月の裏側で約束をして
寝ぼけ眼で目をこする。まだ眠い。
しかし目元も頬の皮膚も少しぴりついていて、二度寝しようと思ってもその違和感が邪魔をしてくる。
銀時は諦めて起き上がると、枕元に放ってある化粧水を掴む。昨夜はちゃんと化粧落としを使い、化粧を落とした記憶はあるものの、化粧水を使った記憶はとんとない。一日化粧水を使わなかったぐらいでぴりぴりするとか、どんだけ弱くなってしまったんだろう。──皮膚だけじゃない、自分自身、も。
酒は強くなった気がする。そんなに量が飲めないのは変わらないが、顔には出にくくなったと思う。たとえ厚化粧のせいだったとしても、飲めるようになったと思いたい。
化粧も上手くなったし、花魁としての所作も、話の振り方も聞き方も上達したと思っている。……ときどき、ぼろが出そうになるけど。
「てか、ごはん呼びに来てなくね?」
花魁の夜は長く、朝はとても遅い。
いつもなら花魁として明け方まで働いている銀時のために、丁稚の新八か銀時付きの禿の神楽が銀時を起こしにやってくる。
二人ともばたばたうるさく、毎日賑やかで寝たふりすらできないのに、今日はいつもの時間を過ぎても呼びに来る気配がない。
「新八? 神楽ちゃーん?」
緩んだ帯を結び直し、襟の乱れを直して化粧水片手に二人を探すために部屋を出る。
化粧水は顔に塗りたくれば終わるので、ぶっちゃけ持ってくる必要はなかったが、なんとなく手にしたので持ったままだ。
ふと、台所ではなく玄関の方が騒がしいので、足音を消して近付く。この姿を置屋の主人であるお登勢に見つかっても、客に見つかっても面倒なことになるので誰にも姿を見られないよう慎重に、ゆっくり近付いてゆく。
「どうしても、ダメでござるか?」
「どうしても何も、ダメなものはダメです」
「おととい来やがれ、ネ!」
探していた新八と神楽は、置屋の玄関でグラサン相手に奮闘していた。さっさとお登勢のばばあが追い返せばいいのに。肝心な時にいつもいないんだよな。
とはいえ、あのグラサンは高杉のところのグラサンだ。高杉自体の金払いは良く、別に呼ばれれば相手をしてやらなくもない。むしろ上客の部類なのだが、二人は何を断っているのだろうか。
もしかして、俺の身請けの話とか?
──…さすがにそれはないか。だって昨日断ったばかりだから。諦めの悪い男は嫌われるぞ、まじで。
それでも尚、グラサンは新八と神楽に食い下がる。
「後生でござる。でなければ拙者が晋助に殺されてしまうでござる」
「ダメです」
「十月十日の昼に、銀朱花魁とデートするだけだが」
「お断りネ! その日は私たちが銀ちゃんと遊ぶアル!」
「夜も勿論、そのまま一日晋助が貸し切りたいそうでござる」
「無理です」
きっぱり新八と神楽が断る。
その日は銀朱花魁──、つまり、銀時の誕生日なので一日貸し切りなんて出来るわけがない。
銀時はこの置屋、寺田屋一の花魁だ。
ほかに目ぼしい花魁がいないのもあるが、攘夷戦争後に行き倒れていた銀時を拾って置いてくれた主人であるお登勢のために、銀時が日々研鑽しており、要領は悪いながらも花魁と認められるようになった。
そんな寺田屋一の花魁である銀時の誕生日に貸し切りなんて、最近通い始めた高杉に出来るわけがないのだ。
「諦めて帰れ、グラサン」
「銀さん!」
「銀ちゃん! 起こしてしまったアルか?」
嬉しそうに、神楽が銀時へ近付いてくる。
新八は銀時と神楽を守るよう、万斉との間に入って距離をとっていた。置屋で問題を起こすとは思えないけど、距離は取れるだけとっておいていいだろう。
なにかあった場合は、二人を守らないと。
この場で一番強いのは、新八でも神楽でもなく、白夜叉と呼ばれ天人に怖れられていた自分なのだから。
「花魁はホステスとは違うの。同伴はしないし、……まぁ、添い寝はしてやってもいいけど、同衾はお断りしてます」
「銀ちゃん、添い寝と同衾ってどう違うの?」
