常勝を謳う立海硬式テニス部が負けた
三冠を逃した
私はテニス部のファンでは無かったし、負けた事に対して何ら思う事は無い
彼等はまだ中学生であって、彼等の相手もまた中学生である
義務教育と呼ばれるまだまだ世間一般的に見て未熟な時期であって、ちょっとした事が結果に大きな影響を与えてしまう時期なのだ
中学生に、何をそんな大それた期待を抱くのだろう
確かに良い結果が残る事は素敵な事だが、良いと判断するに至るには"それ"より劣る何かがあるのはこの世の常である
つまり私が言いたいのは、この学校を包む"テニス部への期待"が裏切られたという居心地悪い空気に嫌気がさしているのだ
期待という名の重厚なプレッシャーを背負いなおも立つテニス部の彼等を私は化け物のようだと思いながらこの三年感を過ごしてきた
そんなテニス部の面々の中で唯一関わりを持ったのは立海テニス部"三強"の一角を担い、"参謀"やら"マスター"やらとこれまた子供らしからぬ渾名を持つ柳蓮二その人だった
きっかけは些細な事
私が彼が無くした本を偶然手にした事から始まった
彼の本を見つけたのは既に明日から夏休みに入ろうという日であって、部活動で遅くまで学校に残る事となりすっかり暗くなった校舎内をパタパタと歩いて居る時に、スクールカウンセラーのおばさんから渡されたのだ
曰く、ある女子生徒のカウンセリングをしていると彼女からこんな相談を受けたのだという
ある生徒が本を読んでいた所、友人から声をかけられた
その生徒は手にしていた本を閉じると友人が待つ教室の扉へと向かった
それを見た少女はその本をそっと手に取った
「机の上にあった本を知らないか?」
そんな些細な会話で構わない
その生徒と話すきっかけが欲しかったのだと言う
しかし女子生徒はその本を返すタイミングを逃してずるりずるりと今に至るのだそうだ
半年以上、恐らく一年以上は経過しており、話かけるのすら怖くなったのだと
カウンセリングのおばさんは立海専属の先生ではなく、複数の学校を兼任してカウンセリングを行っている
よって生徒全員を把握している訳ではないし、担任を介すと女子生徒の行いが明るみに出るかも知れないのでそれは避けたい
そこで白羽の矢が立ったのが偶然通り掛かった私だったのだ
ある程度の事情は話しても構わないそうだが、女子生徒の身元及びカウンセリングのおばさんから受け取った物だとは絶対に明かさないで欲しいと言う
何も夏休み直前に渡さなくとも…
学校が無いのだから、渡す機会だって無いだろうに
押し付けられた本を軽く開き持ち主を特定する何かを探したがそれらしいものは無かった
和紙のようなざらついた表面の栞
布性のブックカバー…
何の本なのだろうと内表紙を見るとその作者名には見覚えがあった
「この本…、廃版だったような…」
大学で現文研究を教える叔父から「お前もこの本なら気に入るだろう」と渡された本の作者だ
現代文はあまり好まない私だったが、普段現代文を書く作家が描いたファンタジー物らしい
現代文を書く作家がファンタジーを書くとどうなるのか
なかなかに興味をそそられ目を通した所、ファンタジーと呼ぶには些か違和感が有ったものの内容は素晴らしいものだった
きっとこの本はファンタジー要素のない純文学なのだろうけれど、気になる
内容が気になって仕方がない
私の中で罪悪感と好奇心がせめぎ合い、罪悪感を好奇心が塗り潰した
元々あまり好きでは無いジャンルだから、直ぐに読む気を無くすかもしれない
そうしたら、直ぐに持ち主を見つけて返そう
廃版の小説…、しかもこんなカッチカチの文章を読む中学生なんてほんの一握りだろうから…
そうたかをくくっていた訳だが、甘かった
これが凄く面白かったのだ
夏休みの間、隙を見つけてはページを読み進めるうちに既に長期休暇は折り返し地点を迎えようとしていた
本を読み終えるまでに気付いた事が一つ
ブックカバーと本の間にメッセージカードが隠すように挟まっていたのだ
"この本が蓮二の世界を広げる手助けになれば幸いだ"
蓮二? れんじ?
私の脳裏に浮かんだのはテニス部の柳蓮二の事だった
テニス部にあまり興味はないといえ、自分の学校の事であるし、何より同級生だ
何度か図書室で本を借りる姿を見かけているので彼が読書家なのはしっているし、彼程の知識人ならばこの堅苦しい本を持っていようと不思議ではない
しかし、しかし…、化け物テニス部かぁ
部活動ついでに本を持って学校へ出向いて見れば全国大会に向けて厳しい練習に励んでいる姿が見えた
これではとてもじゃないが声はかけられない
せめて全国大会が終わるまで、この本を返すのは止めておこうと思った
メッセージカードを見るに、誰かからプレゼントされたものだろうし、それを無くした時の事を掘り返しては…、本を持ち出した犯人が気になるだろうし、テニスに支障をきたすかもしれない
そしてその日はやってきた
テニス部の三冠の夢が絶たれたという知らせと共に
大会を終えてからというもの、普段能面のように表情を揺らさない柳蓮二がどこか支えを無くしたように、気の抜けたようにして過ごす姿に心が痛まない訳はなかった
そんな意気消沈した姿も影を潜めた大会後、二週間目
私はようやく彼と接触を計った
「柳、蓮二さんですよね?」
「ああ、いかにも、俺が柳蓮二だが」
「…すみません、知り合いの先生に頼まれて
夏休み前頃からこの本の持ち主を探しているんです
心当たりはありませんか?」
鞄の中から例の本を取り出して見せるとそのブックカバーを見ただけであの瞳の見えない事に定評ある(この言い方は少し可笑しいが)柳蓮二の目が開いた
その表情にはありありと驚愕の色が浮かんでいる
「中を見ても、構わないだろうか?」
「はい、勿論 というより、私の持ち物ではありませんから」
本を手渡すと彼は中表紙で本の題名を確認し、迷う事なく例のメッセージカードを引っ張り出した
「あぁ、確かに俺の持ち物だった
随分前に無くしたきりだったからな、もう見つからないと諦めていたのだが…」
分かり辛い所にしまってあったメッセージカードをすぐに取り出せたという事は、やはり持ち主は彼だったのだろう
カードを元の場所に戻して微笑む彼の姿を見ながら、私は複雑な心境を抱えていた
友人曰く、柳蓮二はデータを取るのが趣味と言われており、テニス部はおろか全校生徒のデータまでもある程度把握しているというのだ
彼がその気になれば、あの本を盗んだ犯人の特定等容易いのだろう
「…、柳さん
その本は、ある生徒が貴方の気を引こうと盗んでしまったものです
今は然るべき人から叱責を受け、非常に反省していますから、どうか犯人探しはしないでいてくれませんか?
そして、犯人が分かってしまったとしても、どうか、責めないであげて欲しいのです
私は口を出せる立場ではありませんし、貴方にその権利があるのは承知していますので、あくまで"お願い"なのですが」
「…、ふむ」
彼は本を手にしたまま少し考えるような素振りを見せた後、「分かった、この事は不問とする」と言って微笑んだ
絵に描いたような美人さんである
「あと、誤らなければいけない事もありまして…
あ、本を盗んだのは、ちがくて…私ではないんですけれど…!」
「あぁ、この本を持ち去った犯人はおおよそ検討がついている
犯人がお前である確率は8パーセント程度である上、面と向かって返却に来る確率も合わせて計算すれば1パーセントにも満たない」
なぜ、ここで数字を持ち出して来たんだろう
どうしても、普通に「犯人の目星はついているし、君はそういう人じゃないと思うよ」って言えばいいじゃないかと思ってしまう
その方が率直で分かりやすいし、スマートだ
わざわざ数学の公式ねような言い回しをするなんて、酷くまわりくどく、まどろっこしい
柳蓮二が本だったら、私の嫌いなタイプだろうと本能で悟ったのだった
私は不快感と唾液を飲み込み、なんとか本題を告げようと口を開いた
「…はぁ、そうですか
誤解されなかったのは何よりです
謝りたかったのはですね、人様の本であると知りながら、勝手に読んでしまった事です私はその著者の作品が好きで…短編集を持っているのですが、それは今まで見たことの無い本だった上、絶版品でしたから
自分を律する事ができませんでした…」
本当にすみませんでした
私は深々と頭を下げた
「そ れは…、構わないのだが…
良かったらで構わない その短編集を貸してくれないか?
俺もこの作者の作品が好きで、探しているのだが、なかなか見つからなくてな」
「…絶版品が多いですから、ね
私も読ませて頂きましたし、構いませんよ
…、明日、持って来ますね…」
「そうか、…ありがとう」
正直、嫌です
なんて言う事もできず、性質で合わずとも同じ本好きの同志であるから、きっと手荒な扱いはしないだろうその点では友人よりも安心して本を貸せる…と思う