かったの。抵抗も効かなくて誰か来てほしいってずっと思ってた。だから左右田君が来てくれたときすごく嬉しかったんだ。まるでヒーローみたい」


少し早口気味に話すみょうじの手は震えていた。あいつの両手に包まれたオレの手が振動を伝うことでやっと気づいた。
さっきまであんなことがあったのに明るく振る舞っていたのは無理矢理自分を落ち着かせていたのではないか。
そう思うと目の前のあいつの笑顔さえも作り笑いのように見えてくる。非常に痛々しく見えた。


「怖かったよな」
「…うん」
「無理に笑うなよ。家まで送ってやろうか?」
「……お言葉に甘えて」
「よし。あー…カバン取ってきていいか?」
「私も教室にあるんだ」


分かったと頷いてオレ達は教室に向かう。
靴はまだビッショリと濡れていて、やむなく上履きを履かず、靴下の状態で校舎の中に入ることになった。







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