罪を得た少年


 恋って偉大だ。
 あなたの大切なものを奪ってしまったのだから。
 だから、俺はここには在られない。
 さよなら、さよなら、──…さよなら。
 けど、けどさ。
 あなたから貰った名前を、そのまま持って行くのは許してほしい。
 これだけは、誰にも譲れないし置いていけないから。
 またあなたに、俺の名前を呼んでほしいなんてワガママは言わない。
 最後に呼んでくれて、ありがとう。
 さよなら、──…たかすぎ。



 山のあいだに、月が浮かぶ。
 村から見るよりも、月は近く大きく感じる。白く、まんまるの月が湖に反射してきらきら光り、いっそう眩しく輝いていた。

「たかすぎ、月が見える」
「あァ、村から見るより綺麗だろ」
「綺麗だけど、さ」

 ──…帰らないと怒られる、と、銀時は小声で呟く。一応、高杉には聞こえないように配慮したつもりだ。もっとも、聞こえていたとしても高杉は銀時を早く帰らせようとはしないだろうし、高杉のちょっと固い膝から銀時が下りることだって許さないだろう。
 心がとても狭いのだ。
 銀時のすべてが高杉で埋まっていないと嫌で、銀時が他のことを考えるだけで嫉妬する。
 狭量すぎる、偏屈な水神サマ。
 そんな狭量で偏屈でワガママな水神サマの指先をちょろっと舐める。杯に浸していた高杉の指先は、なぜかとても甘かった。

「……ん、ちゅ」
「腹が減ったのか? 夕飯の心配はいらないぜ。魚を取ってきてあるから、焼いて食え」
「そういう問題じゃないんだけどなー」
「そういう問題だろ。帰ったって、居場所も意味もないだろ」
「……そんな本当のこと、言わなくてもいいじゃん」
「悪ィ」

 舐めていた高杉の指先をぎゅっと握る。痛みなんて感じないだろうけど、少しでも銀時の胸のちくちくが伝わるように。
 悪い、なんて微塵も思ってなんかいないくせに。高杉は長らく人間から遠ざかっていたせいか、人間の機微や感情にとても疎い。
 それこそ、銀時の思っていることをわざとじゃないかってぐらいに裏切りまくってくれる。
 高杉は山奥にある、この湖に棲う水神サマだから。
 人間と同じ言葉を遣い、人間のような身なりをしているのに生きている場所が違うのだ。
 高杉とは一緒に生きられない。
 それでも、高杉と一緒に居たいと願ってしまった罰なのだろうか。
 ──もう、三ヶ月も村には雨が降っていない。





 たかすぎ、月が追ってくるよ。
 あァ? 月は動いてなんかねェ。てめーが動いてるから追ってくるように見えるだけだ。
 え? 月は動いてないの?
 一寸も動いてねェぞ。
 けど、動いてたんだって! 俺のこと追っかけてきてたって!
 ……へェ? 俺以外にてめーを追うやつがいるってのか。 
 追うやつってか、月だよ?
 月だろうがなんだろうが、てめーは誰にも渡さねェよ。
 なんの話? 高杉ちょっと拗らせすぎじゃない?





 俺は誰のものでもない、とはっきり言えたら違ったのだろうか。
 走り続けて、歩き続けて、逃げて逃げて逃げて。
 疲れて倒れ込んだのは、青く柔らかい草むらだった。
 ふわり、鼻先にてんとう虫が止まる。
 さやさや葉先が風に揺れて、いい感じの木陰のせいで意識が遠のいていく。眠ってしまいそうになる。眠ってはだめだ、早く立ち上がって、歩き出さないと追い付かれてしまう。
 それでも、少しだけ、ほんの少しだけだから休みたいと瞼が勝手に閉じる。ずっと休んでいないから仕方ないと、優しく揺れる青い草を掴む。
 雑草も枯れてしまった、故郷のあの村はどうなってしまったのだろう。
 ──もう、帰ることはないけれど。

「ぼうず、どこから来た」
「……」
「こんな所で行き倒れとは珍しい。ほら、水でも飲め」
「い、いらない」
「水を飲まないと、ほんとに死んじまうぞ」
「──…いらない」

 ことり、目前に置かれた陶器の器になみなみ注がれている透明な水。
 死んだ方がマシだと、思っていても死ねない。
 死にたいと、何度自分を傷付けても死なない。
 ……どうやら、自分はもう人間ではないようだ。感じるのは喉の乾きだけで、痛みも苦しみも全く感じなくなっている。
 なぜ喉の乾きを感じるのだろうか。
 空腹とかじゃない。何かを食べたいとは思わないから。
 ただ、高杉の手ずから飲ませてもらった、あの甘い水がとても飲みたい。