「神楽ちゃんはちょっと黙ろうか」
しっしと追い払う仕草をしながら、神楽をそっと銀時の後ろに隠す。
禿の神楽に手を出すとは思えないが、相手はあの高杉率いる鬼兵隊の一人。常識を逸している一団だ。何をしてくるか解らないので、臨戦態勢をとる。
吉原は無法地帯ゆえに真選組は管轄外で来ない。
──頼れるのは、己の拳のみだ。
「あい解ったでござる。十月十日がダメなら今日デートしてほしいでござる」
「……人の話聞いてた? 全っっ然、解ってないよね!?」
「十五時にターミナルで良いか」
「え、あと一時間もないんだけど。吉原からターミナルまで何時間かかると思ってんの? 身支度に何時間かかると思ってんの? しねばいいのに」
「晋助はターミナル近くの旅籠にいるので問題ないでござる」
「俺が問題だらけだっちゅーの。その旅籠屋、真選組に強襲されねーかなー」
「身支度など、そんなに時間は掛からんでござろう? 着替えるだけで、」
万斉の手が銀時に伸びる。
きっと、はだけた襟元が気になっていたのかもしれない。小首を傾げ、悩ましげに憂う銀時にくらっときたのかもしれないが、銀時の機嫌は今日起きてから最底辺を記録していたのに万斉は気付けなかった。
届く前に、その指は銀時によってはたき落とされ、ついでに回し蹴りをくらって玄関先に激しく叩き沈められる。
現役を退いたとはいえ、白夜叉は健在で。
衝撃で何が起きたか察することはできたが、蹴りの動作はその場の誰にも見えなかったし、追撃として踵落としまで食らわせている。
「気安く触るんじゃねーよ、ばーか」
「さすが銀ちゃんネ!」
「これは当分起きませんよ……」
「そのへんにコイツの部下がいるだろ。高杉に首洗って待ってろ、って言っとけ」
「了解でーす」
「銀ちゃんのお気に入りの着流しは用意してあるヨ」
「ありがと、神楽」
神楽の頭を一撫でしてから、乱れた裾を気にせずに銀時が走る。
さすがに外出するなら外着に着替えたい。一応、寺田屋の人気花魁なので変装も兼ねているつもりだ。
花魁の衣装は豪華で派手すぎるし、支度に時間が掛かってしまう。高杉は気にしないだろうが、銀時は気にする。
なので、普通な感じの服がいいのだけれど、どれにしようか。最近気に入っている着流しと、動きやすいブーツを合わせてみたらどうだろう? ブーツを履くなら足元も合わせて中は洋装でいこう。
髪型はこのままでいい。梳いても特に変わらないし、以前より少し伸びた髪は結おうと思えば結えるけど、高杉のためにそこまでしたくない。
「……断じて、デートだからって浮かれてねーし!」
これはデートじゃない、ある意味決闘だと言い聞かせて。
久しぶりに蹴り技なんかしたので踵が痛い。鼓動が早いし、眩暈もしそうだ。
高杉と会うときはいつもこうなってしまうので困る。高杉も万斉と同じように沈めることが出来たら、この動悸も落ち着くのだろうか。
どんどん早まる鼓動を抑えたくて、銀時はゆっくり深呼吸をした。
急いで化粧水をぱちゃぱちゃ顔に塗りたくって。
食事は諦めた。食べずに着替えて、財布だけ持って置屋を飛び出す。新八も神楽も、吉原の外へ連れていくわけには行かない。
そもそも、銀時だって吉原から地上へ勝手に出ると怒られるのだ。吉原は治外法権とはいえ、一応いろんなルールがそれぞれの廓にあり、破ると罰せられる。
待ち合わせ場所はターミナル。
そんな大雑把な物言いだったのに、ちゃんと高杉は煙管をくゆらせながらも銀時を待っていた。
いつもの編み笠、紫の派手な着物、帯刀した刀。
紛れもない、いつもの高杉だ。
銀時を見つけて、不敵にほくそ笑みながら近付いてくる。
ほんとそれ、悪人の笑い方だから。
こんな目立つところでやっちゃって、真選組に捕まっても知らないからね。
「万斉が世話になったようだなァ」
「……お陰様で。出禁にすっぞ」
「クククッ、銀朱花魁は怖いなァ」
