桜月の入り



そろそろこのコートをしまう時期だろうか。
体から汗が流れているのを感じながらそう思った。
3月の終わり、桜も咲き始めて暖かい風が強く吹き荒れる。それは春が訪れたと思わせる気候現象のひとつだった。
待ち合わせ場所で人を待っていると強風によって髪を揺らがせながら彼女がやってきた。
お待たせ、と彼女は笑う。その笑顔はいつもと変わらない筈なのに陽の下で照らされると美しい輝きを纏っている。僕は縦に頷きながら相手に悟られないよう、目的の場所まで共に歩いた。
会話は彼女のお陰でよく続いた。彼女の好きなスポーツチームのことや、好きな動物のことや、街の中のアパレルショップを見れば洋服のことやら、どの話題でも楽しそうに話していた。それは少し誤魔化しているようにも僕は思えてきて、胸が痛くなる。

河川敷に辿り着くとやはり人の混雑が多い。予想していたことだが、見える景色は思わず感嘆の声をもらす。満開の桜並木がずらっと並んでおり、川の流れに乗って桜の花びらが緩やかに流れていく。その桜の下で写真を撮る者も少なくは無かった。


「写真は撮るかね?」
「ううん。散歩したいな」
「では行こうか」


みょうじくんは桜景色に目を輝かせながら眺めている。しかし、このままだと気を取られて他の人にぶつかってしまいそうだ。人混みに流されそうなところを腕を掴む。出来る限り人の少ない方へ手を引いていくにつれ、彼女に手を振り払われた。しまった。少し力が強かっただろうか。嫌だっただろうか。そう思う間に彼女は僕の手を掴み、僕の方へ身を寄せた。


「ごめんね?」


みょうじくんは悪戯っぽく笑う。彼女が気を取られていたからなのか、それともこの手の温もりのことを言っているのか、僕には分からなかった。

やはり今日は春というよりは初夏に近い暑さでコートなんて要らなかったな。でも夕方にはこの暑さも終わるだろう。時間が進むにつれ言いにくい言葉ではあったが、そろそろ行こうと呟くと彼女は何も言わずにこくりと頷いた。彼女は今日から新しい所へと帰るのだ。こうして2人で出かけるのも暫くないだろう。駅の改札までやってくると、胸の高鳴りが体の中で高まっていく。ここまでずっと手を繋ぎっぱなしと気づいた。それ程離したくない。彼女の温もりを感じていたくて手を握ると彼女も強く握り返した。


「桜が苦手になりそうだよ」
「それは何故?」
「今日は綺麗な桜だったよ。だからこそ今日を忘れられなくなっちゃう。石丸君と別れちゃうこの日を思い出したらこの先辛くなっちゃいそう。最早春という季節自体が苦手になっちゃう」
「桜もとんだとばっちりを受けているな」


それは桜に悪いけど、って理不尽な文句を言うみょうじくんの頭を撫でた。文句はピタリと止んだ。


「それならまた会う日も春にしようではないか。桜が咲く日に再会すればきっとみょうじくんも春が好きになる」
「そうかな」
「もちろん。みょうじくんが帰ってくるときでも、僕がそっちへ遊びに行くときも。なんなら夏も秋も冬もだ」
「……うん。ありがとう」


他に人がいるにも関わらず一瞬だけ彼女を抱きしめた。彼女は僕の行動に驚いていたようだったがすぐに受け入れてくれた。
電光掲示板の時刻表に目をやると、みょうじくんは別れの覚悟がついたようだ。また会おうね、と呟いてホームの方へ向かっていった。時折振り向いて彼女は僕に手を振る。僕は右手をあげ、名残惜しくないように手を振った。また会える。いや、会ってみせる。そう分かってても、彼女の手を握っていた右手は暫くの間冷たく感じた。


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