 ──…ぽちゃん、水音が、……した。
 ぽつん、と頬が濡れる。
 少し、肌寒くて身じろぐ。このまま眠っていたいけど、どうやら雨が降り始めたようだ。屋根のあるところへ行かなければ。
(…………ん、あめ……?)
 がばりと慌てて起き上がると、あんなに青かった青空は隠れて灰色の雲があたり一面を覆っていた。

「見つけたぞ。銀時」
「たっ、たかすぎ──…ッ」
「この俺から逃げられると思ってンのか」
「思ってないから! だから見逃してくれてもいいだろ!」
「俺が見逃して、てめーはどこへ行くンだ?」
「ど、どこだっていいだろ、高杉には関係ないじゃんか!」
「てめーがここにいるから、雨がまた降り始めた」
「……俺のせいじゃない」
「力の使い方を覚えろ。てめーはもう、人じゃねェンだから」
「──…す、」
「あァ?」
「返すから! 水神の力なんて返すから、……人間に戻りたい……」
「ハハッ、人間にイケニエとして捧げられ、それでも人間でいたいなんてなァ、滑稽じゃねェか。──…銀時」

 びくん、と銀時の肩が揺れた。
 高杉は何も変わっていない。人間の、銀時の複雑な心情を察することも、感じ取ろうとする気も毛頭ないのだ。
 何を言っても、無駄だとわかっているのに。
 どうして、だろう。
 ……こんなにも悲しくて、涙が止まらなくなるのは。

「た、……すぎ、」
「てめーは俺と生きていくしかねェんだ。銀時」

 諦めろと、高杉は嬉しそうに嗤う。
 降り始めた激しい雨は、高杉の言うとおり当分は止みそうになかった。
 銀時がいる限り、ずっと降り続けるのだろう。


 湖の水神は気まぐれで。
 恵みの雨をもたらす時もあれば、日照りに無関心で、村に容赦なく乾きを与える時もあった。
 残酷で無慈悲な神サマ。
 その神に縋って生き延びてきた貧しい農村だったのだが、今年は状況が去年とは違った。
 今年は全く雨が降らず、梅雨なのに空は晴れきって、夏を目前にして乾ききった畑は干からびた稲がそのまま残されていた。
 干からびたのは稲だけじゃない。人間の心も荒み、誰にも銀時の声は届かなかった。

「俺が高杉に頼んでくるから! 高杉ならなんとか出来るからさ、落ち着けって」
「高杉って誰のことだ、銀時」
「おまえはこの時のために生かされてきたんじゃないか」
「村のために、悪いが死んでもらおう」

 水神の機嫌を取るために、イケニエとして生かされていたのが銀時だった。
 銀時は水神への生贄となり、湖に捧げられて。
 死んで終わるはずだったのに。
 水神はその少年を生かした。
 気まぐれか、それとも憐れみか。
 ──生きて戻った少年は、もう人ではなかった。
 
「………って、」
「あァ?」
「だって、高杉死んじゃうだろ」
「死なねェよ」
「うそだ! 俺が水神になったってことは、高杉は水神じゃなくなったんだろ」
「そうだな」
「ってことは、高杉は──…ッ」
「あァ、ただの妖に戻るだけだ」
「──…あやかし?」
「蛟って解るか? 龍とは違うが蛇でもない、まァ化生のひとつだ。神より長くは生きられねェが、人間よりは長く生きられるから安心しろ」

 ぽんぽん、銀時の頭を高杉が不慣れながら、優しくたたく。
 ほんと、なんでこんなに不器用なんだろう。もっと早く教えてくれた逃げたりしなかったし、銀時だって拒まなかったのに。
 久しぶりに温かくない、鱗だらけで柔らかくもないけど愛しかった高杉に触られたのと、安心したからだろう。銀時の瞳から流れる涙が止まらない。
 ぎゅっと高杉に抱きついて、溢れる涙を高杉の高そうな着物の袂で拭く。これぐらいの嫌がらせは怒られないだろう。確信犯で高杉にしがみつく。
 
「あの湖はもうてめーのモンだ。好きに使え」
「……好きに使えって言われても」
「あァ、言い方が悪いか。てめーと俺が棲まう場所だから、早く帰ンぞ」
「──…っ、」
「これで、正解か?」

 大切なものをなくしました
 水神は、死んだ銀時を生かすために神ではなくなった。
 神格を失い、大切なものをなくしたというのに。蛟は人間のように嗤いながら、愛おしい者の名前を呼ぶ。



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