まるで夜叉のようだと、高杉が他人事のように言う。嘘くさすぎる。
銀時の正体なんて、とうの高杉本人が一番知っているくせに。
万斉に煽らせて、銀時を怒らせた確信犯は、いつもの清ました知らん顔で、銀時へ微笑んでいる。
「花魁の格好で来るかと思ったンだが」
「あんな目立つ服装で来れるかよ、吉原でもあるまいし。花魁道中が見たかったの?」
「まさか。てめーが居ればそれでいい」
「……で、デートってなんだよ。急すぎない? 銀さんは忙しいんだけど」
「お気に入りの花魁に貢いで何が悪い」
「お気に入りの花魁って、あの、俺なんですけど。わかってる?」
攘夷浪士のどこで稼いだか解らない金で貢がれても、あまり嬉しくない。
ここ最近、攘夷志士ってヒマなの?ってぐらい銀時である銀朱花魁にご執心で、通い詰めている高杉の本心が解らなくて怖すぎる。
本当なら来たくない吉原の外であるターミナルまで出向いているのだ。高杉には会ったし、これで終わりにしてとっとと帰りたい。
──帰らせてもらえそうにないけれど。
当たり前のように銀時の腕を取り、高杉はどこかへ連れて行こうとする。
「ちょ、高杉?」
「近くに行きつけの呉服屋がある」
「……趣味悪そうで嫌なんですけど」
「一級品の反物もあるぞ」
「甘味以外は興味ないんで」
「後でたらふく食べさせてやるから、黙って貢がせろ」
「えぇぇ、……絶対それ後悔するやつだよ、やめとこうぜ」
銀時の静止を聞かず、立派な店構えの呉服屋へと連れ込まれる。
仕事着である花魁の衣装である華美な打掛や帯、高下駄や、結った髪に挿す髪飾りの簪は置屋の主であるお登勢が用意をしているので、銀時自身が購入したことはないし、買おうと思ったことすらない。
とても高価なのは、値段を聞かなくても身に着けていれば解る。
そこそこ稼いではいるものの、銀時は自分を飾るものにそもそも興味が一ミリもないのだ。そんなもの買うぐらいなら、甘味を腹いっぱい食べたい。
だから打掛や帯は言われるがまま、用意されているものを身に纏い、着飾っているだけ。
採寸は最初に測っただけで、呉服屋に赴いたことはない。
赴いたことはないけれど、……こんな感じなの?
呉服屋に入ると高杉と一緒に奥へ奥へと通され、やっと行き着いたのは十畳ほどの個室で。
小さな嵌め殺しの窓しかない、こじんまりとした部屋の畳の上にはずらりと反物が並べられていて。色とりどりの豪華な反物たちの生地から刺繍、絵柄などの説明をそれぞれ聞かされている。──はっきり言って、帰りたい。
真剣に聞いている高杉の傍ら、採寸の終わった銀時は手持無沙汰。バックレてしまいたいのでキョロキョロ逃走経路を探している。
どうやら高杉は白い着物に拘りがあるらしい。
白夜叉のとき、白い服だったから?
意味が解らなすぎる。
「決まった」
「やっと決まったの? そりゃおめでとさん」
「白い打掛は持ってないだろ」
「白? そりゃ白いのは持ってないけど」
白い色は嫌いじゃない。
けれど銀時の髪が銀髪なので、バランスが悪くなってしまうのだ。
髪の色のせいで老いて見えてしまったり、真っ白すぎて遠くから見ると浮いて見える、と目立ってなんぼなのに散々な言われ方をした。
だから白い打掛は持っていだが、今はないというのが正しい。
「この白いのと、そっちの黒いの。赤いのは蝶が舞ってるのと薄紅が混じってるそれと、銀糸刺繍のやつと、」
「ちょっとちょっと! 買いすぎなのでは!?」
「そうだな、藍色も欲しいかァ」
「一言もそんなこと言ってないんですけど!?」
「てめーは帯でも見てろ」
「ちょっともうやだ、帰りたい……」
絶対に安物じゃない、高価な反物を次々と見ていく高杉。
どうやら並べていなかった超一級品まで出させているようだ。店員さん?が一人付きっきりだし、奥から持ってきて並べては片付けたりと他の店員さんもてんやわんやしてる。
ほんと、呉服屋さんってこんな感じだったっけ?
