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曹洪を負傷させ、攻城隊も潰した。二万に満たなかった自軍は一万減り、曹操軍四万は半数に減った。善戦したほうだ。
夏侯惇に弓騎を潰走させられ、琉漣自身もまた、利き腕を潰された。暫くは、使い物にならないだろう。
あとは残った兵と、汝南の守備に就いていた二万弱で守る他無い。周辺豪族が陳留からの援軍を阻止してくれたのには、心底救われた。彼らは袁術も牽制してくれている。
歩墻の縁で頬杖をついて、琉漣は曹操軍の野営の光を見つめた。日が暮れてからの戦は難しい。それも新月なら尚更だ。今は両軍とも、一時矛を収めている。
「小(ちぃ)若さま、お休みくださいませんか」
老臣が、眉根を寄せて言ってきた。
「休んでいますよ」
「身体を休める、というのであれば、お邸へお戻りください」
「戦の最中に、一人だけ帰る訳にはいきません」
「怪我をなされておいでです」
「邸にいても、戦局が気になって休めませんから」
「小若さま」
懇願するような、諌めるようなしわがれた声は無視をした。
あの、点々と燃ゆる灯火の奥にいる曹操の首を落とせば、彼の軍は引き上げるだろうか。
厳重な警備をくぐり抜けて、確実に曹操を殺せる者は、汝南にあるか。あったとして、死を覚悟で忍び込んでくれるか。
(……駄目か)
恐らく、夏侯惇が烈火の如く怒り狂う。そして全力で城門を突破し、汝南を落とすだろう。
「小若さま。かつて若様は言っておられました。敵も味方も、出来る限り死なせずに戦を終えたいと」
老臣は琉漣の肚を見透かしたような事を言った。
曹操の寝首をかけば、将兵は悉くが殺されるだろう。誰が反対しても、激怒した夏侯惇はやってのける。あれは、そういう男なのだと、琉漣は思っている。
言葉を、交わしたことなど無い。顔を合わせたのは黄巾の乱の一度だし、夏侯惇はどうにもこちらを疎んでいる様子だったので、琉漣も敢えて近づこうとはしなかった。だから、"やりそうだ"というのは、義父から聞いた人となりだけの印象だ。
「勝つか負けるかは、この老いぼれには分かりかねます。ですが、若様を思うのでしたら、若様の言葉を、どうぞお留め置きくだされ」
「……はい」
義兄を出されると、どうにも弱い。ほんとうに、あの兄が好きだったのだ。
出来るだけ、彼が悲しむようなことは避けてやりたい。そう思うと、やはりどうしても弱くなる。
「というのも、殿が小若さまを案じておられましたので」
「義父上殿が?」
「まだ、お若くていらっしゃる。小若さまは。それ故に無茶な戦も出来ますが、無謀なことをしそうで怖いと、仰せでございました。私も、殿と同意見です。あなたは礼節を弁え、涼やかな挙措であるのに、どこか荒い性質も持っていらっしゃるので。恐らく、それは以前の小若さまがお持ちだった性質なのでしょうが」
拾われてから一年で、礼儀も基本的な学問も、武技も覚えた。そのころから、身体を動かすほうが楽しかった。
記憶をすべて無くしても、自分のそこここに以前の己が息づいていると感じる。
「記憶を、取り戻したいとお思いには?」
「いいえ、一度も」
「小若さまをお産みになられたご家族が、小若さまを望んでいてもですか」
「私はもう、琉子然ですから。それに今のこの国で、子がひとり消えたというのは、別段悪いことではないように思います」
民草の生活は、非常に厳しいものとなっている。汝南や劉虞の薊、曹操のエン州などはまだ良い。しかし他の地では、食うに困って子を捨てる家庭まであると、琉漣は聞いている。
そのような土地の出であれば、戻ったところで困らせるだけだろう。
「彼の男は、死にました。あとはもう、身の内に痕跡があるのみです。私は、そう考えています」
それに、どのような傷があるかもわからない。記憶をなくすほど酷い目に遭っていたとしたら、そんなことは思い出さないほうが良いのだ。
琉靜を喪ってただでさえ傷ついているのに、これ以上苦しいものを仕舞い込むのは、琉漣にはまだ耐えることが出来なかった。
「……詮無いことを申しましたな。お許しくだされ、小若さま」
どうかお休みを、と礼をして、老臣は踵を返していった。
琉漣は、城郭の外から琉元の守る北門へ視線を移した。
月も星も見えない。住人達の不安が、雪のように静かに降り積もる夜。
義父の世界には、このような夜でも、月があるだろうか。あの日の満月は、欠けてはいないだろうか。
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