名前は不思議な奴だった
不思議は不思議だが、その思考は単純明快といって良い程に分かりやすい奴で、そんな所もまた不思議な奴
何が一番おかしいかと言うと、名前がいとも簡単に俺の世界の真ん中に入って来て、我が物顔でせっせと巣を作り、居座ってしまった事だ
しかも、全然嫌じゃなかった
この俺に嫌と思わせなかった事が何より不思議で仕方がない
独りきりになりたかった筈なのに、名前の加わった世界はとても居心地が良いものだから、気がつけば俺は名前のすぐ側に寄って行って、ぐったりと寄りかかるようになっていた
名前は生きているから、暖かいし、名前は生きているから、「何?」と言って俺を見て頭を撫でてくれる
そうか、俺の世界に名前が来た訳じゃない
俺の世界は名前そのもので、俺が壁を作って整えていた場所は、名前という存在に出会う為のただの空き地だったのだ
そう思えば、ヒステリックな姉の喚き声も、俺を見ない両親も、両親の愛を一心に受けて笑う弟も、全てが許せる気がした
俺に対してこんなにも理不尽なお前達が居たから、名前は俺を見つけてくれたんだ
そう思っていたのに、名前は俺を見て、「こんな筈じゃなかった」と言って、立ち上がった
名前が作った巣を自ら踏みつけて、バキバキと、巣だった物が軋んで壊れて行く音が聞こえて、思わず俺は名前にしがみついて泣いて叫んだ
いやじゃ、いやじゃ、いかんといて!
名前は困ったように、苦しむように、笑うように、泣きながら俺をぎゅうと抱きしめてくれた
今触れ合ってる腹と腹が、くっついて離れなくなれば良いのに
俺がまだ小3の頃、仁王と出会った時には既に今の仁王は完成していた
まだ仁王の髪が真っ黒で、今より短かかった頃だ
仁王は正に一匹狼といった様子で転入生と交流を謀ろうとクラスメイトが押し寄せる中、素知らぬ顔で無視を決め込んだり、無理に絡みに行けば突飛よしも無い嘘を吐いて追い払ったりしていたのを良く覚えている
一方の俺は当時から友達大好き、遊ぶの大好きな年相応の少年だった為、ひとりになりたがる仁王がさっぱり理解できなかった
けれど、仁王は嫌がってる
それだけは分かっていたものだから、いつも変な奴だなぁと眺めているだけだったが
しかし、学校生活ってのはどうもひとりきりでは乗り切れない事が出てくる
それがクラス遠足の行事の班決めの時だった
その頃には転入生という特殊なレッテルが消え失せた仁王は希望通りひとりぼっちになっていた
友達どうしで固まった俺達の班に偶然仁王が割り振られたのだが、みんな仁王とまともに話した事が無いものだから、班の中でさらに二人組を作れと言われて、俺達の班は完全に仁王を持て余していた
誰が仁王と組むんだ、と
それに名乗りを上げたのが、俺だ
「面倒くさいから、今回は割り切ってよ
話したくないなら極力話しかけないし、無駄には絡まないからさ」
「…そうじゃのう、それならよか」
「仁王っておじいちゃんみたい」
勿論、その独占な喋りかたの事だ
しかし、仁王はその「おじいちゃん」の一言が気に食わなかったらしい
ギロリと俺を睨みつけて、「おじいちゃんじゃ、ねぇ!」と若干不思議なイントネーションの標準語で返された
しかもそれからしばらくの間、俺がなんと話しかけても「死ね」という一言しか返してはくれなかった
今となれば、この頃が懐かしいものである
俺は幾度となく「死ね」という暴言を浴びせられながらも、あっさりと遠足を終えた俺がドMだった訳じゃなくて、小学校低学年のやんちゃな盛りでは死ねやら殺すやらの暴言は日常茶飯事であったし、仁王は死ねとは言うが殴ったり叩いたり等はしてこなかった為、俺は構いもしなかっただけだ
遠足を終え、再び俺と仁王は他人へと戻った
次に仁王と接触したのが一年が過ぎて新学期を迎えようという冬休み真っ最中
俺の住む地方に初雪が降って、俺は外を遊び回りすっかり日も暮れた帰り道の事だ
誰も居なくなった空き地に一つだけ、ぽつりと黒い傘が咲いていて、不思議に思って眺めていた
五時の鐘が鳴ったから、子供は帰る時間のはずだが、その傘を持つ奴はどう見ても子供っぽい
しかも、なんだか見覚えのある姿だったのだ
俺は静かにそいつに寄って行って、低く持たれた傘をぐいっと持ち上げてみた
やっぱり仁王だった
「何してんの? 帰らないの?」
「帰らん」
「なんで、親心配するぞ」
「心配なんかせん」
「心配しない親なんか居ないんだぞ」
「なんも知らん癖に知った口を聞くんじゃなか!」
「じゃあ心配するかどうか、試してみようよ」
そう言って仁王の手を掴むと氷のように冷たくなってしまっていた
「で、家に連れて来たのか」
来春、高校生になる姉が腕を組み、眉をつりあげて俺を睨みつけた
「仁王の親が心配するまでの間だけだから」
「ま、普通子供が帰ってこなければその日の夜にでも連絡網使って片っ端から電話して回るくらいするよね」
「れんらくもーとかはよくわかんないけど、そういう事かな」
「連絡網ってあれよ、あんたがタカくんとかユウくんに電話する時に見てる奴」
「電話番号載ってる奴か!」
俺達姉妹がそんな会話をしている間、仁王はただ黙って俺達を眺めていた
俺のお父さんは外国で働いている
日本のお店を海外で出すためにお店の基礎を作りに行った
姉の高校行きをきっかけに、お母さんもお父さんの所へ行ってしまったので、この家の長は実質的に姉となっている
その姉から「とりあえず3日間までね」と仁王を置いて良い約束をとりつけて、仁王を自分の部屋に引きずり込んだ
「仁王には俺のベッドの半分をやろう」
「りゅうおうは世界の半分をくれるってのに、お前はしょぼいのう」
「馬鹿やろう、俺にとってベッドが世界なんだよ」
「しょぼい世界じゃが、しょぼいお前にはお似合いじゃな」
それからの3日間、俺は仁王が嫌がる素振りを見せないのを良い事に、仁王の腹を足置きにしたり、仁王の背中を背もたれ代わりにしたりと我が物顔で過ごしたものだ
仁王はされるがままで、時より寄りかかり返してきたりするものの、基本的には俺の世界の半分で寝てばかり居た
そうして3日間はあっという間に過ぎたが、仁王の親からも、担任からも、連絡は一切来る事が無かったのだった
痺れを切らした姉が仁王宅へと電話をすると、電話には少女が出て、仁王が家に居る事を告げると「どうでもいいのよ、そんな事!」と怒られ、電話を切られたのだと憤慨した様子で告げて来た
仁王はそれを聞いて悲しむどころかくすくすと笑い、
「ほら、奴ら、俺の事なんか居てもおらんくても一緒なんじゃ
要らんのなら、生まんければよかったんに」
そう言って、俺の部屋へと一直線に向かって行った
姉は不機嫌なまま、「子供が"生まれこなきゃ良かった"なんて言うなんて、よっぽどの事だ」と怒り、俺に仁王を頼むとだけ言ってどこかへ行ってしまった
結局その日の夜に仁王の両親から連絡があり、仁王は迎えに来た両親と一緒に自分の家へと帰って行った
仁王の家の事は良く判らないが、やっぱり仁王の親だって、仁王が嫌いな訳では無いんだろうなぁと思っていた