※血が出ます
あと仁王のお姉さんが怖い
人間には、大抵の場合どこか気の抜ける場所があるものだ
例えば、家族の集まるリビングとか、自分の部屋、布団の中、トイレなんていう人も中にはいるのかもしれない
仁王にとってのそれが、クローゼットの中だった
お気に入りの毛布やぬいぐるみ、俺が仁王の家に忘れて行ったマフラー等が乱雑に詰め込まれた手狭な空間に、仁王が身を小さくして閉じこもる様はいつ見ても異様だった
俺は愛用のブランケットやオイルランプ等を持って度々その中へと潜り込んでは何をするでもなく、ただ仁王と寄り添ったりしたものだ
小さなクローゼットの中でオイルランプ等をつけようものならば、一酸化炭素中毒死をするか、焼死するのが目に見えていたため、ランプが置かれるのはクローゼットの外にあるテーブルにしていたのだが
どうやら仁王は俺の居ぬ間にクローゼットの中でオイルランプをつけて過ごしたらしい
幸い、大事には至らなかったそうだが、仁王の姉が引きこもる仁王を叩きだそうと部屋に入って来たが為に、仁王はプリプリと怒りながらクローゼットから顔を出し、事態が発覚した
俺は仁王のおねえさんから呼び出しを食らい、仁王の分までこっぴどくお叱りを受けた
勿論、仁王のおねえさんがどうやら俺が嫌いらしい事にはもう随分前から気がついていた
オイルランプが俺の目の前で床に叩きつけられて、粉々に砕け散った
「全部、片付けてから帰りなさいよね」
どうやら、仁王のお姉さんは片づけが済むまで俺を見張るつもりらしい
ガラスを拾おうとしゃがんで手を伸ばせば、容赦なくその手の平を踏み付けられた
ぱきぱきと、手の平の下でガラスの砕ける感触がして、真っ青のオイルがじんわりと紫色に変色してゆくのを、ただ黙って見つめていると、彼女はヒステリックを起こしたように叫んだ
「何よ、あんたが悪いんだからね? ねぇ、あんたそれ痛くないの? もしかしてマゾヒストなの? やだ、気持ち悪い!
なんで嫌がらないのよ?!
文句くらい言ってみせなさいよ! ねぇ!!
あんた、やっぱり頭可笑しいんじゃないの!?」
そりゃあ、こんな事をされれば当然痛い
けれど、悪いのは彼女じゃない
仁王でもない
俺は悪くない、俺は悪くない
俺が悪いんじゃないと自分に言い聞かせる為にも、他人も許さなければいけなかったのだ
俺が許されたいがために、俺は皆を許すつもりでいる
こうなったのは仁王のせいじゃないし、俺のせいでもない
ましてや彼女のせいでもない
悪くもない人に怒るなんて、できるはずが無いじゃないか
そんな事よりも、仁王がここに来てしまわないかの方が心配だった
自惚れではなく、実際に仁王は俺に依存しているのだから、俺に怪我をさせたとなれば実の姉が相手でも何をするか分からなかった
それを彼女も分かっているからこそ、仁王の居ないリビングだからこそ、こんな事をして居るのだろうけど
「どうかしたんか…?」
遂に、仁王がリビングに顔を出した
仁王は隠すのが上手いという話を以前したように、気配を消すのも上手いのかもしれない
階段を下る足音すら聞こえなかったしな
仁王の瞳孔が開いて、本格的にヤバいと察しざるをえなかったので、未だに踏まれたままの手を無理矢理引きずり出した
傷が大きくなったかもしれないが、かまって居られるものか
荒々しく此方にやってきた仁王を抱き止めて、「早く、逃げて下さい」と懇願する
こんな時ばかりは俺が男で良かったと思う
仁王はスポーツをしている分、力もあるがいかんせん不摂生が祟って酷く痩せている
だからこそ、なんとか俺でも抑える事ができる
仁王は酷く怒っているが、俺を突き飛ばしたりはしない
それは拒絶を意味するからに他ならない
仁王は俺を拒絶できない
俺無しでは生きて行けないと、仁王の中で確固たる摂理として認識されているのだから
これが自惚れで済めばどんなに良かったか…
俺の肩を砕くつもりなのかと問いたくなる程の力で握り絞めて唸って居た仁王はしきりに荒い呼吸を繰り返し、ついには声を上げて泣きはじめた
「名前、嫌わんで…
なんでもしちゃるから、嫌わんでくれんか…」
「勿論、嫌ったりしないよ
におくんは俺が居ないと駄目なんだもんな」
「駄目じゃ、生きていけん…」
でもな、仁王
俺はお前に「なんで姉さんと名前は仲良くできんのじゃろう」って、泣いてほしかったんだ
この世界には、俺とお前だけじゃなくて、それこそ、お前の姉さんや弟、父さんに母さん、沢山の人で溢れているんだ
それに家族は大事にしなくちゃいけないんだよ
だから、俺は仁王が姉さんに手を上げるのを止めたんだよ
だから、仁王は俺じゃなくてお姉さんの心配をしなきゃいけないんだよ
俺は仁王の友人
お姉さんは家族
どっちが大切かなんて、考えるまでもないじゃないか
やっと泣き止んだ仁王が俺の手の平に絆創膏をはってゆく
下手したら縫うレベルの傷なのだが、それは黙っておく事にしよう
絆創膏の上から絆創膏が貼られ、俺の手の平はなんともみっともない姿となった
関節の上にも絆創膏が巻かれているため、指がまともに曲がらないが、これも仕方がない
「ありがとう、もう大丈夫だから、心配してくれて有難うな?」
仁王は嬉しそうにへらりと笑ったが、この絆創膏は明日には全部引き剥がして、保健室の先生に適切な処置を施してもらう事にしよう
それも、朝一番でだ
"つー事で、まともにチャットが打てないんだよね"
"なるほど…、しばらくチャットは亀運転ね…"
"お大事にね〜"
"おう、悪いな、まぁ、そのうち治るだろうから許してちょ"
「馬鹿じゃないの、最悪だよ」
「うる、さい…! 分かってるよ!!」
「分かってる? 本当に言ってんの?
兄さんが学校に行ってるのも、毎日ご飯を食べるのも、形だけでも家族ごっこができてるのも、みんな名字さんのおかげじゃんか
本当に分かってて、あんな酷い事したの?」
「分かって…、分かってるの…!」
弟が姉さんを責めている
姉さんが泣いた
そんな事はどーでも良くて、うっすい壁越しに響く声を無視して
俺は人差し指でチャットのキーを叩いては、ほくそ笑んでいた
名前も、十も、両方おれんじゃき、おまんらとのチャットに支障が出るのは最高に気分がええ
姉さんのやった事は最悪だが、それでも、最悪の中でなりには良い仕事をしたと、そこだけは評価してやろうかのう?