愛は未完成なもの


 恋って偉大だ。
 痛みも苦しみも、一瞬で忘れることができるのだから。
 幼かったのでその日のことはあやふやで曖昧だが、出会った記憶だけは今でも鮮明に覚えている。
 ほら、暗い空を見上げれば。
 ──白い羽根が、落ちてくる。



 高杉は重種である蛟の斑類だ。
 その家系は代々、政府の要職に就いており、高杉も子供ながら他の子供と違うのを解っていた。
 いつもは幼稚園だろうと習い事だろうと注意していたのに。
 帰宅途中、迎えの車に乗り込もうとしたところ突然、複数の屈強な男に囲まれて。迎えの車じゃない白く錆びついた車に連れ込まれて攫われてしまった。
 所謂、これが誘拐だと気付いたのは縄で手首を縛られて、住宅街の潰れた工場跡地みたいなところで降ろされたときだ。
 車はあまり走っていない気がした。
 まだ、誘拐された場所からそう遠くへは行っていない。
 自力で縄を噛み千切り、なんとか男達から逃げ出すことが出来たけれど、どこへも行けなくて。
 見知らぬ場所で一人、攫ってきた相手から逃げ隠れるために近くにあった公園の巨木に登った。
 不安で、泣きそうで。
 怖くて、震えそうで。
 寂しくて、叫びそうで。
 すべてを押し殺して、ただ必死に木を登って隠れた。
 遠くで夕陽が落ちてゆくのが見える。これから真っ暗な夜がきてしまう。誰かに助けを求めたいけれど、誰が敵で誰が味方だか解らない。
 どうすることも出来ずに、高杉は木の上で縮こまるしかできなかった。
 体感的には何時間も木の上で隠れていたのに、そんなに時間は経っていなかったかもしれない。
 かさかさ、と木の葉が揺れて。
 暗い闇夜の中、白い月を背負って。
 ──天使が、舞い降りた。

「生きていたのか」

 天使は存外、口が悪かった。
 可愛げのかけらもない。
 しかし口の悪さとは裏腹に、天使は高杉を心配そうに見つめる。

「お前、タカスギシンスケだろ? 蛟の」
「……」
「寒くない? ちょっと待ってろ」

 天使は羽織っていた上着を脱ぎ、高杉に手渡す。
 変温動物のワニ目の遺伝子が混じっている蛟は、外気温が低くなると冬眠しやすくなってしまうので、高杉はありがたく渡された上着を受け取り、少し考えたのちに羽織った。
 他人の服を着るのが嫌だったとかじゃない。渡された上着は天使が着ていたものらしく、とても甘い匂いがして嫌ではなかった。ただ、小さくて高杉には着ることができなかったのだ。
 白い両翼に、銀色の髪。
 羽織っていた上着の下は袖のないワンピースみたいな服を着ていて、翼が動かせるようになっていた。ちなみに短パンを履いているので、飛行してもワンピースの中は見えないようになっている。
 大人っぽい態度や少し横柄な言葉遣いとは裏腹に、天使は高杉より一回り小さく、触れたら折れてしまいそうなほど華奢で。
 恐る恐る伸ばした凍える指が、温かくも小さな手のひらに握りしめられたとき、安心して場所も弁えずに泣きたくなった。

「……俺、助かる?」
「もう見つけたし、助けを呼ぶからだいじょーぶ」
「本当?」
「ほんと。けど、枝が折れそうだからそっちにいて」

 ふわふわと小さな羽根で宙に浮いたまま、器用に片手で高杉が身を隠していた木の枝をかき分ける。どうやら止まれる場所を探しているようだが、子供とはいえ二人が座れそうな場所はなくて。
 天使は諦めて手を繋いだまま、巨木のてっぺんに立つ。
 ──見知らぬ地、暗くなってしまった空、遠くに浮かぶ月。
 不安になるにはこれ以上ない条件だというのに、なぜか高杉は心細くなかった。
 月光よりも、白い羽根。
 月よりも、明るく慈愛に満ちた表情。
 上着を羽織っていないので、天使の白い羽根がよく見えた。黒く、擦れた古い傷がところどころにあって、笑顔とは裏腹に痛々しい。
 つきんと、鋭く痛む高杉の胸中など知らない天使は、木の下を見下ろしている。

「よく登れたな。高いところは苦手じゃないのか」
「……好きじゃ、ないけど、登れなくは、ない」
「意地っ張り」

 くすっと、天使が初めて笑って。
 高杉と手を繋いだまま、大きな声で叫んだ。

「しょーよー! ここにいるよ!!」

 しょーよーとは、剣術を習っている松陽先生のことだろうか。
 木のてっぺんに立つ天使とは違い、高杉には木の葉のせいで人など見えない。立ち上がろうにも不安定な枝上で立つのは天使でなければ難しすぎる。
 不安げに天使を見つめていると、にっこり笑って。
 白い羽根をゆっくり羽ばたかせる。

「──…銀時」
「……ぎん、とき?」
「……俺の名前。覚えなくていいよ」

 その瞳は、沈んだ夕陽より真っ赤だった。
 ことん、と、何かが落ちる音がした。



 大切なものを失くしました。
 天使は翼主という絶滅寸前の斑類で。本来なら存在さえも秘匿らしく、見つけるために何度、銀時の養父である松陽先生に頼み込んだことか。
 どうしても天使が欲しくて。
 ──天使以外、欲しくなくて。
 天使を手に入れるために高杉が日本のトップに立つのは、また別の話。



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