ただ笑みを浮かべて



「──…はっ」

 わずかに漏れた、声ではなくそれは喘ぎ。
 喉を震わせて、嗚咽混じりで必死に酸素を求めている。

「……っ、…ノ…」
「信乃さま。大好きだよ」

 だから逃げちゃだめだよ、と理不尽な理由で細い首を片手で絞めながら、色を失った唇を塞ぐ。
 言葉を発することも。
 名を呼ぶことさえも許されず、ただ潜り込む舌に蹂躙され。
 信乃は涙を浮かべ、耐えるしかなかった。
(無垢で、…馬鹿な信乃さま)
 苦しい、と。
 助けを求めればいいのに。

 ──殺サナイデ。
   モット、生キタイカラ。……助ケテ。

 しかしその喉から出るか細い声は、一向に助けを求める気配はない。
 逆に、自分の運命を受け入れるように信濃にされるがまま、享受している。

「早く止めないと、殺して俺だけの信乃さまにしちゃうよ?」

 信濃が片手ではなく両手で首を捉えた瞬間、腹部を膝で蹴られて倒れ込む。その真下には信乃が横たわっているので、潰さないために片腕で踏ん張る。
 そんな信濃を嘲笑うように、胸元を掴まれて顔間近まで強制的に引き寄せられた。

「ハ…っ。てめーに信乃を、ころせ…ンの、か」
「お狐さま?もっと早く出てきて止めてください」

 信乃はこんな悪態をつかない。
 どうやら一時的に、信乃の中に封印されている荒神と意識を交代したらしい。自分が見下ろしているはずなのに、見下されている圧倒的な威圧感。

「大丈夫だろ。俺がこいつを殺せないように、お前もこいつを殺せない」
「意味わかんないんですけど」
「信乃を殺したら、俺がお前を殺すってこと」

 解りやす過ぎる。

「どうせ殺されるなら、信乃さまに殺されたいな」
「……え。ど、うした…の?」

 長話をする気はないらしい。
 すぐに体の所有権は信乃へと戻り、酸欠のふらふらした体で信濃の下から信乃が這い出る。
 よいしょ、と傍らに座り。
 赤く、手形がくっきり残る首を傾げて。

「…しなの」

 心配そうに名を呼ぶ。
 さっきまで自分を殺そうとしていた相手を心配するなんて、──どうかしている。正気の沙汰じゃない。
 けど、そんな信乃を愛しているがゆえ、殺そうとした自分こそ狂気の沙汰だ。

「しなの?」

 何度も。
 その言葉しか知らないのか。
 幼い子供のように信濃の顔色を窺っては、懸命に無反応な信濃の名前を呼び続ける。
(──ああ。やっぱりダメだ)
 殺すことも、この想いを諦めることも。
 誰かに渡すことは勿論、手離すことすら出来ない。

「信乃さま。…好き」
「……うん」
「大好きだから」
「ぼく…も、しなののこと好きだよ」

 だから泣かないで、と冷えきった指が信濃の体を抱き締めようとしがみ付く。
 その指はまだ微かに震えていて。
 抱き返したら、びくっと強張って。
 つい数分前に殺されかけた反動か、無意識なのだろう。信濃が触れたことにより、再び信乃は泣き出してしまった。
 無言で、責めるように流れ続ける涙。
 頬を流れるその涙を舌で舐め取るが、涙は止まらない。
(眼球ごと舐めたら涙は止まるかな?)
 涙で濡れた瞳は、未だに哀憫と恐怖が入り混じった不安定な色だけど、とても美味しそうで。
 そんな衝動を紛らわすために、ちゅっと可愛らしく頬に吸いついて。
 止まらない笑いを堪えて。
 その小さすぎる体を、力いっぱい抱き締め続けた。



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