いくら記憶を遡った所で、俺は名字がわがままを言う姿を見た事は無かった
積んでいた積み木を蹴り崩されようと、親に手解きを受けながらやっと作った折り鶴を破かれようと、名字は憤りもせずにただただぽかんと呆気に取られるばかりだった
俺は当時から曲がった事が気に食わなかったため、積み木を崩した男子に土下座をさせて謝らせたし、故意に折り鶴を破いた男子を叩いて泣かせたりしたものだから、自分の両親を除くその他の保護者達からの評判はすこぶる悪かった
それは名字の親とて例外では無い
名字が怒りや悲しみを露わにしないものだから、周りの子供達も加減が分からずやり過ぎてしまい、それを見た俺が手を上げる
苛立った子供達が当たるのは、何事も嫌がった事の無い、名字
今思えば、全てが悪循環であった
あろうことか名字の親は俺の目の前で「弦一郎くんの事怖くないの?」と名字に問いかけた
「げんいちろうくんは いつも わたしのかわりに コラーって おこってくれるんだ
そのせいで みんな げんいちろうくんから にげちゃうんだけどね、だから もっと こわいのかなって おもっちゃう けどほんとは いいこなんだよ」
「…そう、あらやだ、なら弦一郎くんにありがとうしなきゃね」
「そうだね、ありがとうげんいちろうくん!」
今度は俺がぽかんとする羽目になった
ぽかんとするのは、名字の役目だったろうに
この時ばかりは名字が憎らしく感じたものだ
それからも、名字は怒る事も泣く事も無く育った
逐一俺が守ってやった訳ではないし、もしかしたら俺の知らぬ所で泣いた事もあるのかもしれない
それでも俺は名字が耐え忍ぶ所しか見た事が無かった
そのうちに、名字は俺の元に寄って来るようになり、気がつけば名字と行動を共にするようになった
一緒に登下校する事も、最初こそ親に言われてはじめた集団行動の一環であったのに、今では目覚めて朝食を食すのと同じように日常に染みついていたのだ
テニス部の活動が日々の大半を喰い潰したとて、それは変わる事は無かったというのに、それは呆気なくやって来た
一人で歩く道のなんと広い事か
名字は無事に家に帰れたのだろうか
これではまるで、子離れのできぬ親のようであった
もちろん俺は親ではないのだから、親並みの感情を持つのは異常なのではないか
考えは纏まらぬまま、翌日を迎えても気持ちは晴れる事が無かった
こうして名字の家の前に立つのも今や習慣となってしまっていたが、昨日はのそ共に帰るという"習慣"が撃ち砕かれた事もあり、本当に俺は名字を待つべきなのか分からなかった
結局名字は時間どおりに家を出て来て、得意気に笑うのだ
「おはよう、名字さん」
「あぁ、幸村君だ、おはよう!
幸村くん、屋上庭園のゴールドクレストが元気になってきたんだよ
幸村くん、心配してたもんね、暇な時にでも見に行ってあげてね!」
「へぇ、そうか、見に行くよ
名字さんが面倒を見てくれるおかげだね
俺も同じ緑化委員なのに何もできてないのが情け無いよ」
真田くんの時間どおりに登校して、花壇を回っていると幸村くんが登校して来た
勿論幸村くんも朝練の為にうんと早く登校してきているのだけれど
「いいのいいの、幸村くんはその分も真田くんのお世話をしてあげてね
…私、花の世話はできても真田くんのお世話はできないもんなぁ」
「えっ、弦一朗の世話なんかしたくないよ、暑苦しいし堅苦しいもん」
「そこが真田くんの良い所だと思うんだけど…」
「ははっ、それはね、身内の贔屓目とか、惚れた弱みって呼ばれるフィルターだよ」
「ぐふっ?! げほっ…、な、なんて事を言うの、ちが…違うよ!」
母といい、幸村くんといい、どうして私が知られたく無い事を知っていて(というか感づいて、かな)、その上面と向かって本人に言って来るのだろう
私が顔を真っ赤にして慌てているのを前に、幸村くんはぐいっと顔を近づけて来た
鼻と鼻が触れ合いそうな程の至近距離ではあるが、何故かいやらしい感じがしない
むしろなんか凄く良い匂いがする…、って、働け私の危機感!
私の後頭部に幸村くんの手が回ったと同時に「キエェエエエ!」というなんとも言えない悲鳴(と言う名の奇声)が響いてビクッと肩を揺らす私とは対照的に、幸村くんはクスクスと笑うばかりであった
「ふふ、早くくっつけば良いのに…」