もっと静かで、落ち着いたイメージがあったんだけどなぁ。
銀時の金ではなく高杉の金とはいえ、心臓に悪すぎるのも問題だ。正気で直視できない。金額は提示されていないがきっと高額だし、そもそもたくさん買いすぎだろ。
着物って、こんなノリで買いまくるものじゃ決してないと断言できる。
高杉も正気じゃないが、こんな高いの着て花魁道中するとか、狂気の沙汰としか思えない。今のところ着ている花魁の衣装は、ここまで高価じゃないと思う。
部屋の端っこで体育座りをしながら、壁沿いの卓に置かれた帯を現実逃避しつつ眺める。こっちもなかなか高そうだなー。
高杉が反物を見て帯を選ぶ小一時間、銀時は部屋のすみっこで体育座りしながらこの苦行が終わるのをひたすら待ち続けた。
*
「あー、美味しい! 生き返るわ」
「そんなに美味しいか?」
「パフェはとっても美味しいし、このタピオカっていうの、もちもちして美味い。甘いは正義」
「おかわりは?」
「いる!」
高価すぎる反物と帯に囲まれ、空腹も相まってグロッキー状態になってしまった銀時のために、休憩ということでファミレスに来ている。
呉服屋近くの茶屋で休憩するのは断った。人目が少なすぎる。絶対に他の目的がありそう。高杉と二人っきりになるのも嫌だったので、大通りに戻ってのファミレス選択だ。
朝から何も食べていなかったのもある。食べ進めるスプーンが止まらない。止めるつもりはないけれど。すきっ腹に甘味はとてもよく効く。
もうそろそろ止めないと、花魁の仕事に支障が出そうだ。
飢えが満たされたこともあり、少し眠くなってきた。ふあっと出たあくびを手で隠し、高杉を盗み見る。
その表情はいつも通りだが、普通に帰らせてくれるかは微妙なところ。
高杉の機嫌次第と言ってもいい。
「……高杉」
「どうした? あ、そろそろ門限か」
「門限なんざとっくにねーよ。ないけど、そろそろ帰らないと」
「……帰したくねェ、って言ったらどうする?」
「試すのはやめろ」
銀時がキッと睨むも、高杉は涼し気な顔で平然と茶を啜る。
──どうやら、銀時を帰らす気はなさそうだ。
手遅れになる前に強硬突破して帰らないといけない。丸腰の銀時には少しばかし不利なので、誰かの刀を奪って即行で逃げよう。人も多いし、無理に追ってきたりはしないだろう。……たぶん。
もう、高杉と一緒に行くことは出来ないのだ。
今は帰るべき場所が、ある。
何も言わずに飛び出してきた手前、お登勢にバレる前に帰らないといけない。
高杉の動向を窺いつつ、周りに帯刀している人を探す。
「……あ、」
これは、手遅れかもしれない。
帯刀している志士っぽい人を見つけたが、どうも見覚えがある。例にもれず、きっと高杉の部下だろう。踵落としを食らわせたグラサンもいるっぽい。
視界が不鮮明で見えづらいけど、あれはグラサンだ。
ごしごしと瞼をこする。ほんと、目がしぱしぱして見えにくい。
強くこすり続ける銀時の手を、高杉が掴む。
「あ、ちょっと、なに、」
「眠いか」
「眠くない。……一服盛ったの、か」
「痺れは遅効性だが睡眠薬は即効性だから、もう効き始めてンじゃねェか?」
「──…さいって、い、」
悪態をつきたいのに、口がうまく動かない。
呂律が回らないし、眠くて眠くて意識が朦朧とする。
頭がかくかく揺れてしまうのを懸命に持ち堪えようとするも、薬って怖い。ぐらぐらと揺れてしまって倒れそうになる。
「実は大きな仕事が入ったンで、半年ばかし留守にする」
「……は、半年!?」
「俺と会えないのは寂しいだろ?」
「寂しいとかそういう問題じゃねーし! ……連れて、行く気、か」
「てめーも寂しいだろ、一緒に行くしかねェな」
「半年も地球を離れられるかっての!」
「万斉が上手くやるだろ」
「他力本願! 無責任!」
「てめーのことで、責任を取らなかったことはねェはずだ」
「日本語通じて! 振り回されるのはもう懲り懲りなんだよ!」
「宇宙はいいぞ。仕事もねェし、俺が四六時中ずっと居る」
「自意識過剰すぎるんだよ! 俺は仕事嫌いじゃねーし、高杉とずっと一緒とか悪夢じゃねーか!」
最後の抵抗である銀時の叫びは、高杉に一切届かなくて。
倒れ込む銀時を、嬉しそうに抱き留めて支える高杉を見たのが、銀時の最後の記憶だった──。
次に目覚めるとそこは肌寒い色をした宇宙で。
地球を出航して一日経つと言われた。
ほんともう信じられない。
打掛が出来上がるころには帰れるだろ、とか無責任に言うんじゃねーよ!
今すぐ! 俺は帰りたいの!
お登勢に怒られるって解っているし、なんなら足抜けだって指名手配されてるかもしれないけど、帰る場所はあそこだけなんだ。
神楽の誕生日祝い(十一月三日)のため、地球へ向かうという神威率いる宇宙海賊の船にもぐり込んで、銀時が地球へ帰ってこれたのはまだまだ先の話。
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