満月の夜だった。
 邸宅の院子で酒を飲んでいた琉元が、杯を置いた。
 養父は少し変わった、と琉漣は思う。はっきりとそれを感じるようになったのはごく最近のことだが、変わったというのなら恐らく、黄巾の乱を終えてよりだろう。
 人の善い義父をじっとみつめる。彼は一人息子を亡くしたのを、ひどく嘆いているのだ。あれは昨年の十月だったか。皇甫嵩に乞われて、琉靜は彼の軍と張梁を討ちにいった。そこで死んだ。
 彼の討死を伝えにきた皇甫嵩と郭典が、琉靜の最期を立派な武人だったと云っていたのが、琉漣に取っては少なからず救いであった。琉漣は、武人の顔をした義兄をとても好いていたからだ。
 もちろん、何故彼が死ななければならなかったのか、と思ったこともある。そうして突き詰めて考えると、朝廷の腐敗に行き着いた。後漢王朝に忠義を誓っている養父の手前、そんなことは言えなかったけれど。
 張角らが蜂起したのは、私欲のためではない。国の圧政に苦しむ民を、救おうとしてのことだ。実際に彼らは占拠した都市などをよく統治したというし、少なくともあの三兄弟は、ひたすら民のために戦っていたのだ。
 国という強大な獣に歯向かってまでも、混迷の世に泣く民草を救いたがっていた。そして、太平道なら成し得ると信じて、志を同じくする者達と立ち上がった。
 民による謀反が起きるまでに、漢王朝は腐敗している。黄巾の乱が集結しても尚、朝廷は省みなどしなかった。

「義父上殿」

 琉元は応えない。

「この国は、変わるべきです」

 反応はなかった。

「変えなければいけません。朝廷の腐敗は、誰が見てもあきらかなこと。それは邪な輩が、良い官吏よりも溢れているからではないでしょうか。宦官の専横などもひどいものだと聞きます。義父上殿――」
「私はな、漣。王室に背く気はないのだ」
「誰も背け、とは申しておりません。ただ、止ん事無きお方のお召し物が汚れておいでです。新しいお召し物を差し上げるか、洗って差し上げるかせねばなりませんでしょう」
「そう、簡単ではないぞ」
「民を蜂起させたのは、もとを辿れば朝廷です。義父上殿、あなたは民を安んじよといつも汝南の官吏に説いておいでだ。なのに目上の暴虐は許しておくのですか。だと言うならそれは矛盾していて、あなたは臆病だ。唯々諾々と従っていることが、忠臣ではないと、子然は思います」

 腐敗していなければ、琉靜が死ぬこともなかったかもしれない。
 朝廷の腐敗が琉靜を殺したのだ――とは、さすがに口にしなかった。愛おしい義兄を奪ったあれを許す気にもなれないし、憎しみばかりが渦巻くけれども。
 このどす黒い炎だけは、一生己の胸中に仕舞って出さないようにしよう、と琉漣は思った。琉靜を帰せと刃を振るったところで、どうにもならないのだ。復讐する対象が、復讐できるところにはいない。

「ふ……ははは」

 彼にしては珍しく、琉元は哄笑する。普段琉元はもの静かに笑むので、声を上げて笑うのは本当に珍しいことだ。

「言いよるな、漣」
「諫言してこその臣下であると、ご理解いただけましたでしょうか」
「ああ。そうだな。このようなことを言いたくはないが、民が立ち上がったところで朝廷は変わるまい。なら、私たちで民がどれほど苦渋を強いられているのか、伝えねばならぬのだろう」

 月を見上げて、琉元が笑った。いつもの、静かな笑みだ。
 空になった盃に酒を注いで、琉漣は目に力を得た養父を見つめる。

「月のようだなあ、漣は」

 それが女のような細面を言っているのなら反発したが、琉元の声色は、しみじみとしたものだったので、呆気にとられた。

「靜が死んでから、私の世界はいつでも夜だった。愛した妻の忘れ形見までもがこの世を去って、私は悲しかった。漣を、愛していない訳ではないのだが」
「仕方のないことです。血のつながらない私でさえ、義兄上殿の死は、辛うございましたから」

 琉漣には、己がどこの誰であるかという記憶が、琉元の言う河辺で倒れていた以前の記憶が存在しない。ただ名前を、漣の字が入った名前を覚えていただけだった。
 だから、家族というものも、そのあたたかさも知らない。
 家族がどれほどに優しいのかを教えてくれたのが、琉父子だった。長い時間をともにした訳でもないのに、琉父子と琉漣は、本物以上に家族だった。

「うん。だからこそな、漣。おまえを月だと言ったのだ」
「と、おっしゃいますと……?」
「私の世界は、恐らくずっと夜なのだ。けれどな、漣という月が昇ったよ。とても明るい、満月だ」

 では、と言って、琉漣は天を仰ぐ。青白く冷たいが、人を突き放さぬ光を降らす満月が、そこにはある。

「あの満ちた月に誓いましょう。私は義父上殿と志を同じくし、この大陸に黎明をもたらさんと。天下万民が、今宵のような美しい月に見惚れることの出来る、安寧をもたらさんと」



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