迷うことなく、手を
臭いが嫌いなのだと、聞いたことがある。
なぜ?と聞き返せば珍しく二人とも同意見で。一言一句、全く違わずに返答した。
「「変な臭いだから」」
嗜好が違う二人の意見が重なるのは大変稀なのだが、それよりも気になることがあった。
二人がいつ、どこでその臭いを嗅いだのか、だ。
「……信乃さま?」
犬や猫を含め、凌はペットを飼ったことがない。だから比べることは出来ないが、きっと飼ったらこんな感じなのだろうか?
どうやって足音を聞き分けているのか。
凌が帰るとかまってくれると思っているらしく、いつもなら一目散にやって来るのに…──、今日は信乃の出迎えがない。
「信乃さま。凌が戻りましたよー」
しんと静まりかえった家に、凌の声だけ虚しく響く。
(師匠か時雨さんが先に帰っているのかな?)
ヒビキが大学をサボることは多々あるし、時雨だって然り。いい音色の雨が降っているから、という意味不明な理由で自主休校していたのは記憶に新しい。
自分の師であるヒビキが自由奔放、気まぐれなのは有名だが、時雨も負けず劣らず気まぐれで扱いにくい性格をしている。慣れてしまえばどうってことないのだが。
それを信乃はわかっているのだろう。二人が帰ってきても動かず、待ち一辺倒。じーっと様子を探り、機嫌を窺っているフシがある。
二人とも信乃を溺愛しているのは第三者の凌から見て間違いないが、信乃は間違っても二人を出迎えたりしない。
「信乃さまー?」
誰かいるにしては人の気配を全く感じないが、凌は気にせずに靴を脱ぎ、背負っていた鞄を小脇に抱え直す。ごそごそと鞄の内ポケットに入れた携帯電話を取り出し、メールと着信履歴の有無を調べながら、玄関から一番近い自室に宛がわれた部屋へと向かう。パタパタと歩きながら鳴らすのは最近買ったお気に入りの、黒いクマのゆるキャラスリッパ。最初は好きじゃなかったが、使っているうちに愛着が湧いてきた。
(…やっぱり着信もメールもないや)
誰からも連絡は入っていない。信乃は一人のはずだ。どうも何かおかしい。
だが深く考えても答えが出るはずもなく、疑問ばかりが増える。信乃のお出迎えがなく、家の異様な静けさ──。……ぐるぐる考えていてもしょうがない、鞄を置いたら様子を見に行こう。よし、そうしよう。もしかしたら昼寝をしているかもしれないし。いつもこの時間はお気に入りの縁側か居間に信乃はいるはずだ。
(今日はバイトないし、夕飯は凝ったものにしようかな──…ッ!?)
自室に入った途端、物に躓いて盛大にこける。鞄を開けたままだったのが痛い。携帯はどこかへ飛んで行き、鞄の中身は辺りに散乱してしまった。
「──痛ッ!へ、…な、なに!?」
部屋の入口付近にいつもなら物は置いていない。鞄を机に置くだけだからと油断して明かりを点けなかったとはいえ、薄暗い部屋はまぎれもない自分の部屋だ。
照明を点けようとすり足で歩けば、すぐに躓いた物にぶつかる。
物、というよりは温かく、ぶるぶると震える物体。
「信乃、さま?」
「……」
返事はないが、間違えるはずがない。凌は入口付近で丸く、うずくまっていた信乃に躓いたのだ。
「毛布をかぶって、どうしたんですか?」
しゃがんでそっと手を伸ばせば、信乃の震えは悪化し、手から逃れるように飛び退く。まるで手負いの動物のように。
だが凌も引かない。──引けない。
信乃がポロポロと涙を流し、泣いているから。
「俺が怖かった?それとも、寂しかった?」
「……」
なぜか喋れないらしい。首を横に振り、否定する信乃。そんな信乃が首を振るたびに嗅ぎ慣れない臭いがする。
「煙草の臭いがするけど、信乃さまは確か嫌いだったよね?」
誰かが故意に吹きかけたとしか思えない。信乃の髪や手足、服や毛布など信乃の何もかもに煙草の臭いが染み付いていた。
しかも毛布で信乃が必死に隠していた首元には、絞められたと思われる赤い手形がくっきりと残っていて。凌は怒りを抑えて立ち上がる。こんな酷いことをするのはたった一人しかいない。
「信乃さま。…眠い?お風呂に行ける?」
信濃の馬鹿ヤローは後で締めるとして、いま優先するべきは信乃だ。
凌の部屋までなんとか這って逃げて来たが、もう一歩も動けないのだろう。立とうとしても足が震えて立てそうにない。
「無理しなくていいよ。タオルを湯で濡らしてくるから、ちょっと待ってて」
「……」
立ち上がった凌を不安そうな目が追う。触られるのが怖いのに、一人になるのも怖いなんてどうしようもない。
「ほんと、すぐに戻るから待ってて」
学ランを脱ぎ、毛布の上から信乃に掛ける。ぎゅっと信乃が学ランを掴むのを見届けてから、急いで浴室に向かう。
靴下はそのへんで適当に脱いで、浴室の蛇口をひねって風呂桶に湯を出す。古い家だから水が湯になるのに時間がかかるので出しっぱなしにしておく。その間にタオルを二枚用意して、水が湯になったところで一枚のタオルを湯に浸す。ワイシャツの袖が濡れたが構っていられない。タオルを緩くしぼり、濡れていないタオルと二枚持って全速力で部屋に戻る。
「お待たせ!ね、すぐだったでしょ?」
凌が笑いかければ、こくんと頷き信乃も笑い返す。
こんな時でも信乃は相変わらず仕草が可愛い。やっと表情が戻り、震えも止まってきた。
その証拠に自分から手を伸ばし、濡れたタオルを受け取ると毛布の中で顔や腕、体を拭きだした。どうやら少し落ち着いてきたようだ。
凌は濡れた袖を捲くり、箪笥から服を取り出す。本当は着慣れている着物がいいのだろうが、凌が持っている着物は仕事着用の物しかない。諦めてあまり着ていないパーカーとシャツ、ズボンを手渡す。
「服も臭うでしょ。俺の服着ていいよ」
「……」
何か言いたいようだがわからない。
信乃も言葉は諦めて、ぐいっと頭を差し出してきた。ああ、と納得する。その頭の上には濡れたタオルが乗せられていたからだ。
「もういいの?」
信乃から濡れたタオルを受け取り、替わりに乾いたタオルを頭に乗せ、やや濡れて乱れた髪を拭いてやる。信乃は心地良さそうに揺られながら、器用にズボンを履く。拭く手を止めれば、着ていた着物を脱いでシャツとパーカーに着替えだした。
凌の服はだいぶ大きく、袖や裾を何重にも捲くっている。いつもの着物も似合っているが、これはこれで可愛らしい。
濡れたタオルは浴室まで置きに行くのが面倒なので廊下へ放り投げる。
「部屋に戻りたくないだろうし、俺の部屋で寝ていいよ」
「……」
「大丈夫。今日はもう、どこにも行かない」
信乃さまと一緒にいるから、と手を差し出す。拒まれるかと思ったが、じーっと見つめられたその手は、小さな白い手と重なる。──信乃の手だ。
凌は手を引いて部屋の隅に置かれたシングルベッドへ案内すると、物珍しいのか信乃はベッド前できょろきょろしている。普段の信乃の寝床は布団で、ベッドで眠るのはもしかしなくても初めてかもしれない。
「信乃さまの部屋で眠る?」
問い掛ければ首を傾げ、信乃はゆっくりベッドへと潜り込んだ。ごそごそ寝床を整え、こっそり指を出して凌の服を掴む。
「……」
「あ、り、が、と、う、?」
「……」
恥ずかしそうに頭を布団の中へと隠す信乃。
──…まるで宝物だ。
俺より年上のはずなのに、無垢で純真な、可愛い信乃さま。
誰にも見せたくない、大切なもの。
もう、傷付くことのないように。
誰にも見つからないように。
何かあれば俺は迷うことなく、その小さな手を隠すだろう